『花明り』1968(昭和43)年 京洛四季展
初めてこの絵を観たのはもう10年以上も前の横浜美術館でした。おそらく没後はじめての大規模な回顧展で、主だった作品はほぼ展示されていたように思います。別格な唐招提寺障壁画を除いて、数ある作品の中でもひときわ印象的だったのが、この『花明り』でした。幻想的な風景と静謐な空気に、横に掲げられた画伯の言葉も味わい深く、心に小さな灯が点ったような気分になりました。
京都の桜であることはわかっていましたが、それが現存し、しかもかなりの繁華街にあると知ったのは3年前、関西に住み始めてからです。
1年目はまったく行く時間がとれませんでした。2年目はスケジュールが合わずに訪れたのは遥か見頃を過ぎてから。そして3年目の今年、ようやく満開の桜と対面することができました。
今年は生憎の雨で、さすがに宴席を設けている人たちはいませんでしたが、それでも桜の周りはたくさんの人で、傘を差しながらシャッターを切り、つくづくと桜を見上げています。桜自身も雨には全く動ぜず、まさに「繚乱と咲き匂って」います。東山の稜線が微かに明るんでいるのも画伯の描写どおりです。
曇天のため月の所在はわかりませんでした。去年、晴天でも見つけられなかったので、もしかしたらもっと深い時間にならないと顔を出さないのかもしれません。暦を調べた限り、画伯が訪れた時期に桜の見頃と満月は重なっていたようです。ただし、50年分の桜の成長を差し引いても、東山の山際と桜(そしておそらく月も)を同時に視界に入れるのは困難です。東山と桜の間には実はとても距離があって、木々の輪郭が絵のようにはっきり見えることはありません。三次元の景色を二次元に収め、時空を超えた出合いを表現するための画伯の工夫かと思います。でも、「古代紫」と評された空の色も、咲き誇る桜の風情もまさに絵のとおりです。
祇園四条の突き当たり、八坂神社の奥に佇む祇園桜の周りは想像以上に賑やかで、京の人々の喧噪に包まれています。そんな人工物の中にまさに忽然と桜は現れ、無心に天に向かうその姿には生命力と気高さがあります。同時に少しの寂しさも。孤高の桜と、平安の昔から変わらぬ山の稜線から浮かび上がる満月。美しい出合いの向こう側に、もしかしたら画伯は亡くなった親しい人たちの面影を見ていたのかもしれません。
気がつくと雨は上がっています。画伯の頃よりさらに大きくなった桜と、古代紫の空を見上げるとき、私もまた、時空を超えた画伯との邂逅を果たした気がします。
同じ桜の木なら、ずいぶん昔から、咲いてるのですね。
桜の木の寿命って、長いんですね。
梅は100年から300年ぐらいって聞いたことがありますが、桜はもっと長いのでしょうね。
何百年もの長い年月で、いろんなものを見てきた桜はすごいと思います。
はい。同じ桜です。
京都の人なら知らない人はいない超有名桜みたいです。
実はこの祇園枝垂れ桜は2代目で、初代は昭和22年に枯死してしまいました。樹齢220年だったそうです。2代目は昭和24年に佐野藤右衛門氏から寄贈されて、調べたところ、現在樹齢90年くらいだとか。3代目が育成中とも聞きます。2代目は魁夷画伯が眺めていた頃に比べれば、勢いはなくなっているみたいですが、キレイでしたよ
夜桜は美しいですが、桜自体には負担なこともあるようなので、野生の桜ほどは長生きできないかもしれませんね。それでも初代の220年は目指してもらいたいです