教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

自由を犠牲にしてでも欲しいものとは?

2015-09-05 23:38:38 | 経済/経済/社会
「艦これで夏の大規模イベントのために1年かけて準備してきたが、嫁のためにあきらめて丙にした」

「どうしても欲しいフィギュアがあって買うかどうかを先行予約期限1時間前まで迷いに迷ったが、嫁のためにあきらめた」

どちらも当blog読者のAさんとBさんの話である。
当人が読んだら自分のことだとわかるはずだ。

わたしにはこのGoとStopの境界がどこにあるのかはかいもく見当もつかないが、
家庭を持つとこんなもんなのかと思わなくもない。

しかし待ってほしい。
人類とはこういうものなのだろうか?



進撃の巨人の世界を思いだしてほしい。

かの世界では、人類は自由を勝ちとるめに生命の危険をもひきかえにして戦った。

だがこちらの世界の人類は、こんなささいな自由をも得られない。

・・・いや違うな。
この説明は良くない。

こちらの世界の我々は、こんなささいな自由をも「得られない」ではなく「放棄した」というほうが正しい。

進撃の巨人の世界の人類が世界を自由に闊歩できないのとおなじ意味において、「得られない」では選択の余地なくそうなったことになる。
それに対してこちらの世界の人類は、自ら選択して自由を「放棄した」のだ。

なぜだ!?

人類は命をかけてでも欲しがった自由を放棄して何を求める!?



これは、ぱっと見にはマズローの欲求5段階説では説明がつかない。

最下層の生理的欲求はどちらの世界でも満たす選択肢がある。
調査兵団に自ら望んで入隊した者は2番目の安全欲求を放棄して自由を選んだ。
家庭を得るというのは3番目の社会的欲求を満たすための要件なのかもしれないが、あえて放棄した自由が欲しいという欲求は5段階のどこにも属さない。

たとえばわたしの人生でいうとだな、
最も自由の無かった中学校時代では刺されたり骨折したりなどという程度の安全など気にも留めない粗暴な状況であり、
そのような状況下では現代の人類よりも調査兵団の人々のほうにむしろ近いかもしれないとも思う。

つまり、自由への欲求とは、ときに安全への欲求をも凌駕する。

ではいったい自由とは何なのか?

自由への欲求は安全欲求より強いことから、生理的欲求に含まれるのだろう。
自らへの束縛を嫌い行動の決定権を自ら握りたいというのが自由であり、それは生理的欲求である…と言う解釈であながち間違いではなかろう。

ではなぜ人はかくも簡単に自由を放棄する?

それを放棄してでも得たい生理的欲求があるのだと説明がつけられるのであれば説得力がある。

たとえば子孫を残したいという生理的欲求なのだろうか・・・。
たとえば異性が欲しいという生理的欲求なのだろうか・・・。

うぅむ・・・、これでは説得しかねる気がする。

ではどうすれば説得力がある?

一般論としてもっとも妥当っぽい説明をするとすれば、下から3番目の社会的欲求を満たすためにリアル嫁が必要、となる。

だが生理的欲求を犠牲にして成り立ちうるのだろうか?

時にこれは成り立ちうる。

たとえば良い大学に入りたいという下から4番目の承認欲求を満たすために最下層の欲求である睡眠欲求を犠牲にして睡眠時間をけずってまで勉強する、など。



ここまで考察してようやくわかった。

わたしの場合は自由への欲求という生理的欲求が人より強いのだろう。
それに対し社会的欲求や承認欲求が人より弱いのだろう。



人はそれぞれ、なるべく求めるものを満たせるようなところへ自動的に収まる。
わたしは今のままのほうがたぶん良いのだろう。

その証拠に、わたしは多くの人が思うように子供のころに戻りたいなどとと思うようなことがない。

会社勤めという意味では子供のころより時間的束縛があるかのように見えるが、研究開発職というのは仕事してても半分遊んでいるようなものであり、子供のころの学校通いで毎日かかさず時間がたつのを待っていたあの頃の自由への渇望とはまるで違う。
自由になるお金は3桁は増えたし、一人暮らしにより消費を拘束する者も排除したことで物欲への渇望は完全に消滅した。
かつては痩せすぎくらい痩せていて疲れやすかったが、いまは標準体重となったおかげか、かつてより疲れにくくなり、健康面での自由ですらより強化された。
教員から暴行を受けたり自分が他人に暴行したりなどという身体的自由の拘束ももはやない。

大人になるってすばらしい。
わたしが子供のころに欲しかったものはたぶん今ほとんどすべて持っている。