戦争中英領ボルネオのミリ州ブルネイ県の知事だった玉木政治氏(故人)の私家本「亡き妻に捧ぐ南方3年」を友人から借りて今読んでいる。昭和18年3月、陸軍司政官として英領ボルネオに赴任、敗戦後の21年3月、大竹港に復員するまでの3年間、内地で夫の帰国を待つ夫人との間の手紙の交換を中心に当時の戦地の記録を綴ったものである。
戦争が終わってまだ10年もたたない昭和29年に出版されたもので、A4版の藁半紙に謄写印刷された本だ。夫人との往復書簡は戦時下のため表現に制限はあるが、戦後すぐ玉木氏が復員してからすぐ書いた現地での体験は、司政官の目を通じて見たものだけに面白い。ブルネイは戦後独立、今や産油国として世界でも有数な「お金持国」だが、玉木氏が県知事として赴任していた昭和19年―20年は、連合軍の反撃で空襲も始まり戦時色が強まってきたが、そんな中でも玉木氏らとサルタンとの交友などがも描かれていて面白い。
サルタンは空襲が始まって住んでいたイスタナ(宮殿)から疎開したが、それまでは玉木氏を招き、ご馳走したり、逆に知事事務所を訪れお好きな日本酒を所望されたりしている。知事は宣撫工作を兼ねてブルネイとミリ州各地を旅行しているが戦争が激化した20年までの現地は、全く平和で、玉木氏らは住民のロングハウスに宿泊、鰐のゲテ物料理の御相伴に預かたたりしている。しかし、連合軍が上陸してからの山中への逃避行は戦争の悲惨さそのものだ。
戦時下のブルネイの事を日本人の目で見た記録は多分ブルネイにはないと思う。僕は時間をみて玉木氏の私家本を英訳して完成次第、玉木家の了解をえてブルネイ政府に献上する予定にしている。
戦争が終わってまだ10年もたたない昭和29年に出版されたもので、A4版の藁半紙に謄写印刷された本だ。夫人との往復書簡は戦時下のため表現に制限はあるが、戦後すぐ玉木氏が復員してからすぐ書いた現地での体験は、司政官の目を通じて見たものだけに面白い。ブルネイは戦後独立、今や産油国として世界でも有数な「お金持国」だが、玉木氏が県知事として赴任していた昭和19年―20年は、連合軍の反撃で空襲も始まり戦時色が強まってきたが、そんな中でも玉木氏らとサルタンとの交友などがも描かれていて面白い。
サルタンは空襲が始まって住んでいたイスタナ(宮殿)から疎開したが、それまでは玉木氏を招き、ご馳走したり、逆に知事事務所を訪れお好きな日本酒を所望されたりしている。知事は宣撫工作を兼ねてブルネイとミリ州各地を旅行しているが戦争が激化した20年までの現地は、全く平和で、玉木氏らは住民のロングハウスに宿泊、鰐のゲテ物料理の御相伴に預かたたりしている。しかし、連合軍が上陸してからの山中への逃避行は戦争の悲惨さそのものだ。
戦時下のブルネイの事を日本人の目で見た記録は多分ブルネイにはないと思う。僕は時間をみて玉木氏の私家本を英訳して完成次第、玉木家の了解をえてブルネイ政府に献上する予定にしている。
また県知事という立場にもピンときません。
今の大使のような役でしょうか?
ブルネイも今とは全く様子が異なるのでしょうね。
戦時下の日本の軍政はトップは軍の参謀長で、その下にマレーの場合は州政府があり、さらにその下に県、郡の行政府がりました。州、県、郡の長は、日本から徴用された役人が当たっていました。シンガポール(昭南)の長官には県知事クラスの高官が任命されていました。インドネシアの場合には、引退した軍人が州知事になっていた場合もあります。
ブルネイは近代都市に変容しているみたいですね、観光案内を見ると、立派なテ―マパークもあります。戦争末期には、ここでも激しい戦闘があり沢山の人が亡くなっています。