戦前から残っている建物というのは、どれもそれなりの風格がある。それが空襲をくぐりぬけて生き残ったとなると、やはり感動物だ。
村野藤吾という昭和の代表的な建築家がいる。日比谷の日生劇場や読売会館(以前有楽町のそごう、現在ビックカメラ)などを設計した方だが、その出世作が山口県宇部市にある渡辺翁記念会館だ。
名前からして何やら由緒ありそうだ。調べてみると、宇部市の企業7社に関わっていた渡辺祐策を記念して、昭和12年に建てられたそうだ。
ここで注目すべき事実は、音楽ホールとして設計されているということ。これは宇部興産の初代社長、俵田明、その娘婿の寛夫が音楽好きだったことが影響している。俵田の自宅にも欧米の音楽家を招き入れるほどで、そこにはメニューインやコルトーも含まれている。そして俵田寛夫は「宇部好楽協会」という音楽愛好者の団体を組織して、驚くべきことに、その好楽協会は現存している。
戦前の規格なので、現代の音楽ホールと同列に論じることはできない。楽屋で練習している音が舞台にもよく聞こえたりするなど、使い勝手も良くない部分はあるが、それでも同じ戦前にできた日比谷公会堂などよりは、はるかに良質な音がするし、特に2階席で聴くと、とても良い音が聴けるので、私は大変好きなホールである。
先日、その2階のロビーに初めて入った。そこで建設の頃から開館当初の様子などの展示に接したのである。
当時のプログラムもあって「戦闘曲」などという、今では考えられない曲目も掲載されていたりして、甚だ興味深い。
また、当時は冷暖房もなかったそうで、舞台に電気ストーブのようなものが足もとに置いてあり、弾いているのはシゲティ、という写真を見た時には、思わず背筋が伸びた。
実は、今でも場所によってかなり寒いホールなのである。ところによって暖房も故障していたりして、「渡辺翁=寒い」というイメージもある。
それでも、暖房の入っている場所も一応ある訳だ。
一方、暖房は足もとのストーブだけで演奏しにはるばるヨーロッパからいらしたシゲティ。ヴァイオリンは右手が常に宙を切るし、左手は心臓より上にあるから、どれだけ動いてもちっとも暖かくならない。どちらかと言うと、寒くなる一方のような状態で、満員の聴衆の前で演奏するシゲティの写真。
頭が下がると同時に、それと同じ舞台に立てる喜びも湧きあがってきたのも事実。
ここで思い出したのが、前記事で書いた「心の風車がカラッと回る瞬間」の話。
まさに渡辺翁記念会館は、そのような感動に包まれる場所なのだ。
このような場所を持つ市民は、本当に幸せだと思う。
実際、宇部市で演奏している宇部市民オーケストラは、見るからに宇部市民から支えられている感を強くする。プログラムを見ると、後援に前述の好楽協会以外に「宇部音楽鑑賞協会」というのもあり、「渡辺翁記念文化協会」や「宇部文化連盟」などの名称も掲載されている。
人口17、8万の市で、こんなに文化の香りが強い所はそうそうないだろう。
これはやはり俵田家の力が大きい。街の経済をリードする人達が「文化ってのはいいもんだ」と思うことで、街全体がそう思うようになるからだ。
同時に、音楽ではオーディトリアムの存在が大きい。渡辺翁記念会館に入って「音楽ってものはいいなぁ」と思う感情は一生残る。これが戦前に形成されたとしたら、かなり強力だ。例えば、残念ながら九州には、一つもそのような場所はなかったと思う。
それでも1980年代にできた熊本県立劇場は影響が大きい。現在、熊本市の合唱、吹奏楽、管弦楽、全て九州他県に比べて盛んなのは、このオーディトリアムの存在抜きには語れない。
1990年代には、他県にも相次いでできた。しかしデフレの時代にできているので、これが文化の繁栄にはなかなか結び付き難いものがあるように感じる。
とは言え、少しずつ繁栄の道を探るのが、我々の使命であろう。そのためにも宇部は良いモデルになると思うし、宇部のこれからの発展も祈るところである。