(香雪美術館サイトより転載)
少し前になりますが、香雪美術館で開催中の熊谷守一展に行ってきました
昔話に出てくる仙人のような風貌と、対照的に簡潔な構図・描線にモダンな色使い。作品のほとんどが4号という葉書4枚分くらいの小さな板に描かれ、そこにいるのは蟻や蛙、百合やタンポポなどごく日常で見かける小さな生き物たちです。そのどれもが見た瞬間にぎゅっと心を掴まれてしまう愛らしさ 若い頃は全国にスケッチに出かけ、晩年は森とみまごう自宅の庭をいつも眺めていたという守一。『非常に長期に亘って、そのさまざまな生活の局面に関してよく観察してきたひとのまなざし』(気ままに絵のみち 熊谷守一[平凡社])と昆虫学者も太鼓判の観察眼は、対象となる生き物たちの動きや形を見事に捉えています。庭にとどまらず家の中にもたくさんの種類の鳥を飼い、内猫、外猫含めて何匹もの猫が出入りしていたそうです。今回ポスターに採用されている猫は、満ち足りた顔つきがこちらまで幸せになる一枚。守一はデッサンを転写して、同じモチーフを何度も使うことで知られた人ですが、こちらの眠り猫については、それを示すトレース紙に描かれたアウトラインに色指定をしたものが展示されていました。吟味を重ね、これ以外にない! という完璧な線で囲いこみ、配置する。立ち現れるのは温かくどっしりとした「いのちの存在感」で、桂板のざらついた質感にぺたりと塗られた絵の具の色が、生命のナマっぽさを際立たせています。
もともとは油絵から出発した人ですが、水墨画や書もかいています。自在な筆遣いはむしろ水墨の方がひきたつかもしれないです。そのうちの一枚、大書された愛嬌ある蛙の後姿にもう目が釘付け こんなに蛙を大切に描いてくれる人を他に知りません。書もありましたが、衒いのない素直な詞が多く、まっすぐな人柄が偲ばれます。『蒼蝿』という一幅の解説に、自分は蒼蝿をカッコいいと思ってよく書くのだが、展示をしても『蒼蝿』だけが売れ残る。それが面白くてよけい書いたりする、みたいなことが書いてあり、ちょっと笑ってしまいました。そうかと思えば「かみさま」は、棒のように細い線でさらりと書いてあるのに、とても心に沁みる書です。若い頃生活に困窮し、子供を3人までも亡くしたという過去を持つ守一だからこそ、盲目的に神を信じるわけではないけれども、自然に対峙しているとどうしようもなくみえてくる一つの大きな力の存在、そういうものを感じていたのかも、などと勝手な想像を巡らせてしまったりします。
一時期、音の振動数を数えることに熱中したそうですが、そのおかげか全ての絵にリズムがあって、たとえば「雨滴」でも、絶妙に配置された同心円から地面に落ちる滴の音が今にも聞こえてきそうですし、「自画像」と解説される「朝のはぢまり」では、こちらも同心円の太陽が力強く昇っていくエネルギーに満ちた姿に、軽快なリズムを感じます。
代表作といわれる『ヤキバノカエリ』は、骨の入った白い箱(死)と守一自身の白い髭(生)が印象的な一枚でした。守一はこの絵を死ぬまで手元に置き、時折手を加えていたそうです。愛らしい草花や蛙たちの絵だけを見ていると悟りを開いた仙人を想像しがちですが、自然の生き物たちの向こう側に死の姿を捉えようとする守一がいたのかもしれません。
後年は東京都豊島区で庭付きの家に住み、さまざまな植物を育てたそうですが、とても上手で、育てるのが難しい花も毎年見事に咲かせたという話も聞きます。友人に「もう一回人生を繰り返すことが出来るとしたら、君はどうかね。ボクはもうこりごりだね」と尋ねられ、「いや、俺は何度でも生きるよ」と言ったそうですが、本展覧会の標題らしいエピソードですね(ちなみにこの標題どおりの書もあります。)
大食漢で生きることに貪欲、享年97歳と百歳には少し届きませんでしたが、長寿の秘訣は、飽きることのない好奇心と、身の周りに置いた自然と生き物たちから分けてもらったエネルギーのおかげかもしれません。