井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

感動の風車 ~芥川也寸志と旧奏楽堂

2012-03-14 00:27:34 | アート・文化

芥川龍之介を知らない日本人はいないだろうし、今後もずっと日本の文学者として重要な地位に居続けるのは論を俟たないと思う。

しかし、その三男、作曲家の芥川也寸志はどうなのだろうか?

弦楽合奏では「トリプティーク」がよく演奏される。オーケストラでは「交響管弦楽のための音楽」と「交響三章」がまあまあ演奏される。でもこれらの曲を知っている人は、結構クラシックに詳しい方である。

でも有名な童謡も少しある。「ぶらんこ」はあまり好きではないが、「小鳥のうた」(小鳥はとっても歌が好き)や「きゅっきゅっきゅう」(と靴をみがこう)は名曲だと思う。

だが、21世紀の現在、どの程度歌われているのか、甚だ心もとない。

存命中は、日本人ならみんな知っている有名人だったのだけれど、亡くなられて二十数年、ここまで風化することは、昭和の時代には想像すらできなかった。

と、ここまで書くと、以下「こんなにすごい人でした」と続くことを期待されたかもしれないが、実は私は芥川さん、あまり好きではなかった。

指揮がとても好きな方で、よくテレビでも指揮姿を拝見できた。その振り方もあまり好きではないのだが、何と言っても「曲が嫌い」なのである。

上述した曲は悪くない。「赤穂浪士」も良い。しかし、残りはほとんど多分ダメ。

もちろん全て聞いた訳ではない。が、はずれが三つ続くと、後は推して知るべし、というやつだ。

晩年の劇伴奏音楽に「武蔵坊弁慶」というのがあるが、主要部分以外は全て真澄夫人が書いていたらしい。それも嫌な話だ。

というのも、真澄夫人は、本来かなり優秀な作曲家と思われるからだ(日本音楽コンクール第3位)。と言っても、私が知っているのは1曲だけ。「山の祭り」というNHK合唱コンクールの中学生の課題曲だが、転調を繰り返し、変拍子もどきの複雑なリズムに彩られ、まさに才気煥発。昨今の飼育係だかアンタラ・ガキだかが作る曲とは一線を画す名曲なのである。

ちなみに、暇があったら「江川マスミ」で検索してみて下さい。エレクトーンの名手として多くのLPを録音していたことがわかります。(あの頃、うちでエレクトーンを聞く人なんかいたのかなぁ。)

平部やよいの先生としても出てきます。平部やよいはその昔、フィギュアスケートの渡部絵美がオリンピックに出る時に楽曲を提供したことで知られている(業界内だけかな?)方です。

話が逸れてしまったが、この優秀な作曲家をカコッてしまった、というのも芥川さんが気に入らない理由の一つ。

なのだが、芥川也寸志さんの話で唯一忘れられない話がある。

学生時代のこと、旧東京音楽学校奏楽堂を建て直す、移設する、保存するで、大の大人たちがさんざん揉めていたことがあった。

「奏楽堂を救う会」というのができて、旗をふったのが芥川也寸志さんと黛敏郎先生である。

お二人ともマスコミと政治に強いから、世間を動かす力はものすごかったが、それでもなかなか動かない芸大生に動いてもらおうと、芥川也寸志さんが東京芸術大学の「学生大会」にお見えになったことがある。

すでに学生運動の跡形もないキャンパス、「学生大会」などというものに参加する学生は、かなり稀少。委任状さえ集まらず、いつも「学生集会」で終るのが常だったのだが、みんなが行かないところには顔を出したくなる天の邪鬼な私は、無論学生大会に参集する訳だ。

第6ホールという500名くらいは入れるところに20人くらいいただろうか、その少数精鋭の学生に向かって芥川さんが語り始めた。

先日、ライプチヒに行ったんです。そこの音楽院に行ったのですが、それはメンデルスゾーンゆかりの地です。そこに滝廉太郎も行ったはずです。そのままの建物が残っているんですね。

建物としてはただの建物かもしれません。でも、そこにたたずんでメンデルスゾーンとか滝廉太郎のこととか思い浮かべると、心の中の風車みたいなのが「カラッ、カラッ」と回り始めるのね。感動ってそんなものだと思うんですよ。

で、それと同じ役割を持つのが、この「奏楽堂」だと思う訳ですよ。

「奏楽堂」については、その前後にいろいろとドラマが展開されるのだが、それはともかく、この心の中の風車の話は、事あるごとに思い起こす。

曲はつまらなかったけれど、芸術家としては魅力的だった、というべきか。最近もまた思い出しては感慨にふけったところであった。その話はまたいずれ。