<大森駅西口にて>
「ねえ、すぐそこから『馬込文士村』だから、ちょっと見て
みたいんだけど」「うん、いいよ~。」
(・・・・あそこ?)
(とりい(鳥居)が、ある。。)
「・・すごい急な、かいだん(階段)だね。」
上は、「天祖神社」という 神社のようですが、そこに
もう(詣)でる
かいだん(階段)横の
うかいろ(迂回路)
が、
「馬込文士村・散策のみち」に なっていて、なにやら、
レリーフが
かざってあります
「このへんが、かの有名な『馬込文士村』かあ~。」(チット)
大正~昭和の初め、このあたりの高台は、
まごめ・ぶんしむら(馬込文士村)
といって、
作家や、画家が
はなやかに 交流していた
そうです
たばた(田端)文士村や、おちあい(落合)文士村と
ならぶ、
東京三大文士村の、ひとつ
・川端康成、・萩原朔太郎、・山本周五郎、・北原白秋
etc
が
したしく・行き来した、
「丘の上の、文芸コミュニティ」
それが、
この、大森の
「馬込文士村」
だったらしい
(・・・丘の上には、文士たちの旧居あと(跡)が
ぜっこうの
文学さんぽ(散歩)コースじゃん)
というとこで、
クリンたち、
レリーフを ひとつひとつ見ながら、
かいだん(階段)を
のぼりました
さいしょは、<昭和8年の大森駅風景>です (かんさんとしてます!)
そして
次が、
<大森丘の会>
「望翠楼ホテルっていうのがあったんだね~。」(リゾートっぽい)
こちらが、<尾崎士郎と宇野千代>
「馬込文士村の、ボス夫妻だね」
<広津和郎と、マージャンに興じる文士たち>
「あっ、吉屋信子」 「モガだね」
<ダンスパーティーに集う、文士とそのパートナー>
「むろう・さいせい(室生犀星)も、ここにいたんだね」
「あ~、村岡花子さん」<女性活躍の時代>
<相撲に熱中し、みずから取り組む文士たち>
「・・みなさん、お盛んね~。」
ってなかんじで、
上にのぼるまでの間に、文士村の人々が
どんちゃんさわぎ
していた
ようすが、
実によく わかりました
(・・・バンカラ青年が、そのまま大人になったみたいだな。)
お酒が好きで、
人づきあいがこ(濃)くて、
れんあい(恋愛)関係が
わりと、ふくざつ・・
昔の文士って、そういうものだ と、イメージで
りかい(理解)
していながらも、
なんとなく いわかん(違和感)をおぼえる、
いい大人の
あそびくるいっぷり・・
「ダンスパーティー」のレリーフ横に 書かれていた
せつめい(説明)文の、
「昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。
まだ若かった馬込の文士たちにとっても
将来に不安の多い時代であったといえます。
仲間同士集まって 気を紛らわそうというのか、
麻雀に続いて 馬込の面々が凝り始めたのは
ダンスでした。・・・」
の、一文に 引っかかった うちのチットが、
家にかえってから、
文士村のボス
「尾崎士郎」について、
しらべはじめました。
「この人、社会主義から国家社会主義に移行してるのかあ。
1933年に
都新聞に『人生劇場』を連載、ねえ。。
1933年っていえばさ 満州事変開始の2年後で、
政財界の大物が
暗殺されまくって
軍部内閣が 成立したころだよ
・・・
そんなときに、娯楽小説で大当たり
・・・・・
これって、
一種の 処世術、なのかね??
世をしのぐ文筆ならば
アリだけど、
これが 素だったとしたら、
私、ちょっと 感心しないわ。。」
と
まゆ(眉)を ひそめました
このころ、日本は、政治・けいざい(経済)・外交、すべてに
行きづまっていて
政府に
反対いけん(意見)をのべる・人たちは
つかまってしまう
息苦しい世の中
だったそうです。。
おざき(尾崎)士郎たちは、びんぼう(貧乏)な人たちのための
「プロレタリア文学」
が
かいめつ(壊滅)するのを
横目に、
政治抜きの文学を めざす、
「新興芸術派」っていう
グループを
つくっていたらしい。。
くらし(暮らし)をたのしみ、人々からあいされた
馬込の番長・「尾崎士郎」
と、
才のう(能)ほとばしる
ゆかいな 仲間たち
クリンたちが 昼間・見たのは、そんな
きらめきの青春を
型抜いた、
文士村のレリーフでした。
しかし・・、彼らの「新興芸術派」は、文学りろん(理論)を
かくりつ(確立)しないまま、
けいはく(軽薄)な都会生活を
追いつづけ、
読者から 見放されたそうです。。
また、士郎自身は、戦時中に ほかのアーティストたち
同よう、
せんそう(戦争)に 協力して
せん(戦)後は
追放される・・
という
「この時代の文化人の宿命的道筋」をたどっている・・
って
チットが しらべて 言いました。
「あの、楽しくて明るい散歩道のレリーフの裏に、そんな
苦悩を
感じたくないね~~」
と、
自分でしらべたくせに
ボヤく、
チットでした。
(その5、「徳富蘇峰の山王草堂記念館」に、つづく)