今月は『大大阪時代』をサブテーマにお送りします! と宣言したものの気が付けばはや5月も最終週。なのに、これといった『大大阪~』の記事がアップできずにいます。
正直ちょっと書きあぐねてるんです。初めて中央区に行った時の「なんて不思議な町なんだ!」という印象は変わっていないものの、実際歩いてみると、残っているものは入れ物だけで、中身はただこじゃれたカフェ、なんてことも多くて、ハードとソフトが噛み合わない感じ。大阪でも屈指のオフィス街ですから平日昼間はサラリーマンでにぎわってますが、週末に行ってみたら閑散としてるし、栄えてるんだかさびれてるんだかよくわからない。で、結局紹介となると建物のしかも外観だけというパターンが多くて。でもそんなのさんざんみなさん取り上げてらっしゃるし。
いちばんわかりやすいのは薬の道修町なんですけど、それは何度か取り上げてしまったしねぇ・・・とイマイチ自分の中で盛り上げるテーマが見つけられずにいます。
というわけで、今日は初心に立ち返り、この町の成り立ちについて考えてみよう! というお話です。
私がうろついてるのはいわゆる船場(せんば)と呼ばれるところなんですが、具体的にどこかというと大阪市中央区本町周辺を中心にした東西約1キロ、南北約2キロの地域。そもそもは秀吉が城下町として開発しようとしたんじゃないかってことで、京都と同じように碁盤の目に区切られてます。東西に走っているのが通で、南北が筋と呼ばれています。秀吉がそこに集めた商人たちがベースとなって、昭和初期までは舟運や線維貿易などで栄えたそうです。
今は西横堀川などが埋め立てられて道になってしまいましたが、昔は土佐堀川など四つの川に額縁のように四角く囲まれていて、まさに「船場」と呼ばれるにふさわしい場所ですね。
長い歴史のなかで発展してきた商家には尋常じゃないお金持ちがいたみたいで、小説にもしばしば登場します。
有名なのは谷崎潤一郎の『細雪』ですよね。大阪の旧家の美人姉妹のお話です。
谷崎は『春琴抄』でも主人公を思う丁稚の勤め先を道修町の薬問屋と設定していますので、この辺りには関心が深かったみたいです。ま、関西に魅せられて移住なさった方ですから・・・。
もうひとつ船場といえば山崎豊子の『ぼんち』があります。こちらも船場の老舗に生まれた男の放蕩三昧の一生を綴ったものです。山崎豊子さんは実際に大阪の旧家の生まれだそうで、そうした家のかなりエグイ部分まで、ことこまかに描かれています。商家ですから、概念の基本が銭勘定なんですよね。大阪を理解する上で、これって大事なポイントだと思います。良し悪しは別にして。
歴史があってしかも客商売ですから、やはり体裁が大事なんでしょうね、今では考えられないようなしきたりとか、商人たちの「共通語」として練り上げられた『船場言葉』というものがあったそうです。実は、今ちょうど『ぼんち』を読んでいるところなのですが、その語彙の豊かさやまるっとした語感、うたうようなイントネーションは、いわゆる関西弁とは似て非なるものです。谷崎もこの船場言葉に魅せられて『細雪』を全編船場言葉で書いた由。
時代とともに商人文化は廃れてしまって、船場は衰退の一途をたどり、またバブル崩壊後は「シャッター通り」とか「倒産通り」とか不名誉な称号を与えられてきたようです。
けれど、そこから草の根的町おこしの活動が盛んになって、マンション建設や景観の整備、町全体を建築の美術館としてとらえるなど様々な試みがなされてきて、減っていた人口も上向き、休日にはカメラを持った観光客(私だ!)や家族連れも来るようになったとか。
ふーん、今まさに変わろうとしているところってわけですか。
このちぐはぐ感は発展途上感なんですね。ちょっと納得です。
さて、これを踏まえて、ふたたびぶらっとしてきます!
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