長く生きた・木には、
「樹木として以上の何か」が
宿っている気が する
お能の『西行桜(さいぎょうざくら)』
って・演目にも
そんな、老木のせい(精)が あらわれます。
~「西行桜」(世阿弥)~ 平安末期の僧・西行
は、
今年も「ひとりしずかに花を愛でたい」
と
考えていました。
なのに
自分のところの桜が美しいため、遠方から花見客が来てし
うんざり。
「せっかく山のほうに住んでいるのに、結局は人が来ちゃうのかよ。桜のせいだ」
と ため息を ついていました。 そんな・西行の夢に、桜の精
があらわれて・・
「桜に何の罪があるのですか?
浮き世に住むのも、山にこもるのも、人の心が勝手にしていることで」
と
しごく・もっともな 申し開きをされてしまい、
西行は、
ぐうの音も 出ないのでした。
(※踊っておしまい)「 願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ 」
と 詠んで、
春に死んだ、西行。 後世の風流人が、みんな、(その気持ちわかる~
)
と
共めい(鳴)しながらも・・
「先越された感」や、
「それ言っちゃう?感」から、
内心・しっと(嫉妬)を おぼえたであろう
ストレートな 名歌です。
(・・自分だって、そういう最期には憧れるけど、
そこまで口にするの
西行、あつかましい
桜は、、みんなの心で、シェアするもの
桜は・・
あんただけのものじゃないんだからね!!) という・・軽い反発から
、世阿弥がこのスト
ちょっとおもしろいな~
って 思いました(にんまり🐻)
【おすすめ度: ※お能を観て味わう作品ですね
ちなみに 世阿弥はとっても西行をリスペクトしているんですよ
クリンはうがちましたが・・🐻
】
(次回は、安珍清姫伝説、「道成寺」を とりあげます)