人形遊びとフィギュア遊び。
これは一見すると単にカタカナ英語化しただけの同じモノのようにも見える。
しかし!
これは根本的に全く意味の異なるものである。
人形遊びとは、女児の遊びである。
ところがどっこいフィギュア遊びとは、いい歳こいた大人のする遊びである。
では、いったい何が違うからそうさせるのか?
まず女児の人形遊びをよく観察してみよう。
ママゴトなどをしていて、自分が奥さん役で人形が旦那さん役。
たとえばそういうスタイルが一般的であろう。
ここで注意することは1つ。
女児はその人形に話しかけているというところである。
女児はその人形に人間の代替を要求している(というか、仮定しているというか・・・)と言って良いかと思う。
ありていに言ってしまえば、これは偶像崇拝の一種になるかもしれない。
さて次に、フィギュア遊びをしているオタをよく観察してみよう。
あんまり観察する機会はないかもしれないが、観察対象はたとえば我輩でもいい(笑)。
オタははたしてフィギュアに話しかけるのだろうか?
答えはNO。
オタはフィギュアには話しかけない。
よくTVドラマなんかでは、キモオタの代表として
「○○ちゃん可愛いよ、ハアハア、なでなで」
みたいなことをフィギュアに対してやっているヤツが出てくるわけだが、これは明らかに間違っている。
キモオタを面白おかしく過剰にキモくしたいがための情報操作であり、フィギュアを愛でるだけの度量も眼力もない一般人が想像で作っているキモオタ像である。
こいつらTV局が作った放送内容は信用しないこと。
これは本当にフィギュアで遊んでいるホンモノのキモオタの我輩が言うのだから間違いない(笑)。
ただし評価サンプルが1個体しかないので一般的に必ず当てはまるものだとは必ずしも断言できないものはあるのだが・・・。
では、オタのフィギュア遊びとは何か?
オタは単にフィギュアを眺めて愛でているだけである。
それ以上のものは何もない。
では、眺めて愛でる動機とは何か?
これは2つある。
1つ目。
三次元構造の造形美を楽しむこと。
これは優れた工業製品は造詣としても美しいという事とほぼ同じ意味になる。
たとえばサイドハウジングを外して燃焼室があらわになったロータリーエンジンは造詣として美しい。
100年前の懐中時計の裏蓋を開けるとあらわになる歯車のその輪列は造詣として美しい。
フィギュアの造形美を楽しむこととはそれと等しいのだ。
これについての具体例はわたしが語るよりもすでに先人が成した仕事がある。
以下のサイトのblog記事を参照されたい。
> 徒花な日々
> ブリリアントステージ三浦あずさ
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/e/6241e8a7fd66a887128754206786a159
2つ目。
フィギュアを介して造形される元となった人物を心で感じること。
オタはフィギュア単体が人格を持って自分たちに話しかけてくるようなことは全く期待していない。
オタはフィギュアを見ながらにして、精神はフィギュアの元の人物だけを見ているのだ。
これは仏像を見る行為に近い。
仏教徒は仏像を見て、仏像そのものが超常的な何かを発揮するとは全く期待していない。
仏教徒は仏像として造形される元となった仏さまを心で感じ崇拝する、その精神活動の誘導として仏像を見ているのだ。
これはムリヤリ言ってしまえば偶像崇拝になるのかもしれないが、わたし個人の見解としては、偶像そのものへの崇拝ではないので狭義には偶像崇拝にはあたらないと考えている。
この解釈で偶像崇拝になるならマリア像だって偶像崇拝になる。
そしてオタのフィギュアへの愛も、女児の人形遊びとは違って偶像崇拝とは異なるものなのだ。
オタはフィギュアを愛でる。
そしてフィギュアの元となった人物、一般的には架空の二次元の女の子キャラクター、そこへ現実には存在しない真実の恋を求める。
多くのオタにとって、現実には恋するに値する異性など存在しない。
多くの日本人にとって、現実には崇拝に値する生きた教祖など存在しないのと同義である。
カルトを除く多くのマトモな宗教では、現世にある何物かに固執してありがたがることを良い行為だとは認めていない。
そして自分の魂の内にある理想とは何かを問いかける。
それはフィギュアも同じことだ。
オタは大して良いとも思えない現物の女に恋をして固執してしまう行為に価値を見出さない。
そして自分の魂の内にある真の人生のパートナーとは何かを問いかける。
その答えがフィギュアとして形作られた人物なのだ。
ちなみにわたしの答えはアイドルマスターの如月千早、その人である。
これまで、フィギュア遊びは人形遊びとは違うものだと述べた。
それは高度に精神的な作用を有するものであるとも述べた。
少しはフィギュアの好きなオタに対するあらぬ疑いが晴れればと思う今日このごろである。
これは一見すると単にカタカナ英語化しただけの同じモノのようにも見える。
しかし!
これは根本的に全く意味の異なるものである。
人形遊びとは、女児の遊びである。
ところがどっこいフィギュア遊びとは、いい歳こいた大人のする遊びである。
では、いったい何が違うからそうさせるのか?
まず女児の人形遊びをよく観察してみよう。
ママゴトなどをしていて、自分が奥さん役で人形が旦那さん役。
たとえばそういうスタイルが一般的であろう。
ここで注意することは1つ。
女児はその人形に話しかけているというところである。
女児はその人形に人間の代替を要求している(というか、仮定しているというか・・・)と言って良いかと思う。
ありていに言ってしまえば、これは偶像崇拝の一種になるかもしれない。
さて次に、フィギュア遊びをしているオタをよく観察してみよう。
あんまり観察する機会はないかもしれないが、観察対象はたとえば我輩でもいい(笑)。
オタははたしてフィギュアに話しかけるのだろうか?
答えはNO。
オタはフィギュアには話しかけない。
よくTVドラマなんかでは、キモオタの代表として
「○○ちゃん可愛いよ、ハアハア、なでなで」
みたいなことをフィギュアに対してやっているヤツが出てくるわけだが、これは明らかに間違っている。
キモオタを面白おかしく過剰にキモくしたいがための情報操作であり、フィギュアを愛でるだけの度量も眼力もない一般人が想像で作っているキモオタ像である。
こいつらTV局が作った放送内容は信用しないこと。
これは本当にフィギュアで遊んでいるホンモノのキモオタの我輩が言うのだから間違いない(笑)。
ただし評価サンプルが1個体しかないので一般的に必ず当てはまるものだとは必ずしも断言できないものはあるのだが・・・。
では、オタのフィギュア遊びとは何か?
オタは単にフィギュアを眺めて愛でているだけである。
それ以上のものは何もない。
では、眺めて愛でる動機とは何か?
これは2つある。
1つ目。
三次元構造の造形美を楽しむこと。
これは優れた工業製品は造詣としても美しいという事とほぼ同じ意味になる。
たとえばサイドハウジングを外して燃焼室があらわになったロータリーエンジンは造詣として美しい。
100年前の懐中時計の裏蓋を開けるとあらわになる歯車のその輪列は造詣として美しい。
フィギュアの造形美を楽しむこととはそれと等しいのだ。
これについての具体例はわたしが語るよりもすでに先人が成した仕事がある。
以下のサイトのblog記事を参照されたい。
> 徒花な日々
> ブリリアントステージ三浦あずさ
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/e/6241e8a7fd66a887128754206786a159
2つ目。
フィギュアを介して造形される元となった人物を心で感じること。
オタはフィギュア単体が人格を持って自分たちに話しかけてくるようなことは全く期待していない。
オタはフィギュアを見ながらにして、精神はフィギュアの元の人物だけを見ているのだ。
これは仏像を見る行為に近い。
仏教徒は仏像を見て、仏像そのものが超常的な何かを発揮するとは全く期待していない。
仏教徒は仏像として造形される元となった仏さまを心で感じ崇拝する、その精神活動の誘導として仏像を見ているのだ。
これはムリヤリ言ってしまえば偶像崇拝になるのかもしれないが、わたし個人の見解としては、偶像そのものへの崇拝ではないので狭義には偶像崇拝にはあたらないと考えている。
この解釈で偶像崇拝になるならマリア像だって偶像崇拝になる。
そしてオタのフィギュアへの愛も、女児の人形遊びとは違って偶像崇拝とは異なるものなのだ。
オタはフィギュアを愛でる。
そしてフィギュアの元となった人物、一般的には架空の二次元の女の子キャラクター、そこへ現実には存在しない真実の恋を求める。
多くのオタにとって、現実には恋するに値する異性など存在しない。
多くの日本人にとって、現実には崇拝に値する生きた教祖など存在しないのと同義である。
カルトを除く多くのマトモな宗教では、現世にある何物かに固執してありがたがることを良い行為だとは認めていない。
そして自分の魂の内にある理想とは何かを問いかける。
それはフィギュアも同じことだ。
オタは大して良いとも思えない現物の女に恋をして固執してしまう行為に価値を見出さない。
そして自分の魂の内にある真の人生のパートナーとは何かを問いかける。
その答えがフィギュアとして形作られた人物なのだ。
ちなみにわたしの答えはアイドルマスターの如月千早、その人である。
これまで、フィギュア遊びは人形遊びとは違うものだと述べた。
それは高度に精神的な作用を有するものであるとも述べた。
少しはフィギュアの好きなオタに対するあらぬ疑いが晴れればと思う今日このごろである。