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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

パールマンは不滅です①

2017-11-21 00:35:00 | ヴァイオリン
11月に久しぶりの来日公演、東京、大阪、福岡の計4回のステージのみ。
福岡公演は、そのチケットを手に入れるために「アクロス友の会」という特別前売りがあるグループにはいる人がいるほど、とにかく大人気、久しぶりの大物スターの演奏会だった。

私は、というと、それを尻目に…行かなかった。約40年前の感動と同じものが得られるとは思わなかったからである。

1978年の9月だったか、九州交響楽団の定期演奏会のソリストとしてパールマンが演奏したことがあった。
それは大騒ぎで、未だに語りぐさの伝説的公演である。

指揮は黒岩英臣氏で、まずタンホイザー序曲が演奏された後、メンデルスゾーンの協奏曲とチャイコフスキーの協奏曲をパールマンが演奏するという、何とも贅沢なすごいプログラムだった…ようだ。

実は、メンデルスゾーンの最初の美音で舞い上がってしまい、あとはあまり覚えていない夢のような時間だったから。

はっきり覚えているのはアンコールでパガニーニのキャプリス5番をやったこと。
この曲を偶然練習中だったから衝撃だった。
パールマン自ら「ダイゴバン」と日本語で紹介して弾き始めた。
ひたすらかっこいいキャプリスだったなあ。

調弦のエチケット

2017-11-06 08:30:00 | ヴァイオリン
本番前のチューニング、これはクラシック音楽系独特の慣習かもしれない。何せ、拍手を受けてお辞儀をした後、堂々とやる場合もあるのだから。

チューニングも管楽器と弦楽器ではかなり状況が違う。管楽器は発音体は一つだし、気温が異常に高かったり低かったりしなければ、数秒間の確認だけで済む。

弦楽器は、弦が4本あり、照明に当たったりすると瞬時で狂うので、そうはいかない…
というのはガット弦を張っている場合である。

ナイロン弦に始まった合成繊維系の弦はほとんど狂わず、音色もかなり改善されたおかげで、数十年前から9割以上の人が使うようになった。

なので、舞台袖で調弦を済ませておけば、舞台上でガーガーやる必要はないはずなのだ。

それなのに実際はどうだろう。

また、傾向として、ヨーロッパ人はチューニングから音楽が始まっていると考える人が多い。一方、アメリカ人はチューニングはあくまでもチューニングと思っている感じがする。

どちらかを否定することはできないが、チューニングをひっそりと会場の空気になじませるようにやって、という現場に遭遇すると、それだけで少し感動してしまうはず。

くるっと真後ろを向いてしまうのも私は気に入らない。聴衆に背中を見せて良いのは指揮者だけと昔から言われているはずだ。

ついでにピアノ伴奏者にお願いがある。これもベテランなら当然のこととしてやっていることだが、お辞儀が済んだらすぐにA音を出してほしい。
椅子の高さやら楽譜を置いたりする前にである。
まれに椅子が座れる場所に置いてない場合もある。その時は座らないで良いから立ったままで弾いてほしいと思う。

A音を出した後に調弦するのだから、ピアノ伴奏者には十分時間がある。その時に椅子やら楽譜などは準備できる。

最近はチューナーという便利な機械がある。本番前は「あがって」耳が正常に働かないこともあるから、舞台袖でどうぞチューナーを使って、調弦をしていただきたい。その後、安心してステージに出て、お辞儀の後はフワフワっと儀式的な調弦をして、演奏をする。そう願いたいものだ。

スター誕生はいつ?

2017-10-11 07:08:00 | ヴァイオリン

筆者の学生時代は約30年前、声楽においてテノール人口がとても少なく、日本人はバリトン民族とか何とか言われていたものだ。芸大の受験者もバスの方がテノールより多かった。


それが20年ほど前になると、テノールの受験者が激増したのだ。一挙に日本人の声が甲高くなった・・・はずはない。


芸大の先生曰く「三大テノールの影響」


ちょっと高い声が出る男どもが、我も我もと受験に参加したようなのだ。






さて、10年ちょっと前、少子化の波に逆行して、コンクールのヴァイオリン受験者が増えていった頃があった。比例して芸大のヴァイオリン受験者も多かった。


芸大の先生に伺った「ハカセの影響ですか?」


芸大の先生曰く「そう・・・かな・・・?」


かなり歯切れの悪い返事だった。






ところで数年前から、東京芸大が直接子供の教育に乗り出し始めた。


「あんなの、私学いじめよ!」と私学関係者の大御所が言ったら、


「いえ、そういうことではなく・・・」と芸大関係者。


ここのところ東京芸大も受験者が激減し、すでに邦楽科は定員割れを起こし始めた。


この受験者の減るペースは少子化のペースよりも激しいそうで、そこに東京芸大は危機感を持ったとのこと。なので、とにかく音楽に関心を持ってもらう子供を増やそう、というのがまず第一義なのだそうだ。


もっともらしい説明で、嘘ではないと思うけと、筆者としては、ついにバブルがはじけたか、という感じが強い。


つまり少子化が始まっていたにも関わらず、ヴァイオリンの受験者が増えていたのは「バブル」だと思うのだ。


名付けてハカセ・バブル。


筆者は幸か不幸か、太郎氏とは入れ違いだったので面識はないけれど、ということはちょっと下からずっと下の人まで、太郎氏と面識がある年代がいる、ということになる。


その年代の皆さんと芸大の教員の皆さん、ほとんどが、このハカセ・バブルを認めないような気がする。(特に太郎氏より年上の皆さんは。)


でも、ほとんどの皆さんは、このハカセ・バブルの恩恵を被っているはずだ。受験者が多いのはもとより、筆者でさえ「情熱大陸」を弾いたことがある。パガニーニが弾けなくても情熱大陸さえ弾ければ、大ウケ間違いなし!だったでしょう?


全日本学生音楽コンクールの全国大会のプログラムには、出場者全員「共演したいアーティスト」を書く欄がある。旧聞で申し訳ないが、3年前にはここに太郎氏の名前が3回も書いてあるのだ。3回も出てくるのはあと小澤征爾のみ。(ちなみに最多は5人の佐渡裕。)


スターが出てくれば、そのジャンルが盛り上がるのが常識だ。野球やサッカーはコンスタントにスターがいるし、愛ちゃんが出てくれば卓球に、ヤワラちゃんが出てくれば柔道に、と日本人は動いてきた。


そして太郎氏は20年以上、ヴァイオリン界を盛り上げてくれた訳だ。すばらしいことである。


もちろん今からもずっと盛り上げてもらいたい。一方で20代30代の中からドクター次郎とかマスター三郎とか出てきてくれないのだろうか。東京芸大が子供育成に手を出すより、はるかに効果があると思うのだけれど・・・。


チャイコンのイントロはハートマーク!?

2017-08-30 17:56:00 | ヴァイオリン
クラシック音楽の入門書のようなガイドブックがコンビニで売られていた。
まあ、大抵知っていることだろうけど、どのような切り口で語られるのかなあ、程度の興味で立ち読みしたら、…びっくり。己の浅学非才を知ることになる。

ショスタコーヴィチの交響曲第5番には、ある歌曲の伴奏だけが引用され、そのことにより、プーシキンの詩が浮かび上がってくる……。

まいったね、まだ謎解きが残っていたか、このショスタコーヴィチの5番。

そして、何よりの「びっくり」は、チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲第1楽章の謎解き。

この曲はヴァイオリニスト、コテークの協力により完成されたことは知られている。その際、当時大流行のラロのスペイン交響曲が参考にされたことも。

しかし、それが直接引用されていたのは気づかなかった。
ラロの第5楽章の中間部の主題とチャイコフスキーの第1楽章第2主題は、共にA-Gis-H-A(ラソ#シラ)でできている。

おまけに冒頭部分のFis-E-D-A-D-E-Fis(ファ#ミレラレミファ#)は音符を線で結ぶと「ハートマーク」、これはコテークに対するチャイコフスキーの愛を表している、というのだ。

以前から、この序奏が本編とどう関わっているのか、ずっとわからずにいたので、この説はストンと腑に落ちてしまった。

チャイコフスキーは意外なほどに、と言っては失礼だが、バロック音楽でよく使われた「フィグーラ(音型象徴)」を勉強した形跡がある。バッハが楽譜に十字架を書き込んだが如く、チャイコフスキーも楽譜にハートマークを書き込んだ、という説だ。

こんなことを初心者向けのガイドブックに書く人も書く人だが、その著者は「なぜこれに今まで気づかなかったのだろう」とのたまわっていた。

誰が気づくかいな!
それともこれは遠まわしな自慢ですか!
(ちなみにその著者は私と同い年で、30年以上会ったことはないが、学生時代の知人である。)

個人的な感情はともかく、一旦その説が頭に入ってしまうと、もう「ハートマーク」にしか聞こえない序奏となってしまうのであった。

欠点が出にくいシベリウスの協奏曲

2017-08-06 10:01:34 | ヴァイオリン
周知の通り、シベリウスはヴァイオリンが弾けた。おかげで、かなり弾きやすく演奏効果の高いヴァイオリン協奏曲が作られた。

おかげで、コンクールでもこの曲は高得点を得られやすい。難しい技術も随所に使われているが、表面的に難しいリコシェ、トリル、付点などができない人は、そもそもこの曲を選ばないからだ。

私が納得いかないのは、一流のソリストであっても楽譜通りに弾いていない人が多く、またそれがこの曲に限って容認されている現状である。

1楽章の終わり近くのオクターブ重音を一部省略程度は私もやるが、ニュアンスを示す小さな記号が無視され、オペラのアリアのように朗々と響かせるだけの演奏が、結構まかり通っている。

一つには、現在出版されているリーナウ版(オリジナルに近い)とインターナショナル版(弾きやすい)のボーイングが所々かなり違うこともあるだろう。

しかし、事細かに書かれた速度標記、表情記号、奇怪とも言える強弱記号を読み取っていない流麗な(=平板な)演奏は、シベリウスと言えるのだろうか。

アジア人には、この曲の旋律線がとても琴線をくすぐるようだ。換言すれば、その旋律線で満足してしまうのだ。
しかし、オーケストラ作品に接すればわかる、シベリウスの奇々怪々さは本質の一つだと。

なので、その奇怪さまで表現してこそシベリウスなのだ、と思ってほしいものである。

しかし、名曲だなぁ。シベリウスのフィンランド的な要素を日本的な要素に置き換えた協奏曲を作ってみたいものだ…。