「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          ”ひょうきん族”との一期一会

2011-01-11 07:01:03 | Weblog
「オレたちひょうきん族」などフジテレビのお笑い番組の元祖,プロデューサー横沢彪さんが亡くなった。まだ73歳である。僕は横沢さんと一期一会の出合だが想い出がある。33年前、僕が北海道の民放に勤務していた時、彼が民謡番組の収録で札幌にやってきて番組公開後、一夜すすきので一緒に飲んだ。まだ彼がお笑い番組の制作者として売り出す前だ。当時の僕の印象では、派手な感じではなくどちらかといえば学究肌の人だった。

横沢さんの逝去を伝える同じ日の新聞には、同じフジテレビの同時代のプロデューサー、高田明侑さんが亡くなられたことを伝えていた。高田さんも75歳である。札幌時代、僕と同じ職場にフジテレビから出向してきた二人の仲間がいたが、この二人の友人とも数年前、70歳代の半ばで鬼籍にはいってしまった。二人ともテレビ番組の制作畑の出身者だった。

僕が地方の民放に12年勤務したが、若くして世界を別にする人が実に多い。札幌のテレビ局では、二人のアナウンサーが続けて亡くなっている。同じマスコミでも新聞社よりも若くして亡くなられる率は突出している。理由は解らないが、それだけ仕事の上でのストレスが多いのかもしれない。

僕の民放歴の大半は営業畑であったが、2年だけ制作部に勤務した。その時代に横沢さんとの一期一会があったわけだが、僕の書庫の奥には、その時の民謡番組の台本がまだ残っている。それには横沢さんの名前と一緒に僕の名前が載っている。テレビの制作にはまったくの素人の僕に対しての横沢さんの暖かい気配りである。合掌。

              60年前の成人式の頃

2011-01-10 08:15:18 | Weblog
今日10日は「成人の日」である。新しく20歳の成人になった方々おめでとう。「成人の日」が、国民の祝日になったのは、戦後の昭和23年(1948年)からで、もともとは”小正月”の1月15日だったが、平成12年(2000年)の祝日法改正によって1月の第2週の月曜日にシフトされた。が、いまひとつ僕ら古い世代にはなじめない。

僕が成人を迎えたのは昭和26年だったが「成人の日」を祝った記憶はないし、その自覚もなかった。行政側の「成人式」があったのかどうかー。少なくとも僕は出席していない。二歳下の老妻に聞くと、郷里の長野で「成人式」の案内はきたが、早生まれで一学年下と一緒なので式には参加しなかったという。まだ戦後の混乱期であり「成人式」そのものもよく知られていなかった。

僕が「成人の日」を迎えた昭和26年とは、どんな年だったのだろうか。調べて見ると、その年の9月、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が調印され、”独立国”としてスタートした年だ。前年の25年には朝鮮戦争が勃発し、自衛隊の前身「警察予備隊」が編成されている。またGHQ(連合軍司令部)から占領中公職追放されていた政治家などが追放を解除されている。当時のマスコミは、その時代を評して”逆コース”と呼んでいた。僕が通学していた大学のお堀を埋めたグランドでも「警察予備隊」が教練していて、僕も”逆コース”でまた、戦争にでもならなければ、と心配した。

しかし、戦中戦後の食糧難は、26年には確実に改善されてきた。学生食堂でも配給切符がなくてもうどんやソバは食べられるようになった。街中の焼跡も整理されてきた。でも再軍備”逆コース”への危惧からか、若者を中心に不安な時代であった。






              老人は"IT棄民"か

2011-01-09 07:15:29 | Weblog
広島市の秋葉忠利市長が今期限りで引退するが、その引退をインターネットの動画サイト「ユーチューブ」で公表するだけで、とくに記者会見などは開かないという。秋葉市長が産経新聞との単独会見で語ったところによると”出馬,不出馬について記者会見するのは市長の職務ではない”とし”一部のマスコミは勝手に自分のストリーに合わせてコメントを利用する”とマスコミ不信である。

確かに最近の一部のマスコミについて、僕も秋葉市長の言わんとする意は、まったく理解できないわけではない。しかし、「ユーチューブ」だけで広島市民の有権者(約93万人)全部に不出馬の理由を果たして徹底できるのだろうか。とくにパソコンを利用できない高齢者の場合はどうなのだろうか。

僕の周囲の後期高齢者の7割から8割はパソコンを持っていない。ケイタイは持っていても電話機能しか利用できない。FAXさえ持っていない人が多い。「ユーチューブ」と言っても何のことか解らない。どうも秋葉市長に限らず、今の現役世代は高齢者の実態を理解していないようで”棄民”にしようとしているのではないか。

昨年も小ブログは厚労省が後期高齢者医療制度の改革について意見を求める公聴会の参加者を同省のHPだけで募集していると批判した。これではパソコンを持たない年寄りは医療制度に関心があっても応募できない。確かに現代社会はパソコンなしでは仕事にならない。しかし、後期高齢者も社会の構成員である。”IT棄民”にしてはならない、と思うのだがー。

       スーダンのバシャール君からの年賀状

2011-01-08 07:44:54 | Weblog
アフリカ最大の面積を持つスーダンの南部独立を問う住民投票が明日9日から行われる。南部はキリスト教徒が多く、回教徒の北部中央政府との間で1980年代から宗教対立などがからんで20余年内戦状態にあり、2005年国連の仲介で和平が成立するまでに200万人が死亡したといわれる。現地からの報道では、今回の住民投票の結果、南部が中央政府から分離して、アフリカ54番目の独立国になることは確実だといわれている。

日本から見れば、アフリカの遠い国の話だが、ここにも回教徒の中央政府を支持援助する中国と、キリスト教徒が多く石油資源がある南部の分離独立を支持する欧米諸国との間に対立があるという変な国際構図があるそうだ。

わが国の対スーダン政策が、今どうなっているのか、僕は勉強不足で知らないが、昨日偶然にもUAE(アラブ首長国連邦)のシャージャ首長国に住んでいるスーダン人のイブラ匕ム・バシャール君から分厚いエアーメールの封筒に入った年賀状が届いた。今から24年前の1987年(昭和62年)バシャール君はJICA(国際協力事業団)の自動車工学集団研修員の一人として来日、一年間滞在していた。その時、僕は彼の研修の面倒をみた関係である。

バシャール君は北部出身の敬虔な回教徒である。僕が他の研修員と一緒に自宅に招待したことがあったが夕方(マグレブ)の祈りを忘れなかった。帰国後、日本の大使館で一時臨時で仕事をしていたようだが、2000年頃からUAEに出稼ぎに行き、そのまま居ついてしまったようで、いつも年賀状はsシャージャーから送ってくる。

今年の年賀状の封筒の中には、昨年秋現地で出版された、1962年僕らがドバイを取材で訪れた際、同行のカメラマンの撮った写真集についての現地アラビア語新聞のきり抜きと、その英語訳が入っていた。2008年と09年、僕らはドバイ首長の招待で現地を訪れたが、連絡が悪く、僕はバシャール君に会えなかった。

バシャール君は当然のことだが、日本で学んだ技術を祖国で生かしたいだろう。わが国の技術援助の本来の目的もそうである。しかし、長年の南部独立分離をめぐる内紛で、彼の折角の技術を生かす職場がないのだろう。日本の海外援助の在り方についても考えさせられる問題だ。




         老人にやさしくない公共温泉施設

2011-01-07 15:06:41 | Weblog
30年来の古い友人に誘われて箱根の強羅温泉に一泊旅行をしてきた。泊まったのは区の公共保養所で、料金は一泊二食つきで6400円と安いが、正直いってくたびれた。昭和53年に建てられた古い建物のためか、施設のほとんどがバリアー・フリーではないのだ。80歳の老人二人にはやさしくない。そのうえ部屋はトイレ付きでなく、便器も昔のスタイルで使いにくい。

82歳の友人は数年前、夫人に先立たれ今は一人ぐらし。転倒して腰を痛めていて歩くのに杖をついている。聞けば、介護何級とかで、家にヘルパーさんが来て部屋の掃除と買物の手伝いをしてもらっているとのこと。

区のこの保養所は来年3月で閉鎖される。区側の説明によると、保養所の運営に年間1億3000万円がかかるうえ、最近利用者がへってきて区の財政負担が大きくなってきて維持ができなくなってきたのだという。施設の老朽化が利用者の減少になっているのかもしれないが、ここの定連である、僕の友人は施設の閉鎖に立腹、区に厳重抗議するといっている。

たしかに閉じ篭りがちの老人にとって、比較的安価で利用できる、このような公的保養施設があるのは大切だ。できれば存続が望ましいが、現状の施設では老人にはきびしい。できれば改築した上で存続してもらいたい。たしかに区の財政を圧迫しているのかもしれないが、介護老人を減らし、寝たきり老人をなくすためには、逆にこのような保養施設が大切だと思うが、どうだろうか。
(写真 施設は一見豪華にみえるのだが)

      一日早い”出初式” 東京の「119」番トラブル

2011-01-06 07:18:13 | Weblog
東京消防庁の「119」番通報システムが、何かの不具合から昨日朝から4時間余かかりにくかった。「119」番は火事や救急車出動要請など緊急電話である。長時間ストップすれば都民の生活に支障を来たし、大災害でも起きれば一大事だった。幸い無事でなにより。今日6日は出初式。消防庁にとっては一日早いとんだ出初式となった。

「119」番の不調で消防庁は上空にヘリを飛ばしたり、都内の高いビルの屋上に消防署員を派遣して見張をしたそうだ。東京も高度成長以前には高層の建物などなく遠くまで見渡せた。だから江戸時代から続く「火の見櫓」程度の望楼でも十分まにあった。今、その一つが港区高輪に残っている。品川から目に行くバス通りにある高輪消防署二本榎出張所の建物兼望楼がそれだが、昭和8年建造当時は東京湾まで見渡せたそうだが、今はビル街に埋没してしまった。

戦前は、僕の住んでいた東京でも各地に「火の見櫓」が残っていた。そして想い出すのは新年の消防の出初式だ。昔はたしか皇居前の広場で行われたが、江戸の日消し時代の伝統なのか、僕の住んでいた町の消防団もこれに参加していた。近所の消防団のおじさんたちがはしご乗りの練習をしているのがみられ、僕たち子どもも物置からハシゴを持ち出して”出初式ごっこ”をしたものだった。

Wikipediaによると、東京で「119」番制度が出来たのは昭和2年とある。しかし、僕がこの制度を知ったのは戦後である。昭和30年の初め旧警視庁一階に消防庁の司令室があり、僕らかけ出しの事件記者は、この部屋をまわるのが日課になっていた。この時代になって、やっと電話がそろそろ普及してきた。だから戦前僕らが「119」制度を知らなかったのも当然だ。

       スッカラカンの菅総理の新年会見

2011-01-05 06:54:13 | Weblog
昨日テレビで菅総理の新年記者会見の模様を見た。最初からあまり期待はしてなかったがひどすぎる。元旦の新聞各紙がボツにした「新年所感」の繰り返しで、美辞麗句で固められているが、内容がスッカラカンである。わが家の朝刊は、案の定、総理の新年メッセージには直接ふれず、一面の主見出しは”首相(小沢氏に)議員辞職促す”である。

総理は元旦の「新年所感」でも述べたが、昨日の会見でも”平成、開国元年”。明治維新、敗戦につぐ第三の開国”論を繰り返した。しかし、何故、いま平成開国元年なのか僕にはまったく理解できない。菅総理だけではない。”全共闘世代”の政治家の特徴は、自分よがりで目だちたがリ屋。かってな歴史解釈をする人が多い。

何が第三の開国なのか。政策に具体性がかけている。具体的な政策は”今年半ばまで”に示すという。これは民主党得意の引き延ばしともとれる。確か昨年の今ごろは、沖縄普天間問題を夏までに解決するといっていた総理もいた。”今年半ば”というのは4月の統一地方選挙をにらんだ選挙用の口約束ともとれる。

今、国民が政治に期待しているのは、口先だけの選挙公約(マニフェスト)ではない。子ども手当てのような一時的な選挙民へのばらまきでもない。政治仕分けのような、あまり意味のない政治的なパーフォーマンスでもない。国家百年の計にたった将来を見据えた政治の舵とりである。

総理の新年メッセージの新聞見出しが、所属する党の”一兵卒”の辞職問題では、あまりにもお粗末である。国民への新年メッセージとしては発信力に欠けている。

        戦時下一回開催された「箱根駅伝」

2011-01-04 07:47:26 | Weblog
年末年始のテレビ番組に興味がなくなって久しい。若かった頃はNHKの「紅白」に夢中で見たこともあったが、最近は名前も聞いたことがない歌手や横文字ばかりの歌が多く、最初から見る気にならない。そんな中で「箱根駅伝」だけはかかさずに見ている。正月酒をちびりちびり飮みながら、若い人が全力で抜きつ抜かれつ走る姿に感動を覚える。やはりテレビの面白さはライブの同時性だ。

この「箱根駅伝」が今年で87回目の開催だという。戦前からある伝統の大会だが、一種の国民的行事になったのは、戦後ラジオで実況中継し、そのあとテレビで全走路を生中継し始めてからではないかと思う。戦前は関係者以外あまり知られていなかった。その点は同じスポーツでも夏の甲子園高校(中等)野球や東京六大学野球とは違う。

こういったスポーツも戦争中は中止された。ところが「箱根駅伝」だけが昭和18年だけ開催されている。その第22回大会は「関東学徒鍛錬継走」大会と名称は変え、コースも靖国神社前が出発点、ゴールは箱根神社前であった。いかにも時代を思わせる大会であった。ちなみにこの時の優勝校は今年の大会で最下位であった日大で、二位はこのところ予選会でも活躍がない慶応大学であった。

戦争中、「箱根駅伝」はこの第22回だけしか開催されていない。なぜなのだろうか。これは僕の推測だが、昭和18年1月という時代ではないかという。大東亜戦争は緒戦の大勝利でまだこの時期までは、国民全体が勝利に酔っていた空気があった。恐らく「箱根駅伝」も戦意高揚をかねて開催されたものだろう。それからまもなく「撤退」とか「玉砕」とかいった言葉がラジオにも流れ、スポーツどころではなくなってきた。

          消えてゆくお正月の原風景

2011-01-03 07:20:27 | Weblog
日本のお正月は、昔はもっと、賑やかで晴れやかだった。街には日本髪の和服姿の女性があふれ、横町からは羽つきしたり、コマ回しをする子どもたちの嬌声が聞こえ、時には百人一首の詠み人の声さえもれてきた。そんな中を紋付袴で威儀を正し、お屠蘇気分の男たちが年始参りをしていた。これは戦前まだ戦争が激しくなる前の東京の正月の僕の心の中の原風景である。

東京ではもう年始参りの習慣はなくなった。昭和30年代の初めまでは、わが家でも隣り近所や親戚へ年始参りをしていた。手拭とか袋に葉書を5枚ほど入れ”おめでとうございます。今年もよろしく”と、新年の挨拶にまわった。サラリーマンは、上役の家へ一升ビンなどぶら下げて、新年会にでるのが恒例であった。この姿も今や一部の政治家の中に残っているだけのようだ。

初詣の習慣も変わってきた。昨日、老妻が娘と一緒に近所の神社へ初詣に出かけたが、鳥居から本殿まで100㍍の道が参詣客で溢れていたという。特別なパワー・スポットでもない、どこにでもある”氏神さま”である。昔から初詣はあったが、明治神宮とか浅草の観音さまといった有名な神社仏閣が主で、”氏神さま”の沿道が参詣客で一杯になることはなかった。

昔は正月三が日は、どこの商店街も店を閉じ、開いているのは子ども相手のおもちゃ屋や年始参りの手土産を売るお菓子屋や果物店だったが、今は大手のスーパーから24時間営業のコンビニ店まである。驚いたのは、福袋を売るデパートの前に前日から行列ができたという。もう、あまり物欲がなくなった後期高齢者の僕には考えられない現象だ。
(写真は”初詣”する今年の干支の兎さちゃん)

       新聞に報道されない菅総理の年頭所感

2011-01-02 07:00:55 | Weblog
昨日、ネットで菅総理の年頭所感を見た。明治の開国、戦後の開国につぐ第三の開国だという。内容が内容だけに元旦の部厚いわが家の新聞を見たが、どの紙面にも一行も報道されていない。わが家の新聞は”反民主”の先鋒との評があるだけに、総理の年頭所感であっても無視したのかと思った。でも、そんなわけはないから、階下の娘婿へ問い合わせたら、やはり彼の家の新聞にも載っていなかった。

”一年の計は元旦にあり”というから菅総理もこの日に”年頭所感”を発表したのであろうが、新聞各紙が扱わないのではあまり意味がない。調べて見たら、年頭所感の解禁時間が1月1日午前零時なのが問題のようだ。多分、新聞が元旦の紙面に載せなかったのは、この解禁時間なのだろう。新聞の締切り時間が午前零時前なので物理的にまにあわず、報道しなかったものにちがいない。しかし、2日は新聞各紙は休刊日であり、総理の折角の年頭所感も3日の紙面ということになる。

40年も昔のことだが、僕が外信部の記者の時代、毎年1月、米国の「年頭教書」(State of the Union Address)を翻訳するのが一仕事であった。時差の関係で、内容が通信社のテレックスで流れてくるるは深夜であった。あの頃は米国のニュースの比重がたかったこともあり、内容によっては締切り時間を延長までして朝刊に突っ込んだ。

菅総理の年頭所感も事前に各新聞社に手渡されていたはずだ。しかし、解禁時間にしばられて報道しなかったに違いない。しかし、総理の言葉の”第三の開国”をそのまま信じれば大変なビッグ・ニュースだ。締切り時間を延ばしても元旦の新聞で報道すべきなのだ。しかし、菅総理の”有言不実行”は、すでに各新聞社でも先刻よく承知のことだ。総理の年頭所感が元旦の紙面にも報道されないなんて異常事態である。