周知の通り、シベリウスはヴァイオリンが弾けた。おかげで、かなり弾きやすく演奏効果の高いヴァイオリン協奏曲が作られた。
おかげで、コンクールでもこの曲は高得点を得られやすい。難しい技術も随所に使われているが、表面的に難しいリコシェ、トリル、付点などができない人は、そもそもこの曲を選ばないからだ。
私が納得いかないのは、一流のソリストであっても楽譜通りに弾いていない人が多く、またそれがこの曲に限って容認されている現状である。
1楽章の終わり近くのオクターブ重音を一部省略程度は私もやるが、ニュアンスを示す小さな記号が無視され、オペラのアリアのように朗々と響かせるだけの演奏が、結構まかり通っている。
一つには、現在出版されているリーナウ版(オリジナルに近い)とインターナショナル版(弾きやすい)のボーイングが所々かなり違うこともあるだろう。
しかし、事細かに書かれた速度標記、表情記号、奇怪とも言える強弱記号を読み取っていない流麗な(=平板な)演奏は、シベリウスと言えるのだろうか。
アジア人には、この曲の旋律線がとても琴線をくすぐるようだ。換言すれば、その旋律線で満足してしまうのだ。
しかし、オーケストラ作品に接すればわかる、シベリウスの奇々怪々さは本質の一つだと。
なので、その奇怪さまで表現してこそシベリウスなのだ、と思ってほしいものである。
しかし、名曲だなぁ。シベリウスのフィンランド的な要素を日本的な要素に置き換えた協奏曲を作ってみたいものだ…。
おかげで、コンクールでもこの曲は高得点を得られやすい。難しい技術も随所に使われているが、表面的に難しいリコシェ、トリル、付点などができない人は、そもそもこの曲を選ばないからだ。
私が納得いかないのは、一流のソリストであっても楽譜通りに弾いていない人が多く、またそれがこの曲に限って容認されている現状である。
1楽章の終わり近くのオクターブ重音を一部省略程度は私もやるが、ニュアンスを示す小さな記号が無視され、オペラのアリアのように朗々と響かせるだけの演奏が、結構まかり通っている。
一つには、現在出版されているリーナウ版(オリジナルに近い)とインターナショナル版(弾きやすい)のボーイングが所々かなり違うこともあるだろう。
しかし、事細かに書かれた速度標記、表情記号、奇怪とも言える強弱記号を読み取っていない流麗な(=平板な)演奏は、シベリウスと言えるのだろうか。
アジア人には、この曲の旋律線がとても琴線をくすぐるようだ。換言すれば、その旋律線で満足してしまうのだ。
しかし、オーケストラ作品に接すればわかる、シベリウスの奇々怪々さは本質の一つだと。
なので、その奇怪さまで表現してこそシベリウスなのだ、と思ってほしいものである。
しかし、名曲だなぁ。シベリウスのフィンランド的な要素を日本的な要素に置き換えた協奏曲を作ってみたいものだ…。
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