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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ピアノの屋根④アタックの雑音成分

2018-11-06 19:18:00 | 音楽
学生時代、ミュージック・シンセサイザーに興味津々で、ピアノやヴァイオリンの音を、VCO(オシレーター)とVCF(フィルター)の合成で、何とか作りだしたいと、躍起になっていたことがあった。現在主流のディジタル・シンセサイザーが発明される数年前のことだ。冨田勲が初期に使っていた、いわゆるアナログ・シンセサイザーである。

しかし、どうしてもできない。

先生からは「あのカツンというノイズを入れないと、ピアノの音にはならないよ」と、何度も言われた。

そうかもしれない、と頭では理解しても、雑音をわざわざ入れるのはとても抵抗があった。
日頃、雑音をできるだけ入れないようにと訓練されている身としては。

しかし、アタックの雑音成分が全くないと、我々はその音をピアノとして認識できない。

昔はテープレコーダーを逆回しに再生という芸当ができた。そうやってきくと、ピアノの音はオルガンのように聞こえる。

もう少し新しいところだとMDを使って実験ができた。長い音価の音符を弾いて録音し、出だしのアタックだけをカットしてしまう。すると、やはりオルガンのような音になる。

いかに最初の雑音成分がピアノを特徴づけているかという証拠である。(今、これらの実験が難しくなったのは残念)

この雑音成分は、わざと鳴るように作られているそうだ。そしてタッチ如何で、限りなく減らすこともできる。

ピアノを弾く方々には、それを認識して、自由自在に雑音成分を入れたり無くしたりしてほしいものである。

現在の音楽室にある年表

2018-10-22 18:20:35 | 音楽

私が小学生の時、音楽室に貼ってある年表で、ショスタコビッチ等を覚えたことを以前の記事に書いた。

では、現在の小学校の音楽室には、どのような年表が貼ってあるか。
とある学校に行って、びっくり仰天。



ストラビンスキー《火の鳥》
プロコフィエフ《ピーターと狼》
山田耕筰、宮城道雄

このあたりは我々の時代から変わらない。

ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》
バーンスタイン《ウェストサイド物語》
このあたりが市民権を得た、という感じかな。

その伝でいけば、
リヒャルト・シュトラウス
ファリャ《三角帽子》
も、同様のことが言えるかもしれない。

しかし、あとは段々奇妙なラインナップになっていく。

ラベル《歌曲シェラザード》

は?《ボレロ》でも《ダフニスとクロエ》なくて……

この選者は歌ものがよほど好きなのか、マーラーは《大地の歌》、バルトークは《青ひげ公の城》、ショスタコビッチは《森の歌》になっている。

傑作ではあるけど、1曲挙げるとき、私なら選ばない。

極めつけの不可解は
黛敏郎《素数の比系列による正弦波の音楽》

黛先生はどう考えても代表作は《涅槃交響曲》でしょ。

それ以上に、中田喜直、團伊玖磨、武満徹を退けて黛敏郎とは、またユニークな見識である。

一般的には、ここに武満なのだと思う。しかし私の見解は、武満も三善晃も百年後には音楽史上にのみ残る作曲家になるのではないかと思っている。バロック時代のビーバーやロカテルリのような存在である。(両者とも音楽史上重要な足跡を残している。)

なので、武満が載らないことに関しては納得するのだが、他のラインナップは、やはりいただけない。
シュトックハウゼンではなくてメシアンでしょっ!

こういう年表を眺めながら育つ私のような子どももいるのだから、もっと考えて作成してほしいものだ。


チック・コリアを聴いてきた

2018-10-19 18:17:36 | 音楽

「北九州国際音楽祭」という、れっきとしたクラシック音楽の音楽祭なのだが、そこに「チック・コリア ソロ・ピアノ」というコンサートがあった。副題が〈フロム・モーツァルト・トゥ・モンク・トゥ・コリア〉。1980年代からクラシック音楽にも近づいていたチック・コリアだから、それらしいこともやるのだろう。

チラシに名前を発見して「うわぁ凄い」と思う一方、逡巡する自分がいた。

私はジャズのコンサートで、必ず寝てしまうのである。一流の演奏家でなければ行かないから、演奏が悪い訳ではないはずなのだが、あるいは、とても良い演奏だからなのか、どうしても寝てしまう。それに、中学生の時に「スペイン」が発表され、カセットテープに入れて繰り返し聴いたものだが、何回聴いても面白いとは思わなかったし。

だが、意を決してチケットを手に入れた。事前に睡眠が足りて入れば大丈夫だろう……。

会場は北九州市立響ホール、クラシック音楽専門のホールである。

そこに、チック・コリアは、ほぼ普段着で現れた。我々が拍手で迎えると、彼も拍手をして我々に応える。面白い光景から始まった。この日は日本ツアー最初の公演であること等が、彼の口から英語で語られた。

まずクラシック音楽とジャズ(?)の組み合わせということで、モーツァルト(へ長調のソナタの第2楽章)とガーシュイン(誰かが私を見つめている)を組み合わせて弾くよ、という説明があったのだが「ではチューニング」と言い、ピアノでAの音を鳴らす。そして聴衆の我々に「歌え」というサイン。なんとなく我々もAをハミングすると、次にピアノで「B-G-A」、続けてまたサイン、我々も「B-G-A」、とコール&レスポンスが始まった。

そしてモーツァルトに流れ込んで行った。いやはや、のっけからハートを鷲掴み。(このコール&レスポンスは、この後2回くらいあった。)

続いてはスカルラッティのソナタ(コンクールで良く聴くやつ)とジョビンのボサノバ(ヂサフィナード)の組み合わせ。

ただ組み合わせといっても、続けて弾くだけではある。モーツァルトとスカルラッティは丁寧に譜面を広げて弾いていたのはご愛嬌。

それから、彼の好きな曲ということでデューク・エリントンの《ソフィスケイティッド・レディ》、友人のギタリスト「パコ」のために作った曲と続くのだが、その辺りでやはり睡魔が襲ってきて、もう1曲あったと思うが思い出せない。

休憩が20分もあったのでロビーに出た。聴衆はほぼクラシック音楽の聴衆の雰囲気で、ジャズ・コンサートの雰囲気はほとんど感じられなかった。

休憩後、やはりフード付きパーカーにGパンで現れた彼は「ゲームをしよう」と言い、彼はピアノの前に椅子を出した。「今からポートレートを作る」と言って、会場からポートレートを作って欲しい人を募った。

結局男女一人ずつがその椅子に座り、一曲ずつ彼の即興演奏による「音の肖像」を我々は聴くこととなった。

次のゲームは連弾。「チック・コリアと連弾したい人」と、同じく会場から募ると、ちゃんといるんだねぇ、即興ピアノが弾ける人が。こちらも男女一人ずつ、計2曲即興の連弾曲が誕生した。

ゲームの次は「北九州のための音楽」。この日のコンサートは録音されていて、今から弾く、北九州のための音楽は、希望者にEメールでそれをプレゼントするという企画(帰り際にアドレスが配布された)。なるほどねぇ、21世紀だねぇ。

続いて、最近子どもの精神に啓発されて作った曲集の中から何曲かが披露された。これは、ほぼクラシック音楽のスタイルで、自作であるにも関わらず、楽譜を見ながらの演奏であった。

「And one more...」と言いながら、ピアノの譜面台を外し、内部奏法を始めた。ピアノはヤマハで、多分持ち込みだろう。そうやって始まった曲も、おそらく自作。10分近くかかる曲で、これで予定していたらしいものは終了だった。(曲目が印刷されたものは一切なかった。)

鳴り止まぬ拍手に応えてくれたアンコールは、「スペイン」のニュー・バージョン。最後に例のコール&レスポンスで会場一体となり、休憩含んで約2時間半のコンサートが終わったのである。

子どもスピリッツの曲が、ほぼオスティナート(執拗音型、同じパターンの繰り返し)だったこともあり、「スペイン」の5度進行による循環コードが、とても身にしみて心地よかった。これこそが私にとって、彼から、あるいは天から贈られたギフトだなぁ、と思いながら帰路に着いたのであった。


演奏の目指すもの

2018-08-22 07:09:00 | 音楽
何かを演奏して他人に聴いてもらう行為の目指すところは何か。

言わずと知れたことで、まずは聴いてもらう人に楽しんでもらうこと。ここまでは当たり前のことで、今さら取り沙汰するような話ではない。

どう楽しんでもらうか。

ここからは、演奏する人によって様々な方法がある。

見た目を楽しませるために衣装に凝ったり、照明で演出したり、というのもあるし、私などは曲の構造を解き明かす説明をしたり、単なる思い出話をしたこともあり、とにかく興味を持ってもらうために手を尽くしたものだ。

このような方法が、その時の自分にとってのベストな手段だったから。

しかし、経験を重ねてくると、私のようなものでも「あ、みんなが聴いてくれている」という気配を感じる瞬間がある。
それこそ「演奏の醍醐味」である。

こういった瞬間を経験できるようになると、前述のような「興味を持ってもらうための工夫」の必要を、あまり感じなくなる。

そして、言わば「魂レベルの交流」とでも言うようなものを、いかに長い時間できるか、に関心が移ってくる。

この短い時間に、演奏者と聴衆両者の魂をどれだけ燃焼できるか、これが演奏の目指すものなのではないだろうか。

私の目下の目標は、仮にどんなにつまらない曲でも、魂を燃焼させて「何だか良かったね」と聴衆に感じてもらうこと。
難しいことだけど、ようやくそのレベルに達したことは、素直に嬉しいものだ。

私の好きなプレヴィンは

2018-07-31 07:50:00 | 音楽
ラフマニノフが得意なプレヴィン、それは嫌いではない。

メシアンのトゥランガリーラ交響曲も鄭ミョンフン盤よりずっと良い。

ラプソディー・イン・ブルーも悪くない。しかしこれはバーンスタイン盤がもっと良い。

プレヴィンの感覚を疑い始めたのは、ファリャの三角帽子、第2組曲を聴いてからだ。こんなに燃え上がらない演奏は聞いたことがない。誰がやっても盛り上がる曲だとばかり思っていた。

それ以降、私のプレヴィンの評価は上がることがなかった…

と言うと、不正確。

ジャズ・ピアニストとしては大好き。

昔、いとこからもらった《マイ・フェア・レディ》という、ジャズのピアノトリオのLPを聴いていた。これが最高に良い。

他に《ウェストサイド物語》のピアノトリオ、《マイ・フェア・レディ》のカルテット盤(ギターが加わる)もFMで聴いたが、これらもすべからく良い。

そう言えば、映画版の「マイ・フェア・レディ」でもプレヴィンの名前がクレジットされていた。

ついでに思い出したが、やはりミュージカル映画の「ジジ」では音楽担当者としてアカデミー賞にノミネートされていたはずだ。しかし、実際オスカーを手にしたのは「ある愛の詩」のフランシス・レイで、そのニュースを日本で聞いたプレヴィンは、なかなか複雑な表情をしていたと、何かで読んだ。

その何かはクラシック音楽の雑誌だった。ロンドン交響楽団の指揮者として来日中のインタビュー記事だったと思う。

要は、もう既に一流のクラシック音楽家として評価され始めていた時期の話である。そして、それから現在に至るまで、プレヴィンのことをジャズ・ピアニストと思う人はいないだろう。当人もそれを望んでいる感じだし、ジャズ界でもジャズ・ピアニストの中に入れている感じはしない。

しかし、私としては、あのジャズ・ピアニストのプレヴィンが一番素晴らしかったのでは、と思えてならないのである。ご当人とすれば、多分不本意であろうけども。