「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        大東亜戦争いまだ終らず

2007-07-22 06:31:03 | Weblog
南寧のジャングルの中から70体もの日本軍兵士の遺骨が発見された。
戦争が終り62年も経った、この平和の時代にである。まさに大東亜戦
争いまだ終わらずである。

朝日新聞7月21日付け夕刊(首都圏版)によると、遺体が発見された
のはインドネシア・パプア州のビアク島である。ニューギニア島の西端に
浮かぶ佐渡島の倍程度の小さな島だが、昭和19年5月から敗戦までの
間に上陸してきた連合軍との激戦で、日本軍陸海軍兵士、軍属1万人以
上が玉砕している。

遺骨収集に当たったNPO「太平洋戦史館」代表は、僕の知人だが、彼
の話では、遺骨は鉄カブとをつけたまま、全身の骨格まで残っていたと
いう。連合軍が島に上陸した直後の6月ごろ、飛行場死守の攻防戦で
命を落とした人たちだろう。

なぜ遺体は60年もの間、野ざらしのまま放置されていたのかー。敗戦
後のインドネシアとオランダとの間の「イリアン闘争」で外国人の現地立
入禁止、また、いまなお続く現地パプア人の独立運動で、日本の大使館
は治安を理由に公式には遺骨収集を許可していない。またインドネシア
政府もなかなか査証を出さない。

しかし、現実には「太平洋戦史館」のように遺骨収集をしている。代表の
岩淵宣輝氏の厳父も西ニューギニアのジャヤプーラー近くで戦死されてい
る。彼は厳父の終焉の地巡霊のため、30年もニューギニアの遺骨収集を
続けている。問題は熱意である。僕も慰霊碑保存問題で、現地大使館の変
な戦争観に驚き、かつ怒ったことがある。大東亜戦争いまだ終わらずである。



         土用 です!大丈夫かな中国産鰻

2007-07-21 05:48:39 | Weblog
昨日から夏の土用である。土用とは春夏秋冬4回あり、夏の土用は立秋前の18
日間をさす。なんと言っても土用といえば”丑の日”である。今年は7月30日である。
真夏の体力の衰える頃の”丑の日”に美味で栄養のある鰻を食べて元気を取り戻
そうという江戸時代からの慣習で、夏の風物詩でもある。

ところが、今年はちょっと様子が違いそうだ。米国が中国産の鰻の輸入を禁止し、
わが国でも中国産食品全体への不安が高まっている。国は昨日やっと重い腰を
あげて「輸入品の安全確保に関する緊急官民合同会議」を開催した。遅きに失
した感もあるがやらないよりはよい。昨日ブログを散策中に chobimame exblog.jp 
を読んだ。これをみたら、とてもとても中国産品など口にする気にはならない。

最近の消費者は”食”に敏感である。今年の"丑の日”には江戸時代の平賀源内の
古事にならって鰻屋さんは「中国産の鰻を使っていません」の幟や旗を店頭に飾っ
てはいかがだろうかー。北海道のミートホープの例を見ても残念ながら、国の食安
全対策は一歩後をいっている。

それにしても中国は罪な国である。自国だけ繁栄すれば、よいとの政策で他国を
考えない。それでいて他国に介入し、他国の大使館の建物を破壊しても謝らない
し、弁償もしない。国はやっと”緊急"会議を開いたが、本当に「食の安全」は水際
で阻止できているのかー。"土用の丑”の日も近いことだ。”緊急”の会議なのだか
ら早急に「中国産鰻」についても結論を出してほしい。




         ”美しい国”の老人いじめ

2007-07-20 05:43:02 | Weblog
東京の区役所国民年金課・老人医務係から「老人保健法による認定却下通知書」
が届いた。通知書は相変わらずの役所言葉でクドクドと書いてあるが、要するに
”君たちの収入は基準より多すぎるから8月から健保の個人負担を3割にする”と
いう通知なのだ。まるで僕らの"代官様"へのお願い事に対する”お叱り”である。

僕は7月7日の小ブログで「年寄いじめの福祉行政」を書いた。そして区役所からの
「老人福祉の負担判定割合法」が難解で老人には理解できないとクレームをつけ
た。しかし、内心ではわが家程度の収入では、この判定書出せば当然、1割負担に
になると思い、老妻と苦労しながら判定書を書き、資料を揃えて区役所に提出した。

しかし、区役所老人医療係の判定は無情にも"却下”である。やはり判定基準の文
書が難解なのだ。区の文書を読めば、誰でも判定文書を送れば1割負担になると
"誤解”する。僕らはそんなにボケていると思っていないのだが。

わが家では月に換算して二人で健康、介護保険を3万円も支払っている。幸い二人
ともまあまあ健康で、病院への月の支払いは2千円程度である。ところが、これが
一挙に3割負担となれば足腰のストレッチ医療も出来なくなる。悪くすると僕らは
”寝たきり老人”にもなりかねない。

働き盛りの若い人とは違う。75歳すぎの老人である。年金以外に多少収入があっ
てもたかが知れている。老人をいじめても”美しい国”など出来やしない。
年金と同じ申請主義、多分、区からの文書が届いても理解できず、そのままにして
ソンをしている老人も多いに違いない。

      宮本賢治元共産党議長の死

2007-07-19 05:47:38 | Weblog
共産党というと、僕らの世代の中には"火炎ビン"闘争を想い出す人が多い
のではないだろうかー。都会の駅前で”火炎ビン”を投げつけ、武力闘争で
政権を奪取するーといった政策だったようだ。”ようだ”というのは、当時僕
は"ノンポリ"学生で、政治には関心がなくマージャンなど遊びに忙しかった
からだ。従って、宮本元議長がどう"火炎ビン”闘争にかかわりあっていた
かは知らない。

"ノンポリ"学生の僕が改めて関心を持ったのは、戦前、共産党が非合法時
代に宮本元議長と同じように旧制高校ー東大というコースを経て共産党に入
党した地方の"秀才”が沢山いたことである。マルクス主義の「マ」もかじった
こともないし、戦前子供だった僕にはなぜ、"秀才”たちが共産党に魅せられ
たのかは解からない。

僕がインドネシアでお世話になり昨年なくなったN氏も宮本元議長とほぼ同年齢
の明治44年生れ、旧制一高時代に共産党に入党、警察に何度か逮捕されたあと、
当時の蘭印に”追放”された。運命のいたずらかN氏は、戦後インドネシアの独
立宣言の起草に関与した。

晩年のN氏から推測すると、昭和初期に学生だった”秀才”たちは軍靴の高鳴り
に焦燥を感じる一方「共産革命}に文字通りバラ色の夢を抱いていた純粋の青年
だった気がする。戦後になってソ連邦が解体し、東西の冷戦が終息するとは”秀
才”たちも想像できなかったと思う。歴史の予測などはできないものだ。

          戦時下の三大地震

2007-07-18 04:43:21 | Weblog
災害は忘れた頃ではなく、まだ記憶も新しいうちにやってきた。今回の中越沖
地震は震源地をみると、ほぼ前回平成17年10月の中越地震の時と重なりあっ
っている。やはり自然災害は今の段階では、いつどこで起きるのか予知、特定
はできないのだ。

さきの戦争中もそうだ。戦争だからといって自然災害は待ってくれなかった。大
東亜戦争(昭和16年12月ー20年8月)中の4年たらずに三つも大地震が起きて
いる。昭和18年9月10日の鳥取大地震(M7・0 死者1,083人)、19年12月7日の
東南海地震(M7・9 死者988人)それに20年1月13日の三河地震(M6・6 死者 
1,961人)の三つである。死者や倒壊家屋数だけをみると、今回の大地震の比で
はない。

地震だけではない。17年8月には西日本一帯に大型台風が襲来、死者891人を
出し、20年9月戦争直後の枕崎台風では3,756人の死者、行方不明者を出してい
る。北海道洞爺湖畔では戦争中に火山の爆発で新しい山「昭和新山」が誕生し
ている。

しかし、これらの自然災害は戦争の激化とともに報道管制がしかれ、国民には
ほとんど知らされなかった。新聞やラジオは大本営の”つくられた”戦況の発表だ
けだった。天気予報さえなかった時代である。犠牲者の数も、戦争による犠牲者
数があまりにも多かったので、無神経になっていたのかもしれない。おそろしい
ことである。

           ”BC級戦犯”の人権

2007-07-17 05:07:48 | Weblog
ご尊父を”戦犯”で刑死された遺族から手紙を頂いた。手紙の趣旨は遺族
会が海外の慰霊地参拝旅行用に配った地図から、なぜか”戦犯”の方々の
埋葬地が削除されている。意識的とは思いたくないが、遺族にとっては、ま
だ”戦犯”に対する偏見、蔑視があるのかと思い、ショックだという内容だ。

最近読んだ大手出版社の「BC級戦争裁判」の表紙裏には「(BC級裁判)と
はアジア太平洋戦争における残虐行為の命令者、実行者5,700人が裁かれ
た裁判」と定義づけしている。果たして全員そうなのであるかー。戦争を知ら
ない世代が戦争について書くな、とは言わないが、書く場合は事実に基づいた
事を書いてもらいたい。

例えば、オランダBC級法廷の行われたホーランジア(現ジャヤプーラ)は旧蘭
領にもかかわらず著者はパプアニューギニアと誤記し、二等兵の戦犯刑死者
は全法廷を通じていなかったと、自分の予見で誤記している。また、戦犯者の
うち将校には、あたかも人権がないかのような自分の解釈で実名を書いている。
将校だけではなく「きけわだつみの声」の上等兵の方も実名で書いている。実名
で書くなら、彼が本で書いている無罪の主張も併記すべきである。

戦争中釜石の捕虜収容所長だった方は、捕虜のためにクリスマスを祝ったり、海
水浴をさせたりしていた人だったが、連合軍の艦砲射撃で捕虜を死なせたとの
理由で戦後"戦犯”として逮捕されている。著者は戦犯の記述は"複合的”に書く
べきだ、と書いているが、まさにその通りなのだが。







         大山鳴動? 消えた年金

2007-07-16 05:03:49 | Weblog
”国民の皆様がコツコツ納められた年金は必ずお返しします”-と参院
選を前にして安倍総理はオウムのように獅子吼する。その矢先「年金記
録確認第三者委員会」が申請のあった15件について、判断基準方針が
公表されてから僅か数日で審査して発表した。選挙目当てと勘ぐられる
ような手際のよさだ。

記録訂正が認められた15件のうちの事例の一つをみた。「国民年金を
40年間1度も未納しなかったが、1か月だけ未納だった」というケース
である。申請者には悪いが、5,000万件の「消えた年金」の中の一つ
の”復活”ケースとしては・・・・という感がないでもない。審査がOKでも
受領者の年金額にはほとんど、はねかえらない。

「消えた年金」問題は5,000万という数字に国民が驚き、惑わされてい
る嫌いもある。社会保険庁のずさんさから、こんな巨大な数字が国民の前
にさらけ出されたが、実際の被害者はこの数字の何百分の一か、何千分
の一以下にすぎないと思う。それでも、あってはいけない問題だが、果たし
て国論を二分までして争うような問題なのだろうかー。

この問題は”5,000万”という数字を国民の前に出す前に、その実態を
まず調査して対処すべきであった。「第三者委員会」への再審査請求数は、
現在283件、今後地方の「第三委員会」が動き出しても、そんなに大きな
数とは思えない。大山鳴動してもの感じがする。今回の問題で、国民の年
金への関心が高まったのはプラスだったが。






       イジメ  ”ペンギンからの贈物”

2007-07-15 06:05:48 | Weblog
64年来の旧友がリュックにジャガイモを背負って訪ねてきた。彼が自宅
近くの貸農園で収穫したものだ。早速、老妻が肉ジャガにしてくれたが、
長い星霜の友情がにじみ出ていて美味しかった。

旧制中学時代の彼のアダ名は”ペンギン堂のペンちゃん”だった。彼の自
宅近くに「ペンギン堂」という文房具屋があり、店頭のペンギンの置物が彼
に似ているところから命名された、と聞いていた。ところが、成人してから
彼にそれを確かめところ、まったくのウソ。実際は彼の身長が低く歩く姿が
ペンギンに似ているので悪友が命名したとのことだった。

戦争中のあの時代、子供同士の間にイジメがあったかどうか覚えていない。
僕らは何の気なしに彼のことを”ペンちゃん”と呼び、彼もニコニコしていたが
実際は彼にとっては大変な苦痛だったのだと、後年、彼は僕に告白した。
一種の精神的なイジメだったのだ。

彼の場合、剣道も強く明るい性格だからよかったが、やはり身体的な特徴は
アダナにすべきではないと、この年になって思った。ガチャ目、ガマ(口の形)
十字管(ハゲの形)などなど当時、面白おかしく呼び合っていたが、呼ばれた
当人はイジメと感じていたかも知れない。

僕も”ペンちゃん”も過酷だった戦中戦後をの生き延びてきた。しかし、話は
昔話より現実的な血糖値や血圧の数値、薬の種類や量などであった。食糧
難のあの時代、ジャガイモは、とてもとても貴重、口に入らなかった。











        図書館と出版界の衰退

2007-07-14 05:46:36 | Weblog
知人から調べごとを頼まれたが、関係の本が家にない。”焚書”にしたい
ほどの本などで買うのはバカらしい。多分図書館にはあるだろうと家人に
話をしたら、小六の孫がインターネットで即座に調べてくれた。翌日には、
近くの区の中央図書館から借り出すことが出来た。

出版界の衰退がいわれてから久しい。これは最近の図書館の充実とサービ
スと関係があるのだと思う。つい30年ほど前には、町の場末に貸本屋があっ
たような気がするし、新刊の本や月刊誌を巡回で配達してくる業者もあった。
僕もこれを利用した記憶がある。

わが家の近くに数年前建てられた図書館は、施設もよくサービスも好い。た
まにお世話になるが、朝早くから館内は利用者で一杯である。そのほとんど
が僕らと同じリタイヤー組だが、中には若い人もいる。ここだけではないようだ。
親友の一人も散歩をかねて図書館通いを毎日の日課としている。

出版界の景気が悪くても日本人の活字離れはそれほど進んでいない気がす
るが、どうなのだろうかー。都会では住宅事情から書架のスペースがなく、どう
しても、必要な本は買うが、昔のように○○全集や△△辞典を揃えて書間に
おく時代ではなくなってきた。

戦争の後半になると、書店から娯楽本が消えた。敗戦前後は食糧と同様、活字
にも餓えた時代があった。少年だった僕らは、便所の落とし紙に使っていた古雑
誌をむさぼるように読んだ記憶がある。新聞社も各社が共同でペラ1ページの新
聞を発行していた時代である。


       忘れ去られてゆく海外の慰霊碑

2007-07-13 06:20:57 | Weblog
モンゴルを親善訪問中の皇太子殿下が戦後ソ連(当時)によって抑留された
日本人の慰霊塔を訪れは花輪を捧げた。恥ずかしいが、この地に1400名
もの日本人が連行され、過労と栄養失調で亡くなっていたのを知らなかった。
改めて僕はソ連の蛮行と残虐性に怒りを感じた。

海外の慰霊碑は南はオーストラリアから北はシベリアの奥地まで散在している。
このほとんどが戦友や遺族の方々が私費を投じて建てたものだが、政府による
建築のものもある。例えば、南方の島々には昭和31年、遺骨収拾船が巡回し
たさい建てたものだが、慰霊碑の中には、英語のスペルが間違ったものもある。
海外の慰霊碑を管轄する厚生労働省は、民間の建てた慰霊碑については一切、
関与しない方針のようだ。

戦後60年、慰霊碑の中には朽ち果てたり、住民のイタズラで壊されたりしてい
る。また関係者の高齢化で慰霊に訪れる者もいなくなっている。”海ゆかば水漬
(みづく)かばね、山ゆかば草むすかばね”(大伴家持作詞)が、日本人の死生
観なのだろうかー。英霊はすでに靖国の杜に帰還しているから、慰霊碑は必要な
いのかー。

数年前、ジャカルタの博物館の庭にどこの部隊の戦死者か不明の石碑がころがっ
ていた。関係者に呼びかけて、戦死者をつきとめ石碑を再建した。当時の大使舘
関係者はインドネシア博物館の好意で再建できた碑の式典にも顔を出さなかった。
厚労省の方針なのか、若い世代の考えなのか解からないが、やがて関係者が思い
をこめ大金を出して建てた慰霊碑も忘れさられてゆく運命にある。