「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

葬儀は儀式が必要

2006-12-22 00:55:20 | Weblog
義姉のお通夜と告別式に参列した。今月初めに脳梗塞で倒れ、僅か半月で
この世を去った。80歳。女性としては平均寿命以下だ。葬儀は善光寺の
ある長野市で、浄土真宗大谷派で行われた。東京生れ、東京育ち宗派が浄
土派の僕にとっては、すべてがま新しかった。

お通夜は自宅で執り行われた。昔は東京でもそうだったが、最近は住宅事
情からまず、なくなった。ご遺体のそばで住職の先導でお経を唱和する。
そのあと親しい者が集まって故人を偲びながら、お斉き(おとき)をする。
東京では、このようなお通夜は今なくなった。葬儀場で形ばかりのお通夜
の儀式が行われ、形だけの飲食があるだけだ。

告別式は市内の法事センターで行われたが、僕が目を見張ったのは参列者の
数の多さだ。義姉は普通の主婦である。それなのに会場はお焼香に列ができ
3百人は参列していた。平日の午後4時からの式である。そのあと再びお斉
きのご馳走である。お斉きは昔ながらの儀式で行われ、北信流の謡でしめら
れる。

東京では葬儀自体が形骸化してきた。そして、これを嫌う人の中には宗教色
を抜きにした”お別れの会””偲ぶ会”が流行している。僕個人はけっして
信仰心が厚いとは思わない。しかし今回、義姉の葬儀に参列して、昔から続
く儀式に心をうたれた。やはり理屈を抜きにして伝統の儀式には日本人の心
がる。



ある日本人革命家の一生

2006-12-20 07:01:00 | Weblog
1945年8月17日のインドネシア独立宣言起草に関与した最後の日本人
N氏が12月9日逝去された。95歳であった。N氏は「証言 インドネシア
独立革命 ある日本人革命家の半生」(1975年 人物往来社)という本
を出版されているが、彼の一生はまさに明治、大正、昭和、平成四代を
生きた大往生であった。

1911年生れのN氏は故郷の中学校を出て旧制一高に入学したが、31年20
歳の時「治安維持法」で警察に逮捕され学校を追放された。そのあと地下
運動に入ったが、再度逮捕されて懲役二年(執行猶予五年)の判決を受け
たあと、転向を条件に蘭印(インドネシア)に事実上追放された。

蘭印では日本人経営の商店で店員として働きながら、オランダ語とインド
ネシア語を学び現地人の独立運動を支援した、41年12月8日大戦勃発と
ともにN氏は他の日本人と共に逮捕され、オランダによって豪州の砂漠
の収容所に送られた。1年後捕虜交換船でジャワに戻り海軍武官府に勤
務して現地人のための「独立塾」を作った。

インドネシアの独立宣言はN氏の勤務していた海軍武官府の上司、前田
少将宅で起草されたが、これに関与した日本人は前田少将、N氏ほか数
名であった。N氏はこの時の模様を刻銘に上記「革命家の半生」の中で書
いている。N氏が若いとき夢見た日本の共産革命は頓挫したが、他の形
をとって他国で結実した。彼の葬儀は彼の希望で15日、家族だけで密か
に行われた。


”だるま”より"角"、"角”より”トリス”

2006-12-19 06:58:33 | Weblog
”だるま”の愛称で親しまれたサントリー「オールド」ウイスキーが団塊
世代をターゲットに復権の兆しがあるという。ピーク時には年間1,240
ケースも売れていたのが93年には50万ケースに落ち込んだ。そういえ
ば、僕の周りにも”だるま”を愛飲している人はいない。

1970年から80年にかけて「オールド」はサラリーマンのステータス・シン
ボルだった。当時中間管理職だった僕らがやっとバーやクラブで飲めて、
多分新人だった団塊の世代には"高嶺の花”的存在、羨望の的であった
のかもしれない。それだけに今、懐かしいのであろうか。

昭和1ケタの僕らには”だるま”よりは”トリス”や”角”に愛着を感じる。社
会人になった50年代は日本酒と焼酎が全盛だった。とくに焼酎は安サラ
リーマンにとっては手頃で、コップの受け皿にまでなみなみとつぎ、これに
”梅”か”ぶどう”を割って飲んだものだ。一杯30円の記憶だが。

昭和30年(1955年)代になってサントリーが全国に”トリス・バー”をオー
プン、僕らもウイスキーの味を知った。止まり木に腰をかけ、バーの中の
女性(ホステスとは言わなかった)をからかいながら炭酸で割ったハイボ
ールを飲んだ。当時”角”は、高級ウイスキーでなかなか僕らは飲めなか
ったものだ。僕ら世代にとっては”だるま”よりは”角””角”よりは”トリス”
なのだが、何分少数世代だ。声も声にはならない。


鳥インフルエンザは大丈夫なのか

2006-12-18 06:56:35 | Weblog
ノロウイルスが猛威を振るっている。26都府県で患者が発生,死者
まで出ている。過去最大の流行だとのことだ。

折も折り昨夕,フジテレビ系の番組「特命取材班報道A」で鳥インフル
エンザが日本に上陸した時の脅威をシュミレーションして、その恐さ
を専門家に語らせていた。シュミレーションはインドネシアから帰国
した商社員が帰国後鳥インフルエンザとわかり、これが家族から、ま
た通勤電車の乗客を通じてネズミ算式に拡大してゆく。そして,あっと
いう間に学校が閉鎖され、運輸手段がストップ、スーパーが閉店して
食糧が底をつき餓死者まで出るさまを描いている。ショッキングな番
組だった。

WHOの最新情報によると、インドネシアでは11月26日にも鳥インフルエ
ンザで57番目の死者が出ている。過去に74例の患者が出てうち57人
が死亡している。幸いまだ人から人への感染した確定例は出ていないが
たまたま僕は11月28日インドネシアから帰国したばかり、このニュース
を身近なものに感じた。

インドネシアは最大の鶏肉生産国である。家禽に携わる業者も多い。こ
れに対して衛生レベルはジャカルタの新聞も述べているように低い。政
府の取り組み方も甘いという批判がでている。山火事の煙害を近隣諸国
に”輸出”して非難されている国である。煙害ではなく人の命にかかわる
ウイルスである。WHOを中心にもっとこの国のインフルエンザ対策を監視
すべきである。

日本チームは銀メダルがお好き

2006-12-17 06:45:21 | Weblog
ドーハの第15回アジア大会が15日閉幕した。大会前の予想通りメダル
争いは中国の圧倒的勝利に終った。日本の目標の一つは、中国につい
で金メダル獲得数二位の座を奪還することだったが、やはり韓国の後
塵をはいした。これで三大会連続の三位である。

大会後日本チームの市原則之・統括は記者会見で”男子チームがだら
しなかった”と批判した。しかし、金メダルが50個獲れたのは前回より
多いし、想定内の数字のようなことを言った。金メダル獲得数で韓国に
負けた悔しさについては言及しなかった。

ドーハ大会の日本チームの特徴の一つは銀メダルが多かったことだ。そ
れも僅差、逆転負の試合が多かった。男子の野球、水球、女子のサッカー、
ホッケー、バスケットなどみなそうである。それとお家芸の柔道の敗退だ。
これは何を意味するかー。僕ら旧世代にいわせれば、現代っ子のここ一番
の弱さを表している。粘りがないのである。

もう一つの苦情は、マスコミ報道である。日本チームの活躍が中心なの
は解るが、外国人の報道がすくない。例えば今大会で最優秀選手に選ば
れた韓国の水泳選手,朴泰垣君(17)のことをどれだけの日本人スポーツ
ファンが知っているだろうかー。彼はアジアで初めて1,500mで15分をきり、
金メダルを獲得,競泳で実に7個のメダルを韓国にもたらした。

むかし東京でアジア大会が開催されたころ、台湾に揚伝広という十種競
技の強い選手がいた。”アジアの鉄人”の異名で知られた。今でも僕が
彼の名前を覚えているところを見ると、かっては外国選手の活躍をもっと
報道した気がするのだがー。



”食い物”にされたタウンミーティング

2006-12-16 07:40:42 | Weblog
内閣府が社民党に提出した資料をみると、いかに政府の役人がマスコミの
世界に無知で,彼らのいうがままの”餌食”になっていたかがわかる。”餌
食”の犠牲になったのは役人ではない。税金を支払っているのは僕ら国民
である。タウンミーティングの経理疑惑について僕らはもっと声を大きくして
追及すべきである。

タウンミーティングは平成13年小泉内閣の政策の目玉として始まったが、こ
の運営は広告の電通が9億4000万円で随意契約した。翌14年からは自由契
約となり電通と朝日広告が約2億円前後で自由契約している。9億と2億では
大変な額の違いだ。いくら初年度とはいえ額が違いすぎる。

平成13年度の契約内容をみると、例えばミーティングの事務局員として派遣
される電通社員(局次長職)の日当がなんと10万円である。その年6月横浜で
開かれたミーティングでは、出演者謝礼として60万円が計上されている。
この時点で政府の役人はミーティングのコンセプトがよく理解出来なかったの
だろうか。電通のいうがままに客寄せに芸能人を呼んでいる。

電通など大手の広告代理店は、日頃テレビなどマスコミを相手に仕事をしてい
るので金銭感覚が一般とは違う。CM一本数百万、数千万円の世界である。
とりそこないのない政府が相手で、この世界に疎い役人が相手である。思うよう
に相撲を取られてしまった。もしかすると、ミーティングの内容も築地の料亭や
六本木のクラブで錬られたものかもしれない。

義士の討入りと日本人の世界

2006-12-15 05:54:14 | Weblog
赤穂義士討ち入り記念の昨14日、高輪泉岳寺へお参りした。地下鉄駅
からお寺までの参道はご同様の高齢者ばかり、ぞろりぞろり相変わらず
すごい人気である。本堂横の四十七士のお墓へ詣でるには長い行列を
並ばなければならない。僕は年に免じて失礼させて貰った。

60数年前、戦前の義士祭を思い出した。子供心に参道が人、人、人で
埋まっていたのを覚えている。墓地内は参詣者のたくお線香が煙り息苦
しかった。帰途、セルロイド製の陣太鼓と木刀を買ってもらい、帰宅後、早
速、近所の悪童連を集めて"チャンバラ”ごっこをした記憶がある。

戦後”チャンバラ”物の昔話があまり好まれなくなった。大正時代の立川
文庫、戦前の講談社の絵本に描かれた雲隠才蔵、真田十勇士、猿飛佐助
岩見重蔵といった講談話は消えた。多分、今の子供は、この世界を知らな
いに違いない。これも戦後の進駐軍の占領政策の影響なのだろうか。その
中にあって”仇討話”と、一番占領軍が好まないと思われる「忠臣蔵}だけが
いぜん庶民に好かれ人気である。芝居や映画の影響だけとは思えない。

昔から義士の討ち入りにはゆかりの甘酒を茶店に腰掛けて飲んだ。一杯二
百円であった。甘酒は何か江戸時代を偲ばせる。知らない江戸時代と戦前
の子供時代の想い出が渾然となって頭の中をめぐった。義士の討入りは理
屈を抜きにして日本人の世界である。

老人はもう医者にかかれない!

2006-12-14 06:24:04 | Weblog
NHKの朝の番組で”老人はもう医者にかかれない”を特集していた。
国民健康保険料の値上げで、支払えなくなった老人が増え、全国で4
70万世帯が滞納しているという。活字と違って電波なので誤って聞い
たのかもしれないが、一瞬耳を疑った。福岡市の例として昨年まで年
額¥291,000だった保険料が今年一挙に13万円も増え、¥422,500に
なったという夫婦を紹介していた。福岡市は高齢者でも現役なみの収入
があれば、個人治療負担が3割と高いが、もし僕の耳に誤りがなけれ
ば、福岡市の老人が騒ぐのはわかる。

他人事ではない。早速東京に住む僕ら夫婦の場合を再チェックした。
僕は75歳以上、妻は74歳で老人保健医療の適用を受けているが、国
民健康保険料は二人で年間¥163,200、それに介護保険料が¥70,891
で合計¥234,096である。これはほぼ僕らの厚生年金プラス国民年金の一
か月分である。幸い二人とも健康で医療機関への支払いが年間すくない
ので助かっている。

高齢者社会に入り、これから年金は減る一方、逆に健康保険料が増額
されれば、医者にかかれない老人は増えてくる。番組でも何人かその
ような痛ましい例を紹介していた。

これに対する方策としてマラソンの増田あけみさんは、厚労省がもっと
予防医学に力を入れるべきだといっていた。病気にならないように普段
から老人も食生活などに注意すべきだ。医療機関も金儲けのためにいた
づらに余計な薬を出すべきではない。年寄り自身の健康への自覚が必要
である。

朝永・湯川博士生誕百年記念コイン発行を!

2006-12-13 07:05:15 | Weblog
畏友K先生からお手紙を頂いた。先生は関西地方の大學の元学長で、趣味
のコイン収集家でも大家である。先生はいま”朝永・湯川博士生誕百年記念
コイン(金・銀貨)を発行せよ”と運動している。

湯川秀樹博士は1949年日本で始めてノーベル賞を受賞、ついで朝永振一郎
博士も1965年、同じ物理学部門で受賞した。二人とも旧制三高、京大同窓で
朝永博士は1906年11月、湯川博士は1907年1月生れだから今年がメモリアル
イヤーである。

K先生の手紙には戦友のN元首相のK先生宛葉書のコピーが添えられており
「青少年教育のためにも湯川先生はよいかもしれません。同感」とコイン発行
に賛意を示されている。

湯川博士がノーベル賞を貰った1949年当時、日本はまだ敗戦ショックで国と
しての自信を喪失していた。それだけに博士の受賞は大ニュースで日本中が
沸き立った。当時生まれた男児には”ヒデキ”という名前が流行し、尊敬する人
の第一位には湯川博士が上がった。

いま子供の間で尊敬する人の第一位は父、母、兄といった自分の親族である
と、いった記事を読んだことがある。これが何を意味するか解らないが、両博士
の生誕百年を機会に、コインの発行で両博士の業績を再認してこれが青少年
の教育に役立てば結構である。1949年、湯川博士がノーベル賞を受賞した時の
国中の湧き立ちは忘れられない。当時は子供の間にもいじめや自殺などなかっ
たと思うのだがー。




八重山の魅力と失業率

2006-12-12 07:09:34 | Weblog
NHKの朝ドラマ「チュラさん」以来八重山が静かなブームだそうだ。ハローワ
ーク八重山(石垣島)の調査によると、管内の求職者のうち全体の40・7 %、
220人が県外出身者、これに対して321人59・3%が沖縄県出身者だった。、
沖縄にとっては"よそ者”がいかに八重山で仕事をしたいかがわかる。

同じ沖縄でも本島と八重山の中心、石垣とは飛行機で1時間かかる。東京から
だと3時間半、外国なみの距離である。だから首都圏からはなかなか訪れる機
会はないが、わが老夫婦はよりによって二人とも石垣の県立病院で治療のお世
話になっている。妻は1988年観光で行った竹富島で自転車で転倒、信州方言
でいう"カマいたち”となり傷口がぱっくり開いてしまった。一方僕の方は1995年
マングローブの研修の手伝いで西表島にいたとき、尿道結石にかかり七転八倒
の苦しみで救急車で病院に運ばれた。

八重山は魅力のある島々だ。風光明媚なことは勿論だが、住民の気持ちが暖
かい。僕たち夫婦がケガや病気になったときもそうだった。老妻のケガの時はビ
ジネスホテルの”チュラさん”みたいなおばあちゃんが親身になって介護してくれ
た。八重山で県外の若者が仕事をしたい気持ちはよくわかる。

問題は沖縄県全体の失業率が8%と全国の最高レベル,高校卒の有効求人倍率
に至っては0・21と全国最低であることだ。就業環境は最高なのだが、働く場所が
ない。この矛盾をどうするのかだ。