大阪のシンボル的存在、中央公会堂。
さて、先月ちらりと予告しましたとおり、5月のサブテーマは「大大阪時代(だいおおさかじだい)」。本日はその1回目でございます。
そもそも大大阪時代とはなんぞや、というところからですが、大正から昭和にかけて、大阪が人口で東京をしのぐほどの繁栄を誇った「大大阪時代」というのがあるんだそうです。もともと日本の旧首府・京都のおとなりで「東洋一の商工地」としてにぎわいをみせていた大阪。産業の発展と共に近隣の都市化も進み、大正14年4月1日、大阪市は隣接する町村を合併し、第二次市域拡張を果たして、人口が200万を超え、世界でも第6位の巨大都市となりました。大正12年の関東大震災で復興に追われ、人口が流出してしまったこともあって元気のなかった東京に変わって、大阪が日本第一の都市になったんです。それに伴って、経済、文化、芸術、そしてモダン建築が一気に花開きました。
・・・はい、ものすごい受け売りです(^^;
ちなみに参考文献は橋爪紳也監修の『大大阪モダン建築』(青幻社刊)です。
というわけで、中之島、船場、北浜近辺には、その時代の名残で、レトロモダンな建築物がいっぱいあるんです。しかも近代「洋風」建築ってやつですね。なぜなら、木造建築というのは大半が戦争中に焼失してしまったからだそうです(適塾は貴重なんですね!)。
いまいちモヤっとしてます? 大丈夫です。私もだいぶモヤっとしてます(笑)・・・って駄目じゃん。
いや、正直、街自体がモヤッとしてるんですよ。京都や奈良みたいに「ここが大大阪エリア」みたいに固まってあるわけじゃなくて、明治とか江戸の古い木造建築や、近代的鉄筋コンクリートの高層ビルの間にぽつりぽつりと、こういうレトロモダンな建物が散在してるわけです。しかも、建物のほとんどがレストランやカフェ、はては銀行として現在進行形で使われている。あの辺を歩いてて、その入り混じり方が不思議でしょうがなかったんです。
でも、考えてみれば、生活していくのに何もかもキレイに区切ってやっていけるわけじゃないですもんね。あちこちで少しずつ変化が起こってきて、気がついたら変わってたというのが自然なことなのかも。そう考えれば、今のモザイク状の景観は、庶民と共に変遷をとげてきたナマな都市の姿と言えるのかもしれません。
で、1枚目の写真ですが、最初に驚かされた建物、大阪市中央公会堂です。近代都市に突如出現するデコラティブな建造物。
向かい側にはステイト・オブ・ジ・アートな地下鉄への入り口だったり、
近代的な美術館があったりします。
しかし中央公会堂はあくまで重厚、ネオ・ルネサンス様式の華麗な施設は、市民のための集会施設として、大正7年の竣工です。
ヘレン・ケラーやガガーリン、アインシュタインなども講演したそうです。さすが歴史を感じます。
すごいのは、この施設は株の仲買商だった岩本栄之助が100万円の私財を投げ打って造ったってところ。都会に集会所は必要でしょ! って思ったら即、実行しちゃうすごいパワーの持ち主です。その後の改修や保存整備も市民の寄付や運動によって賄われたそう。大阪は市民の手によって築かれたと言われるそうですが、その面目躍如たる象徴的建物です。
窓の向こうが倶楽部でした。
3月末までここに『中之島倶楽部』という老舗の洋食屋さんがありました。石原裕次郎の日活映画に出てきそうな活気あるハイカラ(笑)なお店で、閉店を知らずにオムライスが有名だというので食べに行きましたが、3月27日ぐらいに行ったのでぎりぎりセーフ。間に合いました(笑)
私の親世代の青春時代はきっとこんな雰囲気。
とてもオーソドックスで上等なお味。オムライスがごちそう! という子供時代を思い出しました。
このオムライスだけは、近くの洋食屋さんで同じレシピのものが食べられるようになると書いてあってのですが、名前忘れちゃいましたね。わかったらアップします。
写真を撮りに行ったこの日、淀屋橋のたもとでは都構想反対のビラ配りが行われていました。大阪はこれから激動の時代へ突入していきそうです。そんな空気も拾いつつ、今月は、大大阪時代に迫ってきたいと思います。
内部が改築されると言うので反対運動が起こり、寄付をしたことあります。とんでもない話です。
若い頃、ギター教室に通えて楽しい時間を過ごしました。
このままずっと保存して欲しいです。
早速のコメントありがとうございます。
中をご覧になったことがあるんですか! それはうらやましいです私は写真でしか見たことがないので。
やはり、市民の皆様によって守られてきた建物なんですね。
私が調べた限りではとりあえず永久保存は決まっているんですよね?
耐震構造も施された由、ほんとにずっと残って欲しい建物です。