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ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

映画「不都合な真実」でアル・ゴア元アメリカ副大統領舞台挨拶

2007年01月15日 | 映画・芝居・芸術など

15日、インターネット新聞社「janjan」の市民記者として、「不都合な真実」上映に先立ち有楽町にある「朝日ホール」で行われたアル・ゴア氏のレッドカーペットと舞台挨拶をjanjan編集部のカメラマンと一緒に取材した。

映画「不都合な真実」は、地球温暖化など環境問題を扱ったゴア氏主演のドキュメンタリー映画。20日からロードショーが各地で行われる。
わたしの取材の内容は、帰ってすぐにすでに原稿として送っているので近々「janjan」でアップされることと思う。

アル・ゴア氏はカーター政権下で副大統領を務めたのをはじめ、アップルコンピューターのスイッチャーとしても知られている。

今もっとも世論の関心の深い事柄のひとつに地球温暖化が挙げられると思う。
環境問題に30年間取り組んできたアル・ゴア氏のスピーチは魅力的で説得力があった。
ドキュメンタリー映画は往々にして地味な映画が多く、どんなにいい映画が作られても人々の目に触れられる機会が少なく、従って興行成績が振るわないという負の連鎖の中で上映が行われていることが多く、残念な思いをしていたが、この「不都合な真実」をきっかけに、温暖化問題はもちろん、ドキュメンタリー映画の素晴らしさに人々が気づいてくれることを願わずにはいられない。

さすが大物の登場に、会場前エントランススペースに敷かれたレッドカーペットの前には取材陣がひしめき合い、300人は取材人と関係者で埋め尽くされていたように思う。
「なんだよ~この人数。ドキュメンタリーなのにこんなに人が来ているのかよぉ。これじゃ撮れないよぉ」と嘆く遅れてきたカメラマンのぼやき声があちこちで聞こえて来た。

目の前のレッドカーペットを藤原紀香さんなど著名人招待客が歩いていく。
アル・ゴア氏がテレビ取材に応えた後、笑顔で「サンキューベリマッチ」「ありがとう」と手を振りながらゆっくりと歩いてくれる。
普段は広いスペースも狭さを感じさせながら、しかし和やかで華やかな場と化していた。

レッドカーペットが終わり、ホール会場に移動。
ここでも取材者が前列1列目、2列目を占め、1列目の前に座り込んで取材する人たちが別にもう1列列を成していた。わたしは2列目に座った。

アル・ゴア氏の舞台挨拶は通訳も含めて15分弱くらいだったと思う。

2000年のブッシュ現大統領との大統領選に破れたアル・ゴア氏でもある。
彼が大統領になっていたら、環境問題もここまで深刻にはならなかったのかなどいろいろの想念が頭をよぎった。

「深刻な温暖化もまだ希望がある。映画を観た人たちが目と耳で観るだけではなく心で観て、意思を持って行動することで希望が持てる」と語っていたことが強くわたしの心を打った。
「そしてこの意思こそが、再生できる資源」と強調していた。

巧みな洗練された言葉、そして解りやすい言葉を使って舞台挨拶をするアル・ゴア氏を見ていて、日本の政治家の語りかける言葉の貧しさを思ってしまった。
言葉は力を持っている。言葉はそれだけですごいと聴いていて思った。






得るものと失うものと……チャップリン「街の灯」

2007年01月08日 | 映画・芝居・芸術など

チャップリンの名作「街の灯」。(チャップリン主演・監督)
500円で売られているDVDをパソコンにセットして観る。

盲目の貧しい花売り娘と妻に去られて自殺を図ろうとしている富豪、そしてチャップリン扮する街の浮浪者が織り成すストーリー。
「浮浪者チャップリンと盲目の花売り娘のラブストーリー」と表題にある。

「街の灯」の中のチャップリンは、山高帽、ダブダブのズボン、ステッキ、付け髭、そしてズボンに比べて窮屈な上着に蝶ネクタイ。それに先のとがった靴。お馴染みのいでたちである。そして“ペンギン歩き”も。
人の良さそうなしかし頑固で可笑しい浮浪者チャップリンは、路上で花を売る貧しい盲目の女性から花を買う。おつりを渡そうとした花売り娘の前を車のドアを閉める音の後にエンジン音が過ぎ去る。
花売り娘は花を買ってくれた人は車に乗って去って行った紳士だと思い込む。

あるとき、花売り娘の母子が貧しさのあまり家賃も払えなくなったことを知ったチャップリンは、一肌脱ごうと、掃除夫になって精を出したり、ボクシングジムでボクシングによる50ドルの賞金を手に入れようするが、上手くお金を工面出来ず、かって海に飛び込んで自殺をはかった富豪を助けたことがきっかけで知り合いになったその富豪がヨーロッパから戻っていることを知り訪ねる。

100ドル貸して欲しいと頼むつもりのチャップリンに向かって富豪は「1000ドルで足りるか?」と問い、気前よくチャップリンに1000ドルを渡す。

チャップリンはこの1000ドルを持って盲目の花売り娘の元を訪ね、家賃の他に目の手術代にと1000ドルを渡す。
わたしは、ここのシーンがかなり鮮烈に印象に残り、その場面をイメージの中で反芻する。
1000ドルの内、チャップリンは最初紙幣の一枚を自分のポケットに入れる。そして残りを家賃と、目の手術代にと渡したが、女性も奥ゆかしくなかなか受け取ろうとしない。押し問答の末、お金を渡すチャップリンに女性は深く感謝し、チャップリンの手をとってキスをする。それに気をよくしたチャップリンは、ポケットに入れた残りの紙幣も彼女に渡してしまう。

やがて季節が移り晩秋、一文なしになっていっそうヨレヨレの浮浪者になったチャップリンが街をさ迷い歩く。疎ましげに見つめる街の人たち。
その中に、チャップリンのおかげで目の手術をし、メイン通りに花屋を開業したかっての盲目の花売り娘もいた。

ボロを纏ったチャップリンを見て笑い転げ、哀れんで花を一本とコインを渡す。
出逢いに驚くチャップリン。花売り娘を見つめながら去ろうとするチャップリンの手にコインを押し込む花売り娘は、やがてかってイメージした恋人の手の感触を思い出す。
見詰め合う二人。

花売り娘:あなたが?……
チャップリン:目が見えるように?……
花売り娘:ええ、みえますわ……

そして「街の灯」は終わる。モノクロの無声映画に時々日本語の字幕スーパーが入る。

恋の行方に関してチャップリンは何も語らないままに「THE END」。
観る人の判断に委ねているが、わたしは花売り娘のボロボロのボロを纏ったチャップリンの手を握ったまま離そうとしないしぐさにハッピーエンドを信じている。

人生には「得るもの」と「失うもの」が交錯するが、チャップリンの我が身を顧みないで人、それがたとえ実らぬ恋であっても恋人に100パーセント尽くすシナリオにはチャップリンの人生哲学が色濃く投影されているに違いない。
貧しかったがゆえに自分のことしか考えられずケチな人もたくさんいるし、貧しかったがゆえに人への思いが深い人もたくさんいる。

どたばたの喜劇を描きながら、こんなにも深く心に沁み込む数々の場面。
チャップリンのチャップリンたる所以。折に触れて繰り返し観たい。観る時の心の状態によってもまた違った示唆があるに違いない。