ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

大祭を迎える前に

2013年01月25日 05時08分26秒 | 思った事
いよいよ明日は春の大祭。

毎年、この1月25日には「教会長夫妻講習会」というものが詰所で行われる。
これまで子供たちのことがあるので、私ひとりでの参加だった。
しかし、今年は子供達全員で留守番(長男がいてくれるので)夫婦で参加することにした。

私の周囲は、これまでの年祭とは違って、すでに多くの方に身上事情をお見せ頂き、また不思議を見せて頂いているが、なかなかそのような姿を見せて頂けない方もあり、自らの身上も進行している感じがまざまざと感じられて、昨日ちょっと落ち込んでいた。

そして昨夜は8時過ぎに床に入った。
先程午前4時前、夢かどうかわからないが、昨日の事を思い返し、心定めの事で目が覚めた。

PCの電源を入れると、フェイスブックで、同窓会の会長さんの「いよいよ三年千日スタートまで秒読みとなってまいりましたね。 私もなかなか思案がまとまらないまま、緊張してきました。」と深夜に書き込んだのコメントが目に入った。

そして、心定めることの大切さを思い出した。

こころ定めた事と言えば、
先日来、このブログでうちの教会で起こった、親神様の不思議なお働きの姿を書かせて頂いているわけだが、
これは、
親神様の不思議を願ってもお与え頂けない。と思われている方には「偉そうに!」と映るかもしれない。
自分自身の動きも合わせて書いてあるので、陰徳を積ませて頂くという意味では、陰徳にならなくなってしまっている。
とも感じている。

私の心定めは、親神様・教祖がおられる事を皆様に知らせる事。
それを思って、書いた事である。

昨日信者さんのお宅へお見舞いに行った時の事である。
「息子さんに信仰が伝わらない。」
という話題になった。
その時その奥さんが「今は信仰がわからないかも知れない。けれども、これからのちあなたやあなたの子供孫に身上・事情が起きて困ったら、おぢばへお願いに行って!」と話してあります。と話してくれた。

こうした言葉は、以前他の方からも聞いた。
それは、自分の所属する教会が後継者問題から無くなるという時に、その布教所の所長さんが娘さんたちに「行く教会が無くなっても、おぢばだけは参拝に行ってね。」というものである。
その方たちは、事情を乗り越えて上級であるうちの教会につながり、その言葉から20年近くなる今日、その娘さんたちは子供たちを導く立場になられた。

どれだけの人がおぢばへ足を運び、不思議を見せて頂いていることか。

それは反対に、どれだけの人が、教祖にお導き頂いて、おぢばへ帰ることができたか。
と言うことにもなる。
親神様・教祖に心を見定めてもらい、おぢばへと導いて頂ける。
そのきっかけつくりが、においがけとも言えるだろう。


私たちは、ついつい身上ならば、体がスッキリよくなる事をばかりに囚われ易い。
これはとても狭い思案と言える。
スッキリ良くならない中、様々な人間関係から、自らが様々な事柄を悟らせて頂き、心を切り替えていくことを心に置けば、これは中くらいの思案と思える。
自らはどうなろうとも、人々が変わるならばと土台となる思案ならば、これは広い思案で、何一つ喜びの姿を見ることなく、現身を隠された教祖の心に近づけるのではないかと思う。

またこれまで天理教としての歩みで、どれだけの人が、名前さえ残らない土台の役目をして下さった事か。土台になる心で通りたいと書きながら思った。
また、その土台のお陰を忘れてはならないと思う。