ぶらっとJAPAN

おもに大阪、ときどき京都。
足の向くまま、気の向くまま。プチ放浪の日々。

こんぴら歌舞伎の思い出 ~香川県仲多度郡琴平町 ~

2015-05-31 18:45:42 | 四国

賑わう小屋前。7年くらい前だから、若干の顔出しはお許しくだされ・・・。駄目かしら?

 昨日に引き続き、こんぴらのご紹介。

 香川県仲多度郡琴平で毎年春に行われるこんぴら歌舞伎。現存する最古の芝居小屋と言われる金丸座での上演は、昔をしのばせるたたずまいと、人気の役者さんが間近で見られるとあって大人気です。

 調べたら、私が見に行ったのは2008年の第24回公演でした。あちゃぁ、そんなに前ですか。でも確かに、出演なさった海老蔵丈はまだ独身で、ブログもやってらっしゃらなかったです(笑)

 琴平は岡山駅から土讃線にのって瀬戸大橋を渡り約1時間。とてもちいさな町です。

 温泉郷としても有名ですから年間を通して観光客は来るのですけれど、この時期はあちこちにのぼりが立ってこんぴら歌舞伎一色。ツアーだったので、旅館の夕食にまでのぼりが立ってました(^^)

 

 お芝居に先だって役者さんたちによる餅つきがあって、お客さんに振舞われていました。しかし何しろこの人だかり。百貨店のセールもまっさおの熾烈な争奪戦が繰り広げられ、なんとかゲットしたものの、いろんな人にひっぱられてびろーんと縦長に。でも、もらえない人もたくさんいましたから、美味しくいただきました(^^)

 金丸座ができたのは天保6(1835)年。金毘羅参りで賑わう金刀比羅の町は年3回、会式と呼ばれる催しがあって、その時には芝居だけでなく、相撲や軽技や操り人形などの興行が行われていました。そんな背景があって、この年高松藩から常設小屋建設の許可が下り、道頓堀の大西芝居(現・浪花座)を模して造られたそうです。一時は隆盛を極めたものの、その後、映画などの娯楽に押されて衰退し、廃館においこまれました。けれども、建物を残したいという地元の方々の熱心な運動により、昭和45年に重要文化財に認定され、6年後に現在の愛宕山中腹に移築復元されたと言います。

 時は下って昭和59年、テレビの対談番組がきっかけで訪れた、中村吉右衛門丈、沢村藤十郎丈、中村勘三郎(当時勘九郎)丈がこの小屋に魅せられて、昭和60年、第一回こんぴら歌舞伎が開催されたのです(以上こんぴら歌舞伎ホームページより)。

 平成中村座も江戸の芝居小屋をほうふつとさせて楽しいですが、あちらは仮設小屋。金丸座は骨の髄まで歴史が染みついてますから、より時代の息吹を感じることができます。

 だいぶ前なので若干記憶が怪しいですが、確か、入り口が凄く低くて背を屈めないといけなかったかもしれない。靴は入り口で脱ぎます。チケットの代わりに「通り札」と書いた木の札をもらって、再入場の時にはこれを見せます。

 客席は真ん中が、相撲の升席のような平場、壁際が桟敷席です。2階もあります。升席を区切る京都の小路のミニチュアみたいな板が通り道になってます。まるで平均台を歩くようで、なかなかスリリングです。お茶子さんもここを通って物を売りに来ます。ちなみにこのお茶子さんはボランティア。人気の職種で県内外から応募があるそうです。そもそもこの公演自体が町の方々の手で運営されているんですよね。そこがまた素敵です。

 昔の芝居小屋ですから、当然電気も機械もなく、すべて人力。灯りは壁際にしつらえられた窓を開閉して調節します。すっぽんと呼ばれるせりも人力ですが、これが面白い。今の歌舞伎座とかだと、電動でウイーンと等間隔にあがってくるんだけど、人力だと裏方の人たちがおみこしを肩に担いでうんとこせっとあげる感じなんで、上がる前に一瞬タメができるんです。せりあがりも均等でなく、有機的な力学というのか動線が人間くさくて、ほのぼのしてしまいます。この時は観てないと思うんだけど、なんと「かけすじ」と呼ばれる宙乗りのしかけや、天井から雪を降らせたりするときに使う格子状の「ぶどう棚」というしかけもあるそうです。テクノロジーはないけれども、客を楽しませようという気概を感じます。

 そして、なにより舞台が近い! 私の観た昼の部の目玉は海老蔵丈の「暫」だったんですが、凧みたいな両袖をぶら下げた和製バットマンの2乗(つまりとてもデカい)みたいな格好なので立ってるだけで大変らしく、額に玉のように光る汗がよく見えました。そして、どえらく綺麗でした~

 昔の小屋だから、客用通路がないので、自分の席にたどりつくには花道を通るしかありません。中入りが終わって太鼓が鳴り始め、いよいよこの日一番の目玉、海老蔵サマが見られる! と客席が異様な興奮で包まれるなか、一人のおばあ様が遅れて入ってこられました。スポットライトが当たり、いかにもな太鼓が鳴り響く中、全く違う人物が駆け込んできたので、期待していたのとはあまりに違う光景なのと、それにしてはあまりに太鼓の音にマッチした必死に駆け抜けるその姿に、客席は、最初ざわめき、次いでさざ波のように笑いが広がっていきました。ご本人は恥ずかしかったでしょうが、こういうのが見られるのもこの小屋ならではの醍醐味です。申し訳ないけど、このハプニングが一番面白かったです。海老サマの美しいお顔と、うーん、同じくらいかな。

 

 あれから7年、歌舞伎界もたくさんの方がいなくなり、また新しい方が台頭してきました。こんぴら歌舞伎も、今見るとだいぶ趣が変わっているでしょうね。ぜひまた行きたいものです。

ホテルからの景色。

 

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しあわせさん、こんぴらさん

2015-05-30 22:09:50 | 四国

 昨日、ご紹介したあべのハルカス美術館のこんぴら展に続きまして、本日は本場のこんぴらさん訪問記でございます。

 ただし、だいぶ前です。こんぴら歌舞伎を見に行ったのですが、その翌年に故・勘三郎さんの『俊寛』がかけられましたから、少なくとも3年以上前ですね(^^;)

 そもそもこんぴらさんって何ぞや? と改めて調べてみましたら、香川県仲多度郡琴平町にあります日本有数の規模を誇る神社で、琴平山中腹の神域に、数々の社殿、書院、桜門、鳥居などを構えているとあります。平安時代にはすでに金毘羅大権現として信仰を集めていたようですが、1584年に長宗我部元親が讃岐を平定した時に、戦火で資料などが焼けてしまい、詳しい由来は分からないようです。

 有名な鳴門の渦に代表されるように、瀬戸内海は潮の流れが複雑だったため、昔の質素な航海術では船の遭難が多かったとか。船人たちは動かない地上の讃岐平野にそびえる琴平山を道しるべとし、また、山にかかる雲や雷気などをみて天気を判断したそうで、そうした風習から山を大事なものと考えるようになり、信仰に転化していったのではないかと言われています。また、四国地方は降水量が少なく水の確保は農業を営む者にとっての最重要課題で、これもまた山で天気を判断するという慣習から、龍神、水神を祀る雨乞いの山としても、崇敬を集めてきたのです。

 という訳で、後に幕府の庇護を受けたりするようにはなるのですが、金毘羅大権現様は何より民間で愛された神様です。だからでしょうか、御本宮へたどり着くまでは、表参道の店に始まり、美術館やお休み処など、アミューズメントパーク的要素も強いです。ま、それよりなにより金刀比羅宮=階段なのは言うまでもないですね。

表参道。にぎやかで楽しいです。

こういう古くて立派な建物もたくさんあります。

名物灸まん。丸いポストが懐かしい。

道が狭くなってきました。いよいよです。

まずは神域の入り口、大門を目指します。

大門(365段め)手前の道しるべ。お参りする御本宮まではまだ半分も昇ってない・・・。

 

 いや~絶対無理! ていう人のために、大門までは籠で行くこともできます。

大門をくぐった先で、飴が売られていました。この方たちは、「五人百姓」と呼ばれ、境内で商売をすることを特別に許された方たちです。

 大門をくぐってしばらく歩くと、高橋由一館や資生堂フルーツパーラーが経営しているお休み処「神椿」があります。この辺はモダンな建物で、ちょっと不思議な感じです。

 まずは、お参りですからひたすら登ります。

杖は必需品です。

 さらに行くと、応挙たちの絵がある書院ですが、これも後回し。さらに旭社というのがあるのですが、ここはなぜだか帰り道にお参りすると決まっているので、やはり立ち寄らず登り続けます!

ここまできたら半ば意地です(笑)

 登っている途中で撮る元気はないので(^^; 昇ってから振り返っての撮影。この急こう配すごいでしょう? 作るのも大変だったでしょうね。みなさん杖持参ですが、たまに強者アスリートがリュックしょって駆け上がってきます。トレーニングか?

785段登ってついに到着! 正面に見える木はご神木のクスノキです。

南渡殿。檜皮葺の屋根です。

残念ながらこの日は天気に恵まれず。良ければ讃岐富士とか見えるそうですが・・・。それでも、山頂からの眺めは格別です。

ついに御本宮。どうぞ海難事故に遭いませんように。

 金毘羅参りが流行った江戸時代、金毘羅船の多くは日本橋、淀屋橋、道頓堀など大阪から出航して香川の丸亀か多度津に接岸し、人々はそこから約3里(12キロ)の道のりを歩いて参拝したそうです。人が集まるところには店や寄席が集まり、門前町では相撲や芝居の興行も行われたそうです。毎年こんぴら歌舞伎が行われている金丸座は日本最古の芝居小屋でもあります。

 東京方面の神社仏閣もさんざん行きましたけど、そういう場所に比べると四国は気候も穏やかで葉っぱも丸く、柔らかい印象です。高松藩藩主は水戸徳川家とつながりが深かったために、この辺りは一種治外法権の場所みたいになって幕末の過激な思想にも比較的寛容だったらしく、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎なんかが訪れたり潜んだりしたそうです。あんな厳しい政治活動に身を投じた方たちが、こんな穏やかなところにいたなんて信じられません。

 幕末から明治にかけて政治的に痛いめにあっていないので、讃岐人の人柄はのんびりとして人が良いというのを聞いたことがあります。こんぴらさんの温かい雰囲気は気候だけでなく、そうした歴史的背景もあるのかもしれません。

 どんなに霊験あらたかかしんないけど、こんなとこまで来れるわけないじゃーん! っていう人のために、なんとここの神様は年に一度下界に降りてきてくださいます。10月の例大祭に行われる御神幸。穢れがないという理由で子供を先導に、金色の御神輿に乗られた神様が、本宮から御旅所へと約2キロメートルの道程を「渡御」(とぎょ)してくださるのです。行列は、金色の御神輿(ごしんよ)・乗馬の男頭人・駕籠の女頭人を中心に総勢約500名、まさに平安絵巻きさながらの古式ゆかしい行事です。この例大祭には先ほどの五人百姓の方たちが、お手伝いをなさるそうです。(金刀比羅宮ホームページより)。なんという至れり尽くせりな神様でしょうか。これで、足が悪くて登れないというお歳を召した方もお参りできる。素晴らしいです。

 

 ゲットしたお守りと犬のこれはなんだろうな、よく覚えてませんが、たぶんおみくじだとおもいます。金色好きにはたまらない組み合わせ。海好きだし、こんぴらさんとは相性がいいです(^^)/ 

 

 帰り道、旭社に参拝してから念願の書院と高橋由一館に行ってきました。作品については昨日ご紹介済みですので、ここでは省きます。今回書いてていろいろ思い出しました。明日は、こんぴら歌舞伎について書きますね。ずいぶん昔だけど。

 それでは皆様ごきげんよう。

満を持して応挙や若冲の待つ書院へ向かいます。我ながら気合がみなぎってますね(笑)。素晴らしかったですが、肝心の虎がいないことをこの時の私はまだ知らない・・・。

 

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やっと出会えた虎 ~あべのハルカス美術館『昔も今も、こんぴらさん』~

2015-05-29 23:23:46 | アート

 あべのハルカス美術館に行ってきました!

 香川県金刀比羅宮よりはるばるお越しの『昔も今も、こんぴらさん』展が開催中です。

 こんぴらさんには2度行ったことがあります。1度目は温泉、2度目はこんぴら歌舞伎を観に行きました。その時にもちろん金刀比羅宮近辺には行っているのですが、1度目は到着が午後遅かったため、入り口まであと1mというところで無情にも閉館。目の前でがらがらと扉が閉まってしまいました。ちらりと衝立が垣間見えただけ。ムゴイ・・・(T_T)

 2度目は中に入れたものの、なんとお目当ての応挙の虎が東京芸術大学に出張中という縁のなさ。仕方なく、図録を買って眺めては、いつか見たいと思っていたのです。というわけで、今度こそは逃すまじ、と早々に出かけました。

 最近、どの展覧会にもある写真撮影スポット。伊勢参りと並んで江戸時代に大ブームになった金刀比羅参り。自分で行けない人は代わりに犬をお参りにやったそうで、そのためこんぴらさんと言えば犬! というイメージなんですね。宿屋や旅の人たちがかわりばんこにお世話をして、お犬さまは無事お参りをすませてたそうですから、いい時代です。

 こんぴらさまは海の神様として信仰が篤く、海難除けに絵馬や船模型がたくさん奉納されているので、この展覧会もそうした奉納品の展示から始まっていました。特に船の模型はとても精巧にできていて、ミニチュアですが見ごたえありました。ちなみに今回の音声ガイドは井浦新さん。金刀比羅宮は大物主の神様と崇徳天皇のお二人を祀っているので、大河ドラマで崇徳天皇を演じた井浦新さんに白羽の矢が立ったと思われます。

 その後、仏像や狩野派の三十六歌仙の絵などでゴキゲンを伺った後、いよいよ円山応挙の障壁画の登場です。今回来ているのは表書院の鶴の間、虎の間、七賢の間の3つ。お部屋を再現して三方を囲む形で展示されています。

 ひさしぶりに応挙の絵を観ましたが、いやぁ、いいですねv(^^)v

 鶴の首や羽根のラインが流麗なこと。昨日の村野藤吾でも書きましたが、重要なのはやはりR(アール)です(笑)。一筆書きのように、すーっと引かれた線が生きています。鶴の独特な後頭部の形も正確に写しとられてます。むつみあう鶴、見上げる鶴、飛ぶ鶴。当たり前ですが、ナマの方が断然いいですね。特に飛ぶ鶴の身体からにじみ出る鳥特有のふわっとした軽さが心地よくて、小踊りしながら急接近。かなり怪しいやつです(^^;)

 この感じ久しぶり、とか思いながら一気にテンションアップ。空間の魔術師応挙のおかげで、水辺が臨場感たっぷりに感じられ、身体の中が浄化されるようです。

 そして、お隣が虎の間。あああっ、いいですね。いい子だね~(笑)。流れるような毛束に立派なしっぽ、こちらをじっと見つめる目と、どれも鍛錬された迷いのない線です。このあいだ読んだ澤田瞳子の『若冲』に出てくる応挙は、ちょっと面倒くさいくらいの堅物で折り目正しい人物ですが、そういう感じ、確かに絵に出てます。手足が寸足らず気味なのもご愛嬌。思うに、応挙の時代の日本人の身体の寸法ってこれくらいなんでしょうね。本物の虎を見たこともないわけですから、これくらいが心地いいバランスなんでしょう。

 私は水を飲む虎がお気に入りだったのですが、やはり人気は正面から見つめる虎でした。対面にソファが置いてあってそこに座ると丁度視線が合うのです。まっすぐな目で見つめられるとちょっとドギマギします。ただ惜しむらくはソファに座っちゃうと、ちょっと距離ができてしまうこと。本来は畳の部屋のふすまですから正座した時に目線が合うように描かれているのですが、展示ケースが地面より数十センチ高いため、ちょうどいい距離感でしゃがむと(←実際しゃがんでみました。ますます怪しい(笑))自分の目線が低すぎて見上げちゃうんですよね。中腰だと落ち着かないし・・・。でも、お部屋にいる感じの距離の方が応挙の作り出したダイナミックな空間を堪能できると思うので、その辺が美術館で観賞するには悩ましいところです。

 最後は七賢の間。このご老人たちは一度お顔が汚されるという悲劇に見舞われて、その後が今でもうっすら残ってます。それが残念といえば残念ですが、でも老人たちの視線が生み出す空間のつながりは大変興味深いものでした。

 今回、もう一つのお目当ては若冲の『花丸図』だったのですが、正直こちらは若干期待外れ。というのもごく一部しか来てないのです。なので、応挙ほど、その空間には浸れない。ただ、一つ一つのお花はとても美しいです。さきほどの小説『若冲』では、妻を自死に追い込んだ罪悪感から絵にのめりこんだ、という展開でしたが、さもありなんと思わせる執着を感じました。それが『生』への執着なのか『美』への執着なのかはわかりませんけれども、応挙の絵がたとえば鶴の足の細かい横線にすがすがしさすら感じるのに対して、若冲のびっしりと描きこまれた花芯は、ちょっと不気味に思います。絵への執着だけではここまで描けないかもしれません。

 意外に良かったのが岸岱(がんたい)の陵王図(りゅうおうず)の衝立。手元の図録で大きく取り上げられている理由が、ナマで観て初めてわかりました。この躍動感、目をひきます。今回岸岱はこれ一作だけしか来ていないですが、必見です。

 3つ目のブロックは高橋由一の油絵です。高橋由一の名前を聞くと「ああ、鮭の人ね」って思うのですが(笑)、今回は『豆腐』がきてました。「完成途上の技術を超えて深いリアリティと集中力に感動を覚える」みたいな解説がついていましたが(ようは下手だけどハートがあるぜ!ってことですね)、これも本物の方が全然良いです。なんとか対象を写し取ろうという気迫が感じられるんです。正直、線は拙い。そのかわりひたむき。後期の鯛の絵はだいぶ油絵っぽくなってます。

 4つめのブロックはいろいろなものを一気にご紹介って感じでした。狩野探幽の山水図屏風とか浮世絵とか。どれも良かったですが、個人的には長沢蘆雪の『鯉魚図』がお気に入り。どうも流麗な線の墨絵に弱いです。蘆雪は応挙の弟子のなかでも出世頭。応挙の良さを受け継いでる感じがします。

 帰りに、17階のカフェでハルカス美術館とコラボしている応挙虎カプチーノセットをいただきました。作るところを写真に撮らせてくださいとお願いしたら、えーっっと言いながらも、カウンターの上で作業してくださいました。ありがとうございます。(^^)

 金型をのっけて、ココアパウダーを振りかけるだけなんですけども、なかなかいい出来です。

 

 17階からの絶景を眺めながらいただきます。ケーキも美味しかったです。

 

 

飲めよ!

ふっ、ひと口くらいなら屁のカッパさ。

うーん、まだまだ。

ずずず・・・。

 

 後期には展示替えがあるそうです。来月また行こうかな。

 

 最後までお読みいただきありがとうございました。それではまたのお越しをお待ちしております

 

 

 

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目黒区総合庁舎建築ガイドツアー ~ 村野藤吾の傑作建築 ~

2015-05-28 23:52:11 | 関東

元千代田生命保険本社屋。

実はこの向かって右手側に同じ形のビルがあります。ガイドさん曰く、「会社的には一棟でよかったんだけど、藤吾氏が『2つあった方が美しいでしょう』と主張して2つ作った」とか。凄すぎます、村野藤吾。

 

 本日は少し趣を変えて、東京都目黒区の総合庁舎のご紹介です。

 この建物は元は千代田生命保険相互株式会社のビルだったのですが、2000年に同社が経営破たんし、その後目黒総合庁舎として生まれ変わりました。日本高度経済成長期の建築家、村野藤吾の代表的建築として知られています。村野氏の代表作といえば、日生劇場ですね。

 なぜいきなり村野藤吾? と思われるかもしれませんが、実はこの方、私が最近ぶらついてる大阪北浜周辺のダイビル本館や、綿業会館の建築に携わった人です。

 晩年は兵庫県宝塚市にお住まいで、あの「どこの国?」と思うぐらい豪華な宝塚市庁舎の設計をなさってます。一度通りがかったことがありますが、最初何の建物かわからず、市庁舎と聞いて2度びっくり。その時カメラ持ってなかったので写真でお見せできないのが残念です。いつかまた、行って撮ってきますね。

 で、話は戻りますが、目黒美術館の主催で、この総合庁舎の建築ガイドツアーが行われているのです。近代建築のツアーなんて珍しいですよね? 一体何を見せてくれるのかと、参加してみたわけです。

 いくつかのグループに分かれて見学し、それぞれにガイドがついてくださるのですが、私のグループのガイドさんは設計事務所に勤める建築家の方。開口一番「僕は、ここは世界一美しい建物だと思っています」とおっしゃった。

 えええっ、そんなに?

 まずはガイドさんの惚れっぷりに度肝を抜かれました(笑)。

 これは屋上から撮ったものですが、生命保険会社時代は正面の木のところまで敷地だったそうです。

 

 入り口のキャノピー。この屋根の形と柱(裾にむかってひろがっている)のデザインもマーベラス!なんだとか。

・・・すみません、建築素人がしょっぱなに聞いたもんでわけがわからず、良い感じのキャノピーの写真がありません(^^;)

 さらに冒頭の写真に見られますR(アール)の形が、これまた奇跡的に美しいんだとか。この微妙なRのラインは誰にでもひける線じゃないそうです。

 素人考えだとコンピューターで四角を描いて角を丸めればいいんじゃ? て思うのですが、それではこのラインは出ないんだとか。

 

たしかに、デジタルでない温もりを感じますね。

 さて、エントランスホールに入りますといきなり天井にこんな窓が。

保険会社時代はこの下に豪華なじゅうたんが引かれていたとか。今は真っ白な大理石っぽい床です。

エントランスから建物に入る脇にはこんな素敵なステンドグラスも。

 外観もそうですが、村野藤吾氏はRの魔術師といっていいくらい、曲線がお上手だそうで、いきなり目にはいる階段もこんなに優雅。

 今は安全のために(公共施設はお年寄りや子供も使うので)無粋なプラスチックで補強されてしまってますが、どうぞこのラインの美しさをお楽しみください。

「ぜひ階段の『裏』をみてください!」とガイドの方がおっしゃるので激写。「このラインの美しさったらない」んだそうです。ほぉっ。ガイドさん、惚れてます。

 これだけいろんなことが発達してれば、階段の設計でもある程度のマニュアルがありそうなものですが、ガイドの方曰く、幅や高さやバランスなどこんなきれいな階段を作るのは至難の技だそうです。確かに美しいですが、誰にでも作れないってのが不思議。ゴッホやレンブラントと同じ線がひけないていう感覚なんですかね。村野氏の時代は、CADとかそういうのもまだなかったのかな。設計図はフリーハンド?(ま、定規はあったか) なんかカッコイイです。

地下一階からの景色。実はこの敷地は結構高低差があるらしく、複雑な配置になってます。

この石は「心」という漢字を表しているとか。

「まるでベニスのよう」とこの景色を評したかたがいらっしゃるとか。

 地下一階は、以前は社員のレクリエーション施設みたいになってて和室がたくさんありました。長くなるので割愛しますが、障子のデザインとかオシャレでした。で、その奥になんと茶室があるのです。

自然の木とモダンな柵のコンビネーション。

奥に茶室が見えますが、屋根が鉄製なのお分かりになりますか?

 藤吾氏は鉄鋼関係のお仕事をなさってた関係で、鉄の特質を熟知してたとか。誰よりも自在に操ることができたので、このように和風な茶室と組み合わせて使ったりしたそう。

 そういえば、茶室には京都の老舗『唐長』の壁紙が使ってあったのですが、代々受け継がれてきた貴重な古い版木を使っているとのことでした。唐長さんが普段はしまいこんであるのをエラそうな爺さんが(藤吾氏のことです。ガイドさんが言ってました(笑))ずかずか上がり込んで探し回り、「これがいい」と指示したとか。昔の版木で摺ってるからところどころすり減って線が切れてるところとかあるんですよね。それがまたいい味になってる。写真撮ってみたのですが、薄暗いのでうまくピントが合わずうまくいきませんでした。

  この後、また外に出ていろいろ見せていただいたのですが、長くなりますのでこの辺にしておきます。以前はヘンリームーアの彫刻があったり、滝や川などがあって区民憩いの場となっていたようですが、残念ながらなくなってしまっています。やはり全く元のまま、という訳にはいかないようです。

 藤吾氏は大変長命で、90歳を超えてなお現役で仕事を続け、亡くなった時はポケットに未来日付の航空券が入っていたとガイドさんが言ってました。そこまで働き尽くせるって羨ましいですね。

 ガイドさんは最後に個人的にお気に入りの景色、というところに連れていってくれました。そこは、あのR(アール)がとても美しく見えるところで、こんなにこの建物を愛せるガイドさんこそが素敵だな、と思いました。

 いい仕事したいですね。私もがんばろうっと。

 

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船場の歴史について考えてみる

2015-05-27 23:13:26 | 大阪

 今月は『大大阪時代』をサブテーマにお送りします! と宣言したものの気が付けばはや5月も最終週。なのに、これといった『大大阪~』の記事がアップできずにいます。

 正直ちょっと書きあぐねてるんです。初めて中央区に行った時の「なんて不思議な町なんだ!」という印象は変わっていないものの、実際歩いてみると、残っているものは入れ物だけで、中身はただこじゃれたカフェ、なんてことも多くて、ハードとソフトが噛み合わない感じ。大阪でも屈指のオフィス街ですから平日昼間はサラリーマンでにぎわってますが、週末に行ってみたら閑散としてるし、栄えてるんだかさびれてるんだかよくわからない。で、結局紹介となると建物のしかも外観だけというパターンが多くて。でもそんなのさんざんみなさん取り上げてらっしゃるし。

 いちばんわかりやすいのは薬の道修町なんですけど、それは何度か取り上げてしまったしねぇ・・・とイマイチ自分の中で盛り上げるテーマが見つけられずにいます。

 というわけで、今日は初心に立ち返り、この町の成り立ちについて考えてみよう! というお話です。

 私がうろついてるのはいわゆる船場(せんば)と呼ばれるところなんですが、具体的にどこかというと大阪市中央区本町周辺を中心にした東西約1キロ、南北約2キロの地域。そもそもは秀吉が城下町として開発しようとしたんじゃないかってことで、京都と同じように碁盤の目に区切られてます。東西に走っているのが通で、南北が筋と呼ばれています。秀吉がそこに集めた商人たちがベースとなって、昭和初期までは舟運や線維貿易などで栄えたそうです。

 今は西横堀川などが埋め立てられて道になってしまいましたが、昔は土佐堀川など四つの川に額縁のように四角く囲まれていて、まさに「船場」と呼ばれるにふさわしい場所ですね。

 長い歴史のなかで発展してきた商家には尋常じゃないお金持ちがいたみたいで、小説にもしばしば登場します。

 有名なのは谷崎潤一郎の『細雪』ですよね。大阪の旧家の美人姉妹のお話です。

 谷崎は『春琴抄』でも主人公を思う丁稚の勤め先を道修町の薬問屋と設定していますので、この辺りには関心が深かったみたいです。ま、関西に魅せられて移住なさった方ですから・・・。

 もうひとつ船場といえば山崎豊子の『ぼんち』があります。こちらも船場の老舗に生まれた男の放蕩三昧の一生を綴ったものです。山崎豊子さんは実際に大阪の旧家の生まれだそうで、そうした家のかなりエグイ部分まで、ことこまかに描かれています。商家ですから、概念の基本が銭勘定なんですよね。大阪を理解する上で、これって大事なポイントだと思います。良し悪しは別にして。

 歴史があってしかも客商売ですから、やはり体裁が大事なんでしょうね、今では考えられないようなしきたりとか、商人たちの「共通語」として練り上げられた『船場言葉』というものがあったそうです。実は、今ちょうど『ぼんち』を読んでいるところなのですが、その語彙の豊かさやまるっとした語感、うたうようなイントネーションは、いわゆる関西弁とは似て非なるものです。谷崎もこの船場言葉に魅せられて『細雪』を全編船場言葉で書いた由。

 時代とともに商人文化は廃れてしまって、船場は衰退の一途をたどり、またバブル崩壊後は「シャッター通り」とか「倒産通り」とか不名誉な称号を与えられてきたようです。

 

 けれど、そこから草の根的町おこしの活動が盛んになって、マンション建設や景観の整備、町全体を建築の美術館としてとらえるなど様々な試みがなされてきて、減っていた人口も上向き、休日にはカメラを持った観光客(私だ!)や家族連れも来るようになったとか。

 ふーん、今まさに変わろうとしているところってわけですか。

 このちぐはぐ感は発展途上感なんですね。ちょっと納得です。

 さて、これを踏まえて、ふたたびぶらっとしてきます!

 

 

 

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