
ガラガラガラと音を立てて崩れる、わずかスーパーのレジ袋3つ分の不要と分類された我が家の食器類。何とたくさんの逡巡があり、捨てられずにいたことか。
捨てればいいというものではなく、必要な人のところに嫁に出すことも考えないではなかったけれど、私が不要としているものは巷にあふれる大量生産されたモノたちで、相手にとっても不要に違いないとの思いに至った次第です。今や100円ショップ全盛の時代でもあるし。
「不燃ごみの日」にひそやかにこうやって葬られて行くモノたちの哀れ。手を離れ、視野から外れたとたんに在ったことさえ記憶から忘れられていくモノたちです。
それにしても、なんとたくさんのモノを持っていることかと毎度のことながらため息が出ます。
人が生きて行くためには気に入ったほんの少しの身の周りのものがあればいいのに……。
しかし、ため息をつきながらも我が家のモノ減らしは着実に進んでいます。収まるべきところに収まっているモノをさらに吟味し減らしており、食器戸棚の中には、必要なものをすっと取り出せる“間”が戻ってきました。椅子を使って取りださなければならない数か所のつり戸棚の中はどれも空っぽになりました。
「いつか使うかもしれない、いつかっていつ?」と自らに問いながら、要、不要を分別していく作業は楽ではないけれど、確実に荷物が軽くなっていくことが目に見える楽しさがあります。
日本中の家庭の中に埋もれているこういった類の“ゴミ”をみんなが一度にゴミの日に出したらどうなるのかしら?などと心配しながら、ゴミを出すたびにゴメンナサイと小さく謝っている私。
先日の新聞の投稿欄に「誕生日のたびに100円ショップでマグカップを買うことを楽しみにしている」という女性の文が載りました。「100円ショップのマグカップをコレクションしてどうなるのかしら?」と、人様のことながらここでも意味不明のため息を漏らしてしまった私。楽しみも価値観も人様々でどれも批判の対象にしてはいけなくて、もっぱら自分と自分の周りにあるモノとの葛藤と対峙がしばらく続きます。