たしかに不美人より美人のほうがいい。
カタチが悪いよりいい方がいいに決まってるじゃん……。
そんな規格で生きて来た私たち。
では、その規格ってだれが決めるの??
今朝の新聞に「形が悪いだけで捨てる おかしな社会変えたい・廃棄食材生かす学生」という記事が載っていました(東京新聞)。
記事によると、日本では食料自給率が40パーセントまで落ちてきているのに、農家でも色や形の悪さや値崩れの心配から捨てられる食品ロスを憂いた学生が立ちあがったという内容。
「日本では毎年、5百万~9百万トンのロスが出る。これは食用となる農林水産物の総量の1割近くになる。国連世界食糧計画(WFP)が途上国に行う1年間の援助量を上回るほどの量だ」とあります。
私は、生産者農家から直接野菜をとっていますが、美しい野菜などめったにお目にかかれません。サツマイモやサトイモもゴツゴツとコブがいっぱい。夏野菜のキュウリやトマトなども然りです。
自然に逆らわず、普通に育てていたら、さまざまなカタチをした野菜がとれるのは当たり前のことなのに。
不揃いな野菜たち、見かけは悪いけれど味は抜群。
しかし、今の市場原理や流通システムの中では、一般消費者がそんな野菜を店頭で見つけるのはとても困難です。
不足していると伝えられながら、廃棄されているものも多く、生活者としては大きな矛盾を感じながら生きている私たち。やっぱり、生活者と生産者が直接つながるシステムの構築が大事かしら。しかし、それには覚悟が必要だし、便利なだけでは立ち行かない現実が立ちはだかることもあります。
それぞれに個性があるのが、自然が創りだすもの、当然私たち人間もその中に含まれます。
人も野菜と同じように、世の中に流通しやすい規格品を求められるとしたら、それもおかしなことですね。
話しはズレルけれど、老後を暮らす私の理想形は、なんといっても物々交換の世界。
物々交換は、人が介在しない限り実現できない世界。今年もそれに力を入れて暮らしたいです。
定期的に送られてくる「化学物質問題市民研究会」メールサービス。
私はほかにもこの研究会が発行している「ピコ通信」もとっています。
客観的で公平でありながら、化学物質や放射能のことを鋭くわかりやすく書いていて安心できる媒体です。
その最近届いた研究会メールサービスに、「東京新聞にしよう!」という項目がありました。
原発関連に関する記事の多さを羅列していました。
私も「東京新聞」に替えて3カ月が経ちました。
同じことを感じています。
去年まで「東京新聞」のあることさえ知らなかった私。
出かけた房総半島の先で、そして東京の外れで、2度ほどこの新聞を目にして、その記事の豊富さのとりこになりました。
時期を待って「東京新聞」に替えました。それが3カ月前です。よかったと思っています。
社会活動をしている九州の知人と電話で話した時、新聞の話しが出たので、「東京新聞に替えました」と話しの拍子に伝えると、知人は、「東京新聞って、いいんですってね!!」と、すぐに反応したので驚きました。
今までとっていた新聞とどこが違うのか……うまく説明できないけれど、何かが違うのです。
紙面全体に命が吹き込まれているような……といった、そんな印象を受けます。
前の新聞は、読むところがない、と、すぐに新聞を閉じていたのに、「東京新聞」は読みたい記事だらけなので、新聞を読むのに腹を据えて読まなければならないので、時間がかかります。
「東京新聞にしよう!」「脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める全国署名」に署名しよう。
いいですね。
市民グループ《みんなで決めよう「原発」国民投票》の「原発」国民投票の法制化を実施するための署名欄を知人より紹介されました。
「実現させよう 原発 国民投票」のサイトはこちら→★
さっそく署名ページを開き、署名しました。
さらに読んでいくと、会運営のための「賛同人」も募集中で、1口1000円以上のカンパが求められています。賛同人になる方には肩書きの記入が任意ながら求められています。
賛同人一覧を閲覧していくと、著名人や有識者などに交じって肩書きのない名前だけの人も大勢います。有識者の中にも名前だけで他は無記名という方もいらっしゃいます。
中には面白い“肩書き”を名前のあとに書いている人もいます。
いちばんストレートに私の心をとらえたのは、“ありません”という文字でした。
そうか、ありませんと答えればいいんだとふか~く納得。
ほかにも“地球人”“晴耕雨読代表”“肩書きとは?”“おはなしのおばさん”“一般人”“社会的浪人”“猫好き漫画好き”“ただの主婦です”など堂々の自己主張。
中には肩書き欄に再度自分の名前を記している人も多くいます。
そんな中、一番気になったのは“元○○”という標記でした。
まあ、肩書きはその人を知るヨスガとなるわけだから、元と付いていたって悪くはないけれど、ね。
私も近いうちに「賛同人」になろうかな……1000円のカンパだったら何とかなります。
被災地訪問の旅から帰りました。
東北はシンシンと冷え込んで、雪がちらほらと舞い、結氷しているところも多かったです。
風のない日の海は穏やかで、カキなどの養殖いかだもたくさん浮かんでいるところもありましたが、それはほんの一部のようでした。
復興にはまだまだ時間がかかるようでした。
全体をみると、何かが進んだという印象からはほど遠い現実がありました。
被災された方がたも先の見えない不安がさらに深く沈潜しているように見受けられました。
車の中から、遠く「高田の一本松」を望みました。
7月~8月の旅から約4カ月、3・11からは9ヵ月が過ぎたけれど、ちょっとせつない思いを抱いて帰りました。
7月にお会いした方々にもたくさんお会いできて、いまのご様子をお聞きしましたが、私たちの訪問を皆さん喜んで下さいました。
中には、仮設住宅のご自宅の中に招き入れて下さった方がたも多く、ありがたい思いをたくさんさせていただきました。
しかし、話し込めば話し込むほど、新たな問題や悩みを抱えていることが伺え、答えの見つからない問いを投げかけられているようで、復興にはまだまだ遠く、日々の暮らしの中では次々に新しい問題が起きていることを感じました。
被災地の皆さまが少しでも暖かい冬を過ごせるよう、祈ることしかできません。
クリスマス、お正月と新しく歳次され時間が繰られれば繰られるほど、かつての暮らしがよみがえり、様々な思いがよぎることでしょう。
そんな中で、一体私たちに何ができるのでしょうか……。目の前に立ちふさがる膨大な悲しさに答えの見つからない無力を感じています。
遠くから見守り続け、できることをあきらめないで、出会いを忘れずに大切に丁寧にその関係性をゆっくりと穏やかに紡いでいくことくらいしかできませんが、この2回の訪問が自己満足に終わることなく、力を合わせられるといいなと願っています。
冬の季節のせいなのか、あまりの無力さの前に、心が晴れないまま、戻ってきました。
足もとを見つめて、一人一人が精いっぱい生きることをさらに促されたような旅でした。
3・11から9ヵ月が過ぎました。
東北は寒い冬を迎えていることでしょう。
テレビの特集番組では、母と2歳の弟、祖父、祖母を喪い、父と二人暮らしになった小学5年生の男の子や、両親を亡くし、祖父母のもとで暮らす女の子のことが報じられていました。遺された大人たちが嘆き悲しむ姿を見て育つ子供たち。
昨夜の「クローズアップ現代」では、放射線セシウムが、茨木のある公園や、柏のゴミ焼却場の残土から高濃度で検出されていると報じていました。
先日訪ねた福島では、震災当初、親戚や知人を頼って着のみ、着のまま、車で首都圏に避難した人の話を伺いました。何人もそういう人がいました。
直に話を聞いても、私自身にその体験がないため、どこか実感がわかない思いが残りました。それは当事者と私たちの間に広がる溝の大きさともいえるでしょう。
これらのニュースや実体験をお聞きしながら、何か無限地獄に陥ってしまったような日本の姿を考えます。
これから、何十年、何百年、何千年とかかってしまう放射能汚染の問題。
おそらくまんべんなく降り注いだと思われる放射能を、除染、除染と行ったところでそれは無限に広がっているように思います。
複合汚染となって、海や川を汚し、田畑を汚して沈殿して行き、それが魚やお米などを汚していくのだと思い知らされるとやりきれません。
そんな中で、原発反対、脱原発を唱える団体や企業が出て来ていることに、人の英知を感じています。
私も、どんな小さなことでもいいので、出来ることを探して、日本人の一人として生きて行きたいと思います。
今朝はよいお天気に恵まれ、ベランダから冠雪の富士がくっきりと見えます。
窓を開け、空気の入れ替えをし、洗濯物を外に干せること、それは私の日々のしあわせのひとつです。
「福島」の話しが続きます。
12月3日午後1時より5時まで、「福島でエネルギーを考えるシンポジウム」に参加しました。
その中で登壇されたパネリストの方がたのお話しはとても興味ひかれるものばかりでした。
いずれも、脱原発、原発依存からの脱却がテーマのようでした。
水資源発電・風力発電・太陽光発電・バイオマス発電・循環型農業の再生などの実践者、ならびに研究者が発表された中で、一生活者として参加した私がいちばん関心を持ったのは、福島有機ネット代表の菅野さんと、埼玉県小川町のソーラーネット代表の桜井さんでした。
菅野さんは、セシウムに汚染された土を有機農家としてどう乗り越えて行くか、桜井さんのプロフィルはこちらがわかりやすいです→★
桜井さんにいただいた名刺はパソコンで作ったと思われる手作り名刺でした。
桜井さんは、登壇後、「午前中はバイオマスエネルギーのパイプの掃除をしてきました。私の体は臭いかもしれません。しかし、循環型エネルギー、自然エネルギーとは、手間のかかる不便さを伴うモノであり、それが生活する、暮らすということです」と。
かつて私が聞いた、「もっとも便利なものを追及して行くと、もっとも不便なことにぶち当たる」ということば。
桜井さんが会場に持ち込んだ手作り太陽光パネル。
桜井さんは、「このパネルははんだ付けするだけで簡単にできるので、子供たちや障害を持った方々といっしょに作ることができます」と、おっしゃっていました。
いずれも、強いリーダー性と高い見識を裏付ける、実践者として強い魅力を感じました。
その前、午前中に行われた「車座・ワークショップ」では、ワールドカフェスタイルで8つのテーマに分かれ、ファシリテーターを中心に参加者がディスカッションし、意見交換し、意見集約がなされました。
4~5人に分かれて、私はその中の「観光」と「再生可能エネルギー」のグループに参加しました。
そのいずれもとても面白かったです。
特に「再生可能エネルギー」のグループでは、まずこれまでの暮らし方を見つめ直すことからはじめようと、そこからスタートしました。
福島がベースにあることから、福島○○町では、特区をつくり、「日の出とともに活動し、日没とともに休眠する町構想などの意見も出されました。
あるテレビ番組の話題になり、どなたかが、「どうして昭和を代表する“サ○エさん”のホームドラマの中で電気が煌々と使われているのか疑問です」、さらに別の方が「“サ○エさん”さんは、大手家電メーカーT社が番組スポンサーなんです」とタネをあかし、全員が納得するという場面も。
このグループでの意見発表のテーマは「“サ○エさん”サヨウナラ」ということになりました。
エネルギーシフト、代替エネルギー問題などどうしても私たちは難しく考えがちだけれど、ほんとは身近な疑問に「あれっ?」という問題意識を持ちさえすれば、どんどんそのしくみやからくりがあかされていくということなので、とても簡単なことかもしれません。
実感をそのままにするのではなく、これまでの暮らし方を振り返り、どんな小さなことでもいいので感じたひとりひとりが出来ることを行動に移すことも大切なことだと思います。
12月2日~3日に行われた、結結(ゆいゆい)プロジェクト主催の、「第2回 復興地の女性リーダーたちの車座」&「福島で未来のエネルギーを考えるシンポジウム」に参加しました。
そのときの様子は、このブログでも追々発信して行きたいと思います。
著名な有識者なども多かった参加者の中で、私は一生活者としての参加の中でたくさんの方の意見を聞き(隅っこで)、交流しましたが、特に印象に残った現地で暮らす方がたとこれから親交を深めたいと思います。
被災された方々が困窮を極める中、「草の根」で何が出来るのか……が、私のこれからの生き方のテーマのひとつですから。
訪問先の、楢葉町の人々が避難し暮らす仮設住宅。一角で仮設のスーパーマーケットが開いていました。
小さな魚の天日干しが何かを訴えているようです。
久之浜の海神さまを祀っていたのでしょうか?
海に向かって建っていた小さなお社。赤い鳥居が残されました。
私をこの会に誘って下さったゴッドマザーで、君代さん。自称、“下町のおばちゃま”です。
お社の後ろには数軒の残された家々。
ガレキ撤去をしたボランティアの若者が集まり、アートペインティングの作品が出来ました。
思いついた“何か”をすることによってできあがった絆がさらに大きな力になってこの町の復興支援グループとして育って行っているようです。
上の写真2枚はバスの中から写したJヴィレッジです。
交代作業員と思われる方がたがヴィレッジに向かっていました。
原発事故対応の拠点となり、ここから防護服などに着替え、原発現場に専用バスで人が運ばれて行きます。
同じ日本の国内にこういう施設があるのだという歴然とした事実。
私たちひとりひとりがいつも心の片隅に持ち続け、忘れてはいけないもののひとつです。
昨日朝、東京を発って、いわき湯本温泉に泊まっています。
昨日は、いわき公園の中にある仮説住宅や久の浜、Jヴィレッジを見学しました。
夜の宿となった旅館は、震災以後、はじめて私たちの団体を受け入れたそうで、温泉は部分的にようやく復旧が間に合ったといっていました。
夕食は、出前のお寿司とお吸い物だけというシンプルさが、今日までの風評被害を含む罹災の大きさを物語っているようでした。
夜は、現地でふるさとの復旧に心血をそそぐ地元の方々のお話しをききましたが、皆さんの3.11当日とその後のお話しは、事実の重さとともに、具体的で説得力にあふれ、首都圏から参加したどんなキャリアを持った人のお話しもかすむほどの迫力で、私の心をわしづかみにしました。
今日も午後5時までスケジュールが組まれています。
(iphonより投稿)。
今朝の東京新聞1面にパンの缶詰の記事が載っていました。
いい話だなあと思って読みました。
「NPO法人・災害支援機構 WE CAN」で、非常用のパンの缶詰で知られる製パン会社社長が中心メンバーです。
私は、阪神大震災後、震災調査に加わった知人の紹介でパンの缶詰を1箱(たしか24缶か30缶入りだった)買ったことがあります。我が家の備蓄用としてタンスの上に段ボールのまま置いていたところ、3年の賞味期限を過ぎて気づき、結局はもったいないので食べましたが。
のちにWE CANのパンは若田光一さんがスペースシャトルに搭載したそうです。
新聞によると、システムでは1口5000円の寄付をすると、WE CANでパンや水、布団を購入し、契約ができた寄付者の近くの備蓄倉庫に備蓄され、救援物資として行政に頼らず早く直近から被災者に届けることができるということのようです。
さらに2年を過ぎたパンの缶詰は回収し、食料不足に苦しむ海外の国に送るシステムも完成しているようです。
パンの缶詰が、消費期限切れを起こすことなく無駄なく巡回するシステム、いいですね。
パンの缶詰は乾パンと違いやわらかくふっくらしていて美味しかったことを記憶しています。
自宅の備蓄用にこのパンの缶詰、購入しようかな……。
11月27日(日)、市原市民の森のイルミネーション点灯式が行われました。
今年のテーマは、赤を増やし、「ガンバレ東北・ガンバレ市原」です。
3月11日の東日本大震災のあと、様々な議論を重ね、催行か中止かなども踏まえて、今日のこの日に辿りついたようです。
陽が沈んだ里山に広がるイルミネーション。
夏の菖蒲畑に水が張られ、電飾の演出効果を醸し出していました。
午後5時から行われるイルミネーション点灯式に先駆け、里山ボランティアの方がたが朝から繰り出しました。
私も、朝7時の電車に乗り、五井駅で友人のヨシミちゃんに拾っていただき、五井からは車で市民の森に行きました。
市民の森はお天気に恵まれ、風も無く、焚き火の準備も出来ていて、「飯給・松本グループ」との再会を喜び合いました。
(写真左は、シェフ山田、「飯給里山便り2」を書くitabueki松本先生、斉藤さん、ヨシミちゃん、斉藤さんの友人/写真右は、左から平田さん、山田さん)。
みんな仲よしです。
地元ボランティアグループの中からさまざまな出店が出て、豚汁や焼きそばや焼きとり、手打ちそば、ぎょうざの揚げ菓子などのほか、お餅をついて、のし餅や、ちぎり餅の販売などが行われたけれど、私の今日の役目は、そのスタッフの方がたのために昼食用にふるまわれるシェフ山田のカレーライスつくりを手伝うことでした。
150人分を作りました。なべをこがさないように、かき混ぜる役目で、よい運動になりました。
私にとっての今日の圧巻は、鮎の塩焼きでした。
炭を起こし、塩を振った鮎をあぶり焼く……美味しかった~!!!!!
作る笑顔、頬張る笑顔、みんなみんなステキでした。
市民の森では、常設で森で収穫した野菜が売られ、冬は焼き芋の販売も行われています。
おいしそうなクレソンもありましたよ。
「市原ぞうの国」から、ぞうのマスコット・エルファくんもやってきました。
おいしい里山の空気と、地元産食材を使ったおいしい出店の数々。
たっぷりとお祭り気分を味わうことができました。
お世話して下さった皆さま、ありがとうございます!!!
この日の様子は、このお祭りの中心者のひとり、「飯給里山便り」のitabuekiさんのブログに詳しく書かれています。
こちらもご覧下さい。