以前に住んでいたアパートの前に、まるで屋敷のように巨大な一軒家が建っていた。
その家には拾い庭があり、大きなリンゴの木が植えられていた。一見なんの変哲もない普通のリンゴの木なのであるが、よく見ると一番下の枝にカラスの死体が吊るされていた。まるで首でも吊っているかのような格好で。
そうする目的が僕にはよく分からなかったが、恐らくそれはカカシのような役割を果たしていたのだろう。カラス達にリンゴを食べられないように。いわば見せしめである。
僕はそのカラスの首吊り死体を見る度に、何か懐かしいような不思議な感覚に襲われた。
12月3日は麻生さんの命日だった。
麻生さんは20歳の時にバイク事故で亡くなってしまった。高校時代の同級生である。
見晴らしの良い広い道路で起こったその事故は、本人の不注意によるものであったと断定されたようだ。誰にも責任がない死。
納得しようが、しまいが彼女はもう2度と戻っては来ないのだ。
今でも命日には仲の良かった連中が集まり酒を飲んでいる。先週の日曜にも誘いがあったが、僕は断った。
思えば葬式に参加したきり、一度も会に参加していない。彼女の墓前にも立っていない。気のいい昔の友達たちは、そんな僕を薄情者と呼ぶことなく、今でも誘い続けてくれている。
僕が彼女の墓前に立たないのは、彼女の死を認めたくない、というようなセンチメタルな感情からではない。
確かに愛すべき人の死というのは、悲しいものであり、それはいつも僕を少なからず混乱させる。
意味なんかないよ、と彼は言った。特に意味なんかないんだ、私たちは何かを失うとそれに意味を見出そうとするが、そんなものは無駄な行為だ。だって意味なんかないんだもの。
麻生さんの葬式は寂しいものだった。同級生も僕らのような仲良くしていた連中しか集まらなかった。葬式が済むと、葬式に来ていた旧友から飲みに誘われた。
「だけどあの元気な麻生さんが死んじゃうなんてな。なんか実感わかないよな」と旧友は言った。
「そうだな」と僕は言った。実感が沸かないというより、我々の彼女に対する記憶が学生時代で止まっている為、うまく現在の状況と重ねることができないのだと僕は思った。
2年近くも会っていないし、僕たちはもうそれぞれ社会人として、自分の生活を持っているのだ。
友達と別れて新宿へ戻ってきた僕は、西新宿を歩いた。
僕は何故か混乱したり悲しくなると西新宿を徘徊する習性がある。
僕も変わったし、旧友も変わった。もちろん彼女だって変わっていたのだろう。
生きるということは常に変化してゆくことである。ただ彼女だけはもう変わることは無く僕の記憶に留まることになる。
死者に対する思いの行き着く先が何処にあるのかは知る術もない。
ただ僕は生きてゆくだけである。
クリスマスのイルミネーションで彩られた西新宿を歩きながら、
僕はそう思った。