ぶらっとJAPAN

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正午礼拝に行ってみた ~大阪 浪花教会~

2015-09-24 23:51:43 | 大阪

 

御堂筋線・淀屋橋駅から徒歩5分くらい? 高麗橋の「浪花教会」

 通りがかるたびに気になっていました。一体、中はどうなっているんだろうって。

 でも、いつだって扉はぴったり閉じられたまま。そっけない素振りに指を加えて見ているしかなかったのですが、ある時、毎週木曜日に正午礼拝をやっていることに気づいたんです。これはチャンス! とばかりに本日その礼拝に行ってきました。

 

ついに扉の向こう側へ。

  小づくりながらがっちりとした作りの階段をあがると、礼拝堂の入り口に机が設置されていて、受付用紙に名前を書けば、聖書と賛美歌の本を貸し出してくれます。併せて渡されたB6ほどの紙に目を通すと、礼拝は12時15分から30分。賛美歌とお祈りの唱和、聖書の一節を読んだ後、牧師さんの説教と続きます。

 礼拝堂は、ヨーロッパの映画などで観るようないわゆる礼拝堂を想像してもらえば間違いないです。単なる好奇心だけで潜り込んだ不謹慎さに気が引けて、さすがにいきなり写真を撮るようなぶしつけな真似もできず(^^;)。

 表から見える縦長の窓がステンドグラスになっていて、高い天井にカービングが施された机や長椅子は年期の入った木製、そのどっしりした作りと木の優しい手触りにとても心が落ち着きます。1930年竣工と言いますから、築85年くらい? アメリカ人の指導により、竹中工務店が設計・施工したそうで、いい仕事してます、っていう仕上がりです。入り口の真上にはパイプオルガンがあって、あんぐりと口を開けて周りを眺めているうちに、礼拝はこのオルガンの演奏から始まりした。

 本日の説教のタイトルは「輝くともしび」です。要約すると、聖書をともしびとして、人生を前に歩んでいこう、みたいなことです。

 もっと若いころに聞いたなら何も思わなかったかもしれませんが、人生の塩辛さみたいなものがわかる年齢にさしかかってくると、道しるべとなる一冊の本が身近にある心強さ、というのはとてもよく理解できます。その一冊が聖書なのかはわかりませんけれど。

 日本古来の信仰は、あるがままの世界に身を委ねるとか、自然に自分を同化させてその境界をどんどん薄めて土に還っていくようなイメージですが、キリスト教はあくまで人間が中心で、自らを高めて天に昇っていこうとする、とても強い「意志」を感じます。その意志の結晶が、聖書なんでしょうね。物事を腑分けして形ある言葉にし、それをともしびとして進むというのが、とても西洋っぽいと思いました。

 帰って調べてみましたら、この教会はプロテスタント系で、プロテスタントの方というのは特に聖書を大事になさるみたいです。また、浪花教会の前身である浪花公会を設立した澤山保羅(さわやまぽうろ)は、日本で初めて行われた按手礼(牧師になる儀式)を受けた方です。その立会人のなかには同志社大学の創始者・新島襄の名前も見えます。なかなか伝統ある教会のようです。

 キリスト教の詳しいことはわかりませんが、この浪花教会は、独立独歩な空気が好ましかったんですよね。堺の商人的な感じ?(笑)。実際、こちらは当初から海外の援助を受けずに日本独自の教会として発展したそうで、堺の商人、という形容はあながちはずれてないみたいです。

 はじめは賛美歌を歌ったり、聖書を音読したりすることの意図がわからなかったのですが、実際に参加していると、言葉として口から発する行為そのものが大事なのだと納得しました。外に出すことで、言葉はエネルギーに変わるんですよね。教会という空間が助けてるとはいえ、礼拝中にパワーが生まれるのを感じましたし、礼拝が終わって教会の外に出てみたら、あら不思議、気分はすっきりさわやか、雨模様の空もうっすら明るくなっているではないですか!

 クリスチャンではないし、今後どんな宗教に帰依するつもりもないですが、信念を持って言葉を発し、行動すること。それは信仰だのなんだのに関係なく大事だよなあ、がんばろう! と明るい気持ちで教会を後にしたことは間違いありません。

 

 

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