ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

さ~てと

2008年01月27日 13時18分41秒 | 思った事
教会のようぼく・教人台帳を、無事に25日に配布することが出来ました。
次は各教会からの変更・訂正への対応です。

自分ひとりでやるのは、自分の時間さえあれば簡単なのですが、それでは片手落ちだと思うようになっておりますので、
どうしたらよいものだろうか?
と、思案しております。

教会は、教祖の教えを求める人が、気軽に、何の障害もなく集えるようにと、先人の先生方が苦労して、世間に公認を頂いた物であります。
昨年は、「偽」が横行しました。
これは「偽り」がただ表面に出ただけで、ずっとあったもので、それも人間の心に持っているもののように思えます。お道に言い換えれば「ほこりの心」だと思います。
誠の心で出来上がったものを、次の代、次の代が偽りの心で無くしていく。そんな姿が思い浮かびます。

「誠の心」自分に当てはめるととても難しい心です。けれども、何とか誠の心が出せるよう、心して通りたいと思います。

実働することと勉強すること

2008年01月11日 09時06分07秒 | 思った事
先日、思案することと実働することの繰り返しが大切と書いたが、実働の中には勉強することも含まれている。

勉強することとは、学校へ行って教えてもらうことを連想するだろうが、学校へ行く事が勉強ではなく、自ら求めて調べること探すこと尋ねることが勉強だと思っている。

思案するためには思案するための材料が必要である。
また、過去の事を知るには、現在の事ばかりを見ていては分からない。文字に記し残された物を読み、研究する事はとても大切だと思う。

しかし、この研究もそれぞれの実体験、感覚によって異なってくる。だから、研究を進めるためには、実生活における体験もこれまた重要だと思う。
また過去の事柄を知るためには、現在と過去との差も知らなければならない。そうした研究も必要だろう。

ただ、あまり考えることが出来なくなった今だから思えるのは、色々考える事ができるという事は、大変な能力を授かっているということである。
世の中には考えることは苦手な人も沢山ある。考えられる能力を与えられていることに感謝して、出来ない人を見下すのではなく、共々に補い合えたら素晴らしいともう。

もう一つ、深く考えることは出来なくても、記憶が優れている人もいる。また突然ひらめく人もある。ここのところをよく思案して、自分の得意、不得意を自覚すると共に、他人の得意不得意を認めて、「ねりあい」を重ね、助け合って実働し、次の世代にバトンタッチが出来ればこれまた素晴らしいように思う。

今書いていることは、十柱の神様のお働きが納まれば、簡単に分かると思う。
十全のご守護は、「異なった特性が親神様の理想に向かって、行き過ぎる事無く調和を保って働きあう」そうした事を教えて下さっていると思うからである。

今日も一日よろしくお願いします。

あけまして、お~~~芽、出ト~~~!

2008年01月08日 10時59分15秒 | 思った事
お正月も7日がすぎましたが、子供たちも学校へ行き始めて、一寸落ち着いて参りました。
遅ればせながら、

あけましておめでとうございます。

お節会の団参と初めてのお神酒のひのきしんが重なってどうなることか?と思っていた事も、親神様教祖のお導き、皆さんのご協力でとても有意義に、無事終えさせて頂く事が出来ました。

一昨日、昨日、今日と久々にテープほどきを行いました。やはり肩が詰まってきますので、ボチボチと時間を掛けながら行いました。

そんな中、昨日は多くの方と順番にお話し合いをさせて頂き、(多くの方と言っても合計4人ですが・・・)それぞれに明るい顔になって頂く事が出来て、とても嬉しい一日でした。(^^)
こんな私でも求めて下さる方がいるということは、本当に嬉しい事です。

やはり、「かしもの・かりもの」です。
「心一つが我がの物、心一つよりどんな理も出る。」です。
この心にほこりが積もり重なれば、この心さえも自分の思うようにはならない。そうした状況に陥ってしまう。とつくづく感じております。
しかし、親神様を信じ、親神様の言われるように、我が身思案を捨てて、我が身を忘れて、「教祖が貧のどん底を、周囲から笑われながら25年も辛い中を通られた事」や「極寒の中を牢屋にてご苦労された事」などを思い。
人様のためにと、出来ることをコツコツと、どんな汚いことでもさせて頂くところに、道が開けていく。そして「人のためにとやっていても、いくら自分がやっても人がやらないからと不足に思うようではダメだ」と思うようになりました。
成ってくる理を喜ぶ、成ってくる身上や事情を喜ぶ。成ってくる事柄を喜ぶ。これがたんのう。
成らないことをなげくよりも、いずれは良くなりたい。という夢を捨てずに、成るようにと、コツコツと思案と実行を繰り返して、階段を上る。
この道中がまたありがたい。そんな風に思います。

「成人次第に見えてくるぞや」です。
階段を上って行くと、今まで見えていなかった遠くの事が段々と見えるようになります。
それによってまた、これまでなら不足に思えていたのが、「自分の考え・見方の狭さゆえ」と思えて反省して、喜ばせて頂ける。本当にありがたいです。
「喜べば喜びの理が回る」であります。
しかし無理に喜ぶ必要はないと思います。無理やり喜ぼうとするよりも、喜んだフリをするよりも、我が心に素直に、喜べない自分を素直に認めて、喜べる理作りをする事のほうが大切な気がします。
聞いてなるほどと思うことを実行する。グダグダ頭で考えて不足をするくらいなら、身近で出来ることに体を動かして、人のために尽くす方がどれだけの理作りになるか。とも思います。

思いつくことに、自らの責任で、体を動かしてさせて頂く中に、周囲からの言葉、教祖の言葉から心に悟りを頂いて、親神様・教祖に感謝お礼を申しあげて、更なる成人をさせて頂けると思います。
「すべては自分のいんねんの上から組み合わせて頂いていること」を、
思案に入れて家族・親族・社会の一員として生活をさせて頂ければ、互い立てあい助け合いの陽気ぐらしをさせて頂く事は容易だと思えるようになりました。

何といっても、全ての思案の元は「かしもの・かりもの」で~~~す。
親神様・教祖、そして皆様、今年もよろしくお願いします。
m(_ _)m