ぶらっとJAPAN

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足の向くまま、気の向くまま。プチ放浪の日々。

こんぴら歌舞伎の思い出 ~香川県仲多度郡琴平町 ~

2015-05-31 18:45:42 | 四国

賑わう小屋前。7年くらい前だから、若干の顔出しはお許しくだされ・・・。駄目かしら?

 昨日に引き続き、こんぴらのご紹介。

 香川県仲多度郡琴平で毎年春に行われるこんぴら歌舞伎。現存する最古の芝居小屋と言われる金丸座での上演は、昔をしのばせるたたずまいと、人気の役者さんが間近で見られるとあって大人気です。

 調べたら、私が見に行ったのは2008年の第24回公演でした。あちゃぁ、そんなに前ですか。でも確かに、出演なさった海老蔵丈はまだ独身で、ブログもやってらっしゃらなかったです(笑)

 琴平は岡山駅から土讃線にのって瀬戸大橋を渡り約1時間。とてもちいさな町です。

 温泉郷としても有名ですから年間を通して観光客は来るのですけれど、この時期はあちこちにのぼりが立ってこんぴら歌舞伎一色。ツアーだったので、旅館の夕食にまでのぼりが立ってました(^^)

 

 お芝居に先だって役者さんたちによる餅つきがあって、お客さんに振舞われていました。しかし何しろこの人だかり。百貨店のセールもまっさおの熾烈な争奪戦が繰り広げられ、なんとかゲットしたものの、いろんな人にひっぱられてびろーんと縦長に。でも、もらえない人もたくさんいましたから、美味しくいただきました(^^)

 金丸座ができたのは天保6(1835)年。金毘羅参りで賑わう金刀比羅の町は年3回、会式と呼ばれる催しがあって、その時には芝居だけでなく、相撲や軽技や操り人形などの興行が行われていました。そんな背景があって、この年高松藩から常設小屋建設の許可が下り、道頓堀の大西芝居(現・浪花座)を模して造られたそうです。一時は隆盛を極めたものの、その後、映画などの娯楽に押されて衰退し、廃館においこまれました。けれども、建物を残したいという地元の方々の熱心な運動により、昭和45年に重要文化財に認定され、6年後に現在の愛宕山中腹に移築復元されたと言います。

 時は下って昭和59年、テレビの対談番組がきっかけで訪れた、中村吉右衛門丈、沢村藤十郎丈、中村勘三郎(当時勘九郎)丈がこの小屋に魅せられて、昭和60年、第一回こんぴら歌舞伎が開催されたのです(以上こんぴら歌舞伎ホームページより)。

 平成中村座も江戸の芝居小屋をほうふつとさせて楽しいですが、あちらは仮設小屋。金丸座は骨の髄まで歴史が染みついてますから、より時代の息吹を感じることができます。

 だいぶ前なので若干記憶が怪しいですが、確か、入り口が凄く低くて背を屈めないといけなかったかもしれない。靴は入り口で脱ぎます。チケットの代わりに「通り札」と書いた木の札をもらって、再入場の時にはこれを見せます。

 客席は真ん中が、相撲の升席のような平場、壁際が桟敷席です。2階もあります。升席を区切る京都の小路のミニチュアみたいな板が通り道になってます。まるで平均台を歩くようで、なかなかスリリングです。お茶子さんもここを通って物を売りに来ます。ちなみにこのお茶子さんはボランティア。人気の職種で県内外から応募があるそうです。そもそもこの公演自体が町の方々の手で運営されているんですよね。そこがまた素敵です。

 昔の芝居小屋ですから、当然電気も機械もなく、すべて人力。灯りは壁際にしつらえられた窓を開閉して調節します。すっぽんと呼ばれるせりも人力ですが、これが面白い。今の歌舞伎座とかだと、電動でウイーンと等間隔にあがってくるんだけど、人力だと裏方の人たちがおみこしを肩に担いでうんとこせっとあげる感じなんで、上がる前に一瞬タメができるんです。せりあがりも均等でなく、有機的な力学というのか動線が人間くさくて、ほのぼのしてしまいます。この時は観てないと思うんだけど、なんと「かけすじ」と呼ばれる宙乗りのしかけや、天井から雪を降らせたりするときに使う格子状の「ぶどう棚」というしかけもあるそうです。テクノロジーはないけれども、客を楽しませようという気概を感じます。

 そして、なにより舞台が近い! 私の観た昼の部の目玉は海老蔵丈の「暫」だったんですが、凧みたいな両袖をぶら下げた和製バットマンの2乗(つまりとてもデカい)みたいな格好なので立ってるだけで大変らしく、額に玉のように光る汗がよく見えました。そして、どえらく綺麗でした~

 昔の小屋だから、客用通路がないので、自分の席にたどりつくには花道を通るしかありません。中入りが終わって太鼓が鳴り始め、いよいよこの日一番の目玉、海老蔵サマが見られる! と客席が異様な興奮で包まれるなか、一人のおばあ様が遅れて入ってこられました。スポットライトが当たり、いかにもな太鼓が鳴り響く中、全く違う人物が駆け込んできたので、期待していたのとはあまりに違う光景なのと、それにしてはあまりに太鼓の音にマッチした必死に駆け抜けるその姿に、客席は、最初ざわめき、次いでさざ波のように笑いが広がっていきました。ご本人は恥ずかしかったでしょうが、こういうのが見られるのもこの小屋ならではの醍醐味です。申し訳ないけど、このハプニングが一番面白かったです。海老サマの美しいお顔と、うーん、同じくらいかな。

 

 あれから7年、歌舞伎界もたくさんの方がいなくなり、また新しい方が台頭してきました。こんぴら歌舞伎も、今見るとだいぶ趣が変わっているでしょうね。ぜひまた行きたいものです。

ホテルからの景色。

 

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しあわせさん、こんぴらさん

2015-05-30 22:09:50 | 四国

 昨日、ご紹介したあべのハルカス美術館のこんぴら展に続きまして、本日は本場のこんぴらさん訪問記でございます。

 ただし、だいぶ前です。こんぴら歌舞伎を見に行ったのですが、その翌年に故・勘三郎さんの『俊寛』がかけられましたから、少なくとも3年以上前ですね(^^;)

 そもそもこんぴらさんって何ぞや? と改めて調べてみましたら、香川県仲多度郡琴平町にあります日本有数の規模を誇る神社で、琴平山中腹の神域に、数々の社殿、書院、桜門、鳥居などを構えているとあります。平安時代にはすでに金毘羅大権現として信仰を集めていたようですが、1584年に長宗我部元親が讃岐を平定した時に、戦火で資料などが焼けてしまい、詳しい由来は分からないようです。

 有名な鳴門の渦に代表されるように、瀬戸内海は潮の流れが複雑だったため、昔の質素な航海術では船の遭難が多かったとか。船人たちは動かない地上の讃岐平野にそびえる琴平山を道しるべとし、また、山にかかる雲や雷気などをみて天気を判断したそうで、そうした風習から山を大事なものと考えるようになり、信仰に転化していったのではないかと言われています。また、四国地方は降水量が少なく水の確保は農業を営む者にとっての最重要課題で、これもまた山で天気を判断するという慣習から、龍神、水神を祀る雨乞いの山としても、崇敬を集めてきたのです。

 という訳で、後に幕府の庇護を受けたりするようにはなるのですが、金毘羅大権現様は何より民間で愛された神様です。だからでしょうか、御本宮へたどり着くまでは、表参道の店に始まり、美術館やお休み処など、アミューズメントパーク的要素も強いです。ま、それよりなにより金刀比羅宮=階段なのは言うまでもないですね。

表参道。にぎやかで楽しいです。

こういう古くて立派な建物もたくさんあります。

名物灸まん。丸いポストが懐かしい。

道が狭くなってきました。いよいよです。

まずは神域の入り口、大門を目指します。

大門(365段め)手前の道しるべ。お参りする御本宮まではまだ半分も昇ってない・・・。

 

 いや~絶対無理! ていう人のために、大門までは籠で行くこともできます。

大門をくぐった先で、飴が売られていました。この方たちは、「五人百姓」と呼ばれ、境内で商売をすることを特別に許された方たちです。

 大門をくぐってしばらく歩くと、高橋由一館や資生堂フルーツパーラーが経営しているお休み処「神椿」があります。この辺はモダンな建物で、ちょっと不思議な感じです。

 まずは、お参りですからひたすら登ります。

杖は必需品です。

 さらに行くと、応挙たちの絵がある書院ですが、これも後回し。さらに旭社というのがあるのですが、ここはなぜだか帰り道にお参りすると決まっているので、やはり立ち寄らず登り続けます!

ここまできたら半ば意地です(笑)

 登っている途中で撮る元気はないので(^^; 昇ってから振り返っての撮影。この急こう配すごいでしょう? 作るのも大変だったでしょうね。みなさん杖持参ですが、たまに強者アスリートがリュックしょって駆け上がってきます。トレーニングか?

785段登ってついに到着! 正面に見える木はご神木のクスノキです。

南渡殿。檜皮葺の屋根です。

残念ながらこの日は天気に恵まれず。良ければ讃岐富士とか見えるそうですが・・・。それでも、山頂からの眺めは格別です。

ついに御本宮。どうぞ海難事故に遭いませんように。

 金毘羅参りが流行った江戸時代、金毘羅船の多くは日本橋、淀屋橋、道頓堀など大阪から出航して香川の丸亀か多度津に接岸し、人々はそこから約3里(12キロ)の道のりを歩いて参拝したそうです。人が集まるところには店や寄席が集まり、門前町では相撲や芝居の興行も行われたそうです。毎年こんぴら歌舞伎が行われている金丸座は日本最古の芝居小屋でもあります。

 東京方面の神社仏閣もさんざん行きましたけど、そういう場所に比べると四国は気候も穏やかで葉っぱも丸く、柔らかい印象です。高松藩藩主は水戸徳川家とつながりが深かったために、この辺りは一種治外法権の場所みたいになって幕末の過激な思想にも比較的寛容だったらしく、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎なんかが訪れたり潜んだりしたそうです。あんな厳しい政治活動に身を投じた方たちが、こんな穏やかなところにいたなんて信じられません。

 幕末から明治にかけて政治的に痛いめにあっていないので、讃岐人の人柄はのんびりとして人が良いというのを聞いたことがあります。こんぴらさんの温かい雰囲気は気候だけでなく、そうした歴史的背景もあるのかもしれません。

 どんなに霊験あらたかかしんないけど、こんなとこまで来れるわけないじゃーん! っていう人のために、なんとここの神様は年に一度下界に降りてきてくださいます。10月の例大祭に行われる御神幸。穢れがないという理由で子供を先導に、金色の御神輿に乗られた神様が、本宮から御旅所へと約2キロメートルの道程を「渡御」(とぎょ)してくださるのです。行列は、金色の御神輿(ごしんよ)・乗馬の男頭人・駕籠の女頭人を中心に総勢約500名、まさに平安絵巻きさながらの古式ゆかしい行事です。この例大祭には先ほどの五人百姓の方たちが、お手伝いをなさるそうです。(金刀比羅宮ホームページより)。なんという至れり尽くせりな神様でしょうか。これで、足が悪くて登れないというお歳を召した方もお参りできる。素晴らしいです。

 

 ゲットしたお守りと犬のこれはなんだろうな、よく覚えてませんが、たぶんおみくじだとおもいます。金色好きにはたまらない組み合わせ。海好きだし、こんぴらさんとは相性がいいです(^^)/ 

 

 帰り道、旭社に参拝してから念願の書院と高橋由一館に行ってきました。作品については昨日ご紹介済みですので、ここでは省きます。今回書いてていろいろ思い出しました。明日は、こんぴら歌舞伎について書きますね。ずいぶん昔だけど。

 それでは皆様ごきげんよう。

満を持して応挙や若冲の待つ書院へ向かいます。我ながら気合がみなぎってますね(笑)。素晴らしかったですが、肝心の虎がいないことをこの時の私はまだ知らない・・・。

 

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