先日『復元』創刊号を読んでいたところ。「別席教話の古記録」に目が留まった。
これを読みやすくしてみたいと思って、書きかけたところ、自分のHPにすでに、原文のままにアップしてあった。
http://www.geocities.jp/atutakai/tosyositu_/hukugen_/beseki_kokiroku.html
つまり、私はすでに読んでいたのであった。
先日読んだ時に、全く初めての感覚を覚えたのは、以前読んだ時とは自分の感覚が違って来ているからではないかと思った。
この「別席教話の古記録」はメモのようなものであるとのこと。
まさしく、言葉が抜けていたり、書き間違いがあるように思え、そこを自分なりに補填して書いてみた。
以前、八つのほこりを自分なりに書き換えてみて、大変勉強になった記憶があるが、今回も大変勉強になった。
【第1稿】書き換え
どなたもこの別席のお話はお聞きのお方もございましょうが、別にかわったお話をするではございません。あなた方が国々処々でお尽くし下さる心定めのお話を、かわり/\さしてもらうのでございます。
そこで心定めというても何分一時にはいかん。一度や二度聞いた分にはわからんから、かわり/\てお話をさしてもらう。
日々にこれまでというものは、皆それぞれにわたくし心をわかして、知らず知らず勝手気ままの心を出して天の理を曇らすから、憂い災難、病気病難やさまざまの難儀不自由がかかって来る。知らず知らず我が心から災いを招いているのである。これを今までは、ただ一時その場でなって来たように思って「ああどこそこへ行かねばよかった。ああこうせねばよかった。誰それがこうしたから、誰それにああせられたからこんな事になった。」とその場でしてその場でなったようにみな思うている。
「これがどうもいじらして見ていられん」と仰る。何も一時なるではない。今まで通りた理が、出て来ていかなる事もなってくるのである。それを知らんから人を恨んだり、憎んだりしている。
これは暗がりの道で、その場でなったように思っている道である。日々は人間身の内へ神が入り込んで自由に道を走っているようなものである。(しかしこれを知らずに暗がりの道を歩んでいるので、)これをどうも黙ってはいられんと仰る。
そこで神様は「無い人間拵えて自在をさし、何不自由無きよう万物皆与えている」と仰る。その与えに高い低いの隔ては無い。なれど日々与えありても身に不自由不足ありては難儀する者もあれば、又身上は壮健でも日々与え無くして難儀不自由している者もある。これは、「皆面々の心の運び方、日々長い間に通って来た心の理が知らず知らず天の理に背いて来たからそこで重い軽いも高い低いも自然/\に出来て来た」と仰る。
そこで、この度これが気の毒であるから話一条の道をつけてきた。この話の理が分かって成程と思うて、今までと心入れ替えて付き来るならば、大難は小難、小難は無難と心相応心通りの働きをして、いかな守護もせんとゆわん。だから、心の理を入れ替えるなら話一条で自由用という。
それ無い人間無い世界初めたもこの屋敷から初め、またこの度あう人間に珍しい道つけるのも、この屋敷から元なる親が天下っていかな話も皆して聞かして下さるのである。
これまでのいかなる教と言えども、やはり神が人間に入り込んで教えて来たのである。だから、みないかな教えと言えども、悪気を進めるような教えはない。しかしこれを知らずに、皆銘々に自分が考えて教えをするように思うて、口には教を布いてもこれを守らず、自分から外すようになっている。
だから、そこでこの度元なる親が天下って、段々と元のいんねん・人間身の内神の守護・神の自由用をお説き下されて、口と心と行いとが違わんように、話通りの道を通らんならん。
そこでどうせこうせ言わん、誠真実を定めて付き来るならば、いかな自由用もするで、いかなる事も「これかなわん」とはゆわん。「これ助けん」とはゆわん。心の与え通りの守護をする。
なれど神の方にはどうせこうせは言わん、願いがあれば分かるように話し、一通りしておいて、後は一名一人の心通りであると仰る。その心の理によって神が働くので、決して人間が人間を助けるのやない。
この度この話が違わん証拠に、いかな自由用もしてみせる。今までも証拠なくては人が用いない。じゃから証拠にいかな働きもしてみせる。さあこれを見ていかな者でも得心せよ。神の守護でいかなる事もなるのや。
それ人間が人間助けるなら、どういう事でも出来るであろう。よう世界でも言うであろう、医者と言えば病気助ける看板上げている。病気助ける看板上げているくらいなら、人を助ける者が、他人のみか我が身も助かりそうなものや。なれどいかなる利巧発明な医者と言えども、薬が無くば誰一人も助ける事は、これ出来ようまい。
そこでその人より、これ皆元は神様の守護で出来たもの。いかなる利巧発明剛的たる者でも、神の守護が無くしてはどんな事も出来るか。神が守護して働けばこそ、何よの事も皆出来るであろう。それを「皆俺がする。俺が物や」と思って気まま、癇癪、得手勝手を言うたりしている。
さあ、この度人間が自由用しているのか、神が自由用しているのか、これをよう思案してみよ。人間が勝手に自由用しているなら身上不足になって、難儀不自由するものもなけりゃ、又その日/\に困って難儀不自由する者もあるまい。いかほど剛毅剛敵で「俺がどうするこうする」と言うても、神が退けばどうしようもあるまい。いかな者でもどうしようもあるまい。
それでも尚、神の目には可愛い一杯、助けてやりたい一条である。けれども、我がと我が難儀の道に入れば、どうもこれは余儀なき事情である。神の目には高い低いの隔ては無いが、知らず知らずして、悪気に悪気が重なりて、生れ替わり出替わりして、ほこりを積んで、これまで通りて来た理の曇りがある。理の曇りたところへは入り込んで神が自由用する事が出来ん。そこで身に不足という、あちらが不足になり、こちらが不足になる。あれも外れ、これも外れとなり、自分の思うことも立たず、心で思うても自由用する事でけんから、又不足を供えて、不足に不足を重ねて通らにゃならん。
(以下は、断片的に記してある部分である)
丁度ゆわば人間は、
この度の話一条はこの世始めのお話
教祖様は第一世界のひながたと成りてお通り下された
もとなる深きいんねんの理があって万事お話下さるのであります。
この結構な屋敷も結構なお方もわかりませんから
身びいき身勝手のものがこの話聞けば勝手が悪成る先
人を倒したならば自分が倒れるようになるで
それだから程ほど様々な悪い事を言いはやす
段々とご苦労遊ばしたというは右の道
一寸聞くとすれば人間を始めて下された親ならば、この様なものその場で口が利けんようか、足が動かんようかなりそうな者やというけれどそうや無いで、人間の親子の情を思うてみよ、
それを世界にわからんから暇いると仰る。
【第二稿】書き換え
どなたもこの別席のお話はお聞きの方もございましょうが、前に変わった話でございません。心定めのお話を段々かわり/\さしてもらうのでございます。
所々でご奔走下されて心定めのお話を申します。その心定めのお話は何分一時にはゆかん。
それぞれに私心を沸かして日々に知らず/\心を沸かす、そこでまた日々に我がと我が心から招いているようなもの、その招いている事を知らず/\で、その場でなったように思う。なるほど「その場でなったという、成るという」は、これを神様はどうもいじらしいて見ていられんと仰る。
日々に知らず/\暗がりを走り歩いておるような者を、黙ってはいられんと仰る。この理をどうもいじらしてならん。人間をこしらえてから、何不自由無きようにしてあるこの人間である。
身上が壮健でありても日々に与えなくて難儀不自由する者もあれば、日々与えありても身に不自由不足ありて難儀する者もある。これどちらも不自由でならん。これを勝手気ままな心を持って通るから、元々無い人間・無いところを初めた元なる親で、元なる親が元人間初めた屋敷へ天下りたで。
ただ一名一人真実の心を受け取りてどんな働きもする。
身の内は神様がご守護下されて社。神様の物、人間が日々支配をさして貰っているには違いない。成程という、かりものの理も分かる。日々理が分かればいかなる守護もしよう。
この度の道をつけるは心通りという、神の望みという、この度思惑あって道をつける。人間真実これが望みや、真の心の理を受け取って自由用をする。
これまで神が人間に入り込んで教えてきた事を知らずして、面々考えてしたように思うてはびかっている。これが残念でならん。
教をする者が教を外すようになって来ているから入り込んで自由用でけん、この度今までの教と言えども、今の教と言えども皆目変わった事を教えるやない。なれども今までの教は慣れっこになってしまって神が入り込んで教える事が出来ん。
皆よい心持って暮らす者が無くなったから、余儀なくこの度元の屋敷へ天下った。教祖が第一のひながた、教祖を神の社と貰い受けた。元々人間初めた時の深き理があって、真心天に通じて天より神の社に貰い受けてのお話、ほこりがつもっているような者に神様が入り込みそうな事はない。この話は無理にどうせこうせゆうやない。
今まで人間の通って来たあり様も証拠なくして用いはしない。今度の証拠も話し通り致したら、いかな自由用もする。これが証拠。無理にどうせというやない。
自由自在でけたなら人に助けの理を力だけやるのやで。今までの道とは違う。この度は言葉の理を守ったら、力と助けと共にやるのやで。お道はお助けいただけば、自分の助けの段取りを人に伝える。助かった話を聞いて人が助かる。助かった話をすれば助けるだけの力が出来てる。
なかなかどんな結構なお話を下されても、長く容易な事で人が用いなんだ。元人間初めた結構な屋敷が現れても、皆敵のようにする者が多い。お道は苦労の道を先に通らにゃならん。
子供がこの屋敷へ寄り来ても、それは何も知らずに魂の内へ無理やりに帰ったようなものである。その者には心にたんのうさして返すのやで。寄り繰る者は四方正面という。
どんな悪く言うて来ても一寸もその者の事を悪く言うやない。この事を詳しく聞いたならばどんな者でもついてこんならんようになる。知らんのやからこれ無理はない。
この話をどんな者でも小口から守れば何にも言う事ない。
神が入り込んで自由用もし、段々年たつその上に、色々勝手気ままの事を成し、生れ替わり立ち替わりして難儀不自由で通らんならん。又そこ/\の心を持って通っているものもある。
そこで人間には高い低いが出来たけれども、神の目には高い低いはない。我がと我が心より難儀の道へ入ればどうもしようがないと仰る。
教祖をあちらこちらへ連れて行って懲らしめるという。色々様々な圧力の中を教祖がされた数十年のご苦労は、ご婦人の身の上であるのに監獄のアラムシロの上でご苦労下されたのは一度やありません。又夏の炎天にご苦労下された事も度々である。人間の浅はかな姿をかるしめた(懲らしめたor見せしめた。と解釈出来ないだろうか?)のや。誠といえば一時守るものはない。そこで無理はない。
人間が我が子を育てるのも同じ事、親が苦労艱難と言えば、言うに言えん苦労もせんならん。親が着なくても着せて通る、その親の苦労を子は何と思うか。子供は何とも思いはしようまい。子供は親を恨むであろう。
親の心より子供に物芸を仕込むについては、親が食わんでも食わせ、苦労するであろう。これ親のためか、子の為かよう思うて見よ。これも同じ事やで。10人育てても10人ながら思うように行くものではない。
身の不自由、難儀、今来て今なったように思う事が、どうもいじらしくてならん。親の家を、尻向けて出るような者もある。親のいう事用いる者は杖柱として何時/\までも親が付きまとう(連れ添う・寄り添うという意味だと思う)。
その子供が成人の後、人の中で踏みつけにされてから、思い出す、親の事を。こら後の間(後の祭りの意味に思える)であろうがな。
親さん(教祖の事と思われる)が艱難遊ぶ時分に攻撃した人は、今は、真実の人と、これをあほという人とがいる。なれども、なれどもその中を、日々年々月々と教祖が身の行いをしてお通り下さるから世界から関心をされている。
世界の教といえども話は良いが行が出来ん。そうすると今度は自分が楽どころやない(楽どころでは無くなるという意味では)。人によっては、「あれだけの教をして」と自ら日々教の行をする理を感じて、道についた人もある。
なお言うに言われん事は、今日では教会もあり、職もあり、心は安心で通れる。なれどその自分(教祖の当時)は何の名所も無きゆえ、なかなか(人が)寄り付く事も出来なんだ。その中の苦労艱難を思ってみよ。道すがらとなった教祖のその道中を暗がりの道という。
「この度、身を隠して道を早くするで」と仰る。教祖が、人間の目に見えないけれど、「存命より一層厳しく早く道をつけたい」と仰る故に、本部も直ぐに出来、より来る人も心懸かり(心配ないの意味と思う)ない。またそれぞれお助けに出るのにも教職を拝命して、公然と出来る段々の道がついて(出来ての意味と思う)来ました。
この屋敷はどんな事も人間心でしてはならん。この屋敷は神のさしづより外に理はない。
神のさしづ、神の支配と仰るから、この別席順序が初ったからは、足場なくして高いところへ上がる事が出来る。
神の道は胸三寸、心の道。その中、おうぼう(応法)の道を付けかけた。
応法の道ばかり通り、渡りやすくなったら胸三寸の道が切れかける。存命中の苦労艱難の理も失って、誠を付け切る事が出来ぬ。
そこで高いところへ登るために、足場固めをしておかねばならん。
あなた方が所々でお助けをして下さる事も、神様の自由用で、お働きで道がつく。これなくば世界の道も同じ事。
そこで心定めと仰るは、取次ぎ/\と仰る。あなた方がお話を取り次ぎ下さるのは、教祖から聞いた話。所々で手本雛形と言えば、教祖を世界の雛形と思わなければならない。
高いところへ足場無くして上がるというのは、世界応法の道に渡りた事。
前から段々の順序で今日、別席も運ぶに違いないて・・・・年は5年か7年か尽して下された事は、神様皆お受け取り。(意味がよく分からない。)
我々が9度呼んだら(運んだらの間違いではないか?)神様がおさづけを下さるそうな。このおさづけは、我々が効能でも貰ったと思うては徳を失う。今一時は助け一条のために下さる。やれやれという心になっては、さづけを頂いてから気がゆるむ。
やれやれは油断の理。お道はやれやれという心はなれません。我々はお道について、三年五年以前に初めてお話を聞いた時に、この世での良し悪しをさんげもした。それからこちらへは神様のご恩を果たして来ている様には思うが、神の話を聞けば今一代やない。してみれば今一代のさんげはしても、以前の理はどうも謀りがたない。しからば今日まで三年五年の間、人のために尽したと言えども徳を積んだのではない。今までの恩を返したか、まだ返さんかも分からん。
してみればおさづけを頂いたのは徳で頂いたのではない。これから例え一命がすたろうが、どんな事があろうが、これからはあくまでも道のために奔走させてもらうという心で通らんならん。
この話の聞こえん処(伝わっていないという意味だろう)といえば、どこへなりとも、海山越してでもかまわん。身の続く限り、心の及ぶ限り、行って取り次がしてもらわんならん。草山を地ならしてして種を撒く。撒く種はみな生えて、みな実ると言えば誰でも皆撒くやろう。なれど撒いただけでは実りを取る事は出来ようまい。
六月の炎天に草取りという、これを修理という。これ炎天に遊んでいれば楽であろう。なれどそれでは草山になってしまうやろう。そこで段々と百姓一年の楽しみがあるから、草取りをして修理をするやろう。又この修理をするだけではなろうまい。肥を置かねば十分にとはゆかん。
神様の道もこれと同じ事で、あなた方がにをいがけに出て下さる。いかな悪人でも話の理で感心する。その心誠を撒く、その種が生えるというのは講社ができた事である。講社が出来ても反対が起きる。その講社は理が分からねばいづむ。いづましてしまうような事やったら雑草のために、しこらして(失敗しての意味だろう)しまうようなもの。
そこであなた方はそれを進んで、反対のある、行きにくいところでしょうけれども、そこを行くのが、これ百姓が炎天に草取りに出るようなものである。
悪と言えども悪にも強けりゃ善にも強い。修理は百姓の理を言う。百姓の理から考えたら同じ事や。天理教はよい教やなと世界の人からゆうように説いて下されば、又講社の人に、段々に教えの深き処を仕込み下さる事は、これが修理で、田の草を取りたも同じ事。
第一に先立つは旅費を使う。これ肥を百姓が置くようなものである。この度、段々と道を通さしてもらって、尽す運ぶ旅費というものは、これ皆自分の力で尽してくれ、人の物を持って尽しては、肥金を人に借りておいたようなもの。平常節倹(節約)を第一としてそれから理を出して通って下さるなら、一粒万倍の理に返やすと仰る。
よう教祖が仰ったが、「世界でに一厘の銭を与えても、敷居の下から帰るというて、やる人もある。これがおかしい」と仰った。そりゃどういうものなら……。
あなた方も段々と尽す運ぶというが、「我々も徳を積ましてもらう」「教祖の大恩送らして貰う」と思うて尽して下さらねば、「ただの付き合い」や「負けん気」で着いて来たのでは真実が薄い。
どなたでも徳をかえしたい者はないが、そこの運ぶ事情が、崩して行くようになりやすい。それ心で「どうなろうたって/\」と思うて尽しては、徳を崩すようなものや。
これは、あなた方がお話を伝え下さるお方ですから、「尚も踏み違いの無いように通って下さい」と、これまでの世界の教も、「教は良くても教を説く者が通らぬから、理が消えてきた」と仰る。
そこでそうゆうようにならんよう。
教祖のご存命中は十分心の定まった、「命張っても」と言う者でなければついて通る事が出来なかった。そこで教祖が存命の末方(教祖が現身を隠される前当たりの意味だろう)に、皆おさづけを頂戴しました。人間心は神の足場。
神様のお話は老若男女の隔てはない。誠の心を定めたら同じ理を渡すと仰る。なれども年寄りの人はお話の取次ぎは楽であるが、少ないもの(若い者)が年の行った人に取り次ぐのは難しいものである。神様のお話は変わらないけれど、聞く人の心持が違うから難しい。何故ならば、年の行った人は経験があるし、少ないものは経験が無いから人が信じてくれない。そこで難しい。
お道は「どうせこうせえ」と言わんけれども、お話を伝えて下さるあなた方であるから、何分お道は固く尽すお方は、なお尽すようにしてもらわにゃならん。「尽すのに、まだ尽せ運ぶのにまだ運べといわれる。どういうものであろう」というのは、心の浅い付き合いのお方のいう事。
まあ/\人間同士でも、子供が覚えれば覚えるほど、何もかも仕込む。覚えぬものは仕込まぬ。結構やな。
結構であると思えば十分尽せる。お道は「上になるほど難儀する」と思うようなのは、世界並みと言おうか、誠に浅い/\ものである。
あなた方がご奔走下さるのは、根に肥を於き、又通って下さる方は、……
上の方も下の方も共に心を合わせて通るのは、銘々に「これだけの徳を積ませて貰おう」と思うて通らにゃならん。
親が手を引いて上がれば、どんな高い処でも恐き危なき(こわきあぶなき)はない。なれど、それまでに待ちかねて、駆け上がるような事をするから転げ落ちんならん。
不足をつけぬよう。不足は思わず知らず出るで。
心定めのお話、心定めは足場のこしらえという。
人間を神様が道具に使うて下さる。一度使うて棄てる道具もある。日々使う道具もある。一度使うて棄てられるような道具にならぬよう、いつ/\までも使うてもらわんならん。
【以上】
これを読みやすくしてみたいと思って、書きかけたところ、自分のHPにすでに、原文のままにアップしてあった。
http://www.geocities.jp/atutakai/tosyositu_/hukugen_/beseki_kokiroku.html
つまり、私はすでに読んでいたのであった。
先日読んだ時に、全く初めての感覚を覚えたのは、以前読んだ時とは自分の感覚が違って来ているからではないかと思った。
この「別席教話の古記録」はメモのようなものであるとのこと。
まさしく、言葉が抜けていたり、書き間違いがあるように思え、そこを自分なりに補填して書いてみた。
以前、八つのほこりを自分なりに書き換えてみて、大変勉強になった記憶があるが、今回も大変勉強になった。
【第1稿】書き換え
どなたもこの別席のお話はお聞きのお方もございましょうが、別にかわったお話をするではございません。あなた方が国々処々でお尽くし下さる心定めのお話を、かわり/\さしてもらうのでございます。
そこで心定めというても何分一時にはいかん。一度や二度聞いた分にはわからんから、かわり/\てお話をさしてもらう。
日々にこれまでというものは、皆それぞれにわたくし心をわかして、知らず知らず勝手気ままの心を出して天の理を曇らすから、憂い災難、病気病難やさまざまの難儀不自由がかかって来る。知らず知らず我が心から災いを招いているのである。これを今までは、ただ一時その場でなって来たように思って「ああどこそこへ行かねばよかった。ああこうせねばよかった。誰それがこうしたから、誰それにああせられたからこんな事になった。」とその場でしてその場でなったようにみな思うている。
「これがどうもいじらして見ていられん」と仰る。何も一時なるではない。今まで通りた理が、出て来ていかなる事もなってくるのである。それを知らんから人を恨んだり、憎んだりしている。
これは暗がりの道で、その場でなったように思っている道である。日々は人間身の内へ神が入り込んで自由に道を走っているようなものである。(しかしこれを知らずに暗がりの道を歩んでいるので、)これをどうも黙ってはいられんと仰る。
そこで神様は「無い人間拵えて自在をさし、何不自由無きよう万物皆与えている」と仰る。その与えに高い低いの隔ては無い。なれど日々与えありても身に不自由不足ありては難儀する者もあれば、又身上は壮健でも日々与え無くして難儀不自由している者もある。これは、「皆面々の心の運び方、日々長い間に通って来た心の理が知らず知らず天の理に背いて来たからそこで重い軽いも高い低いも自然/\に出来て来た」と仰る。
そこで、この度これが気の毒であるから話一条の道をつけてきた。この話の理が分かって成程と思うて、今までと心入れ替えて付き来るならば、大難は小難、小難は無難と心相応心通りの働きをして、いかな守護もせんとゆわん。だから、心の理を入れ替えるなら話一条で自由用という。
それ無い人間無い世界初めたもこの屋敷から初め、またこの度あう人間に珍しい道つけるのも、この屋敷から元なる親が天下っていかな話も皆して聞かして下さるのである。
これまでのいかなる教と言えども、やはり神が人間に入り込んで教えて来たのである。だから、みないかな教えと言えども、悪気を進めるような教えはない。しかしこれを知らずに、皆銘々に自分が考えて教えをするように思うて、口には教を布いてもこれを守らず、自分から外すようになっている。
だから、そこでこの度元なる親が天下って、段々と元のいんねん・人間身の内神の守護・神の自由用をお説き下されて、口と心と行いとが違わんように、話通りの道を通らんならん。
そこでどうせこうせ言わん、誠真実を定めて付き来るならば、いかな自由用もするで、いかなる事も「これかなわん」とはゆわん。「これ助けん」とはゆわん。心の与え通りの守護をする。
なれど神の方にはどうせこうせは言わん、願いがあれば分かるように話し、一通りしておいて、後は一名一人の心通りであると仰る。その心の理によって神が働くので、決して人間が人間を助けるのやない。
この度この話が違わん証拠に、いかな自由用もしてみせる。今までも証拠なくては人が用いない。じゃから証拠にいかな働きもしてみせる。さあこれを見ていかな者でも得心せよ。神の守護でいかなる事もなるのや。
それ人間が人間助けるなら、どういう事でも出来るであろう。よう世界でも言うであろう、医者と言えば病気助ける看板上げている。病気助ける看板上げているくらいなら、人を助ける者が、他人のみか我が身も助かりそうなものや。なれどいかなる利巧発明な医者と言えども、薬が無くば誰一人も助ける事は、これ出来ようまい。
そこでその人より、これ皆元は神様の守護で出来たもの。いかなる利巧発明剛的たる者でも、神の守護が無くしてはどんな事も出来るか。神が守護して働けばこそ、何よの事も皆出来るであろう。それを「皆俺がする。俺が物や」と思って気まま、癇癪、得手勝手を言うたりしている。
さあ、この度人間が自由用しているのか、神が自由用しているのか、これをよう思案してみよ。人間が勝手に自由用しているなら身上不足になって、難儀不自由するものもなけりゃ、又その日/\に困って難儀不自由する者もあるまい。いかほど剛毅剛敵で「俺がどうするこうする」と言うても、神が退けばどうしようもあるまい。いかな者でもどうしようもあるまい。
それでも尚、神の目には可愛い一杯、助けてやりたい一条である。けれども、我がと我が難儀の道に入れば、どうもこれは余儀なき事情である。神の目には高い低いの隔ては無いが、知らず知らずして、悪気に悪気が重なりて、生れ替わり出替わりして、ほこりを積んで、これまで通りて来た理の曇りがある。理の曇りたところへは入り込んで神が自由用する事が出来ん。そこで身に不足という、あちらが不足になり、こちらが不足になる。あれも外れ、これも外れとなり、自分の思うことも立たず、心で思うても自由用する事でけんから、又不足を供えて、不足に不足を重ねて通らにゃならん。
(以下は、断片的に記してある部分である)
丁度ゆわば人間は、
この度の話一条はこの世始めのお話
教祖様は第一世界のひながたと成りてお通り下された
もとなる深きいんねんの理があって万事お話下さるのであります。
この結構な屋敷も結構なお方もわかりませんから
身びいき身勝手のものがこの話聞けば勝手が悪成る先
人を倒したならば自分が倒れるようになるで
それだから程ほど様々な悪い事を言いはやす
段々とご苦労遊ばしたというは右の道
一寸聞くとすれば人間を始めて下された親ならば、この様なものその場で口が利けんようか、足が動かんようかなりそうな者やというけれどそうや無いで、人間の親子の情を思うてみよ、
それを世界にわからんから暇いると仰る。
【第二稿】書き換え
どなたもこの別席のお話はお聞きの方もございましょうが、前に変わった話でございません。心定めのお話を段々かわり/\さしてもらうのでございます。
所々でご奔走下されて心定めのお話を申します。その心定めのお話は何分一時にはゆかん。
それぞれに私心を沸かして日々に知らず/\心を沸かす、そこでまた日々に我がと我が心から招いているようなもの、その招いている事を知らず/\で、その場でなったように思う。なるほど「その場でなったという、成るという」は、これを神様はどうもいじらしいて見ていられんと仰る。
日々に知らず/\暗がりを走り歩いておるような者を、黙ってはいられんと仰る。この理をどうもいじらしてならん。人間をこしらえてから、何不自由無きようにしてあるこの人間である。
身上が壮健でありても日々に与えなくて難儀不自由する者もあれば、日々与えありても身に不自由不足ありて難儀する者もある。これどちらも不自由でならん。これを勝手気ままな心を持って通るから、元々無い人間・無いところを初めた元なる親で、元なる親が元人間初めた屋敷へ天下りたで。
ただ一名一人真実の心を受け取りてどんな働きもする。
身の内は神様がご守護下されて社。神様の物、人間が日々支配をさして貰っているには違いない。成程という、かりものの理も分かる。日々理が分かればいかなる守護もしよう。
この度の道をつけるは心通りという、神の望みという、この度思惑あって道をつける。人間真実これが望みや、真の心の理を受け取って自由用をする。
これまで神が人間に入り込んで教えてきた事を知らずして、面々考えてしたように思うてはびかっている。これが残念でならん。
教をする者が教を外すようになって来ているから入り込んで自由用でけん、この度今までの教と言えども、今の教と言えども皆目変わった事を教えるやない。なれども今までの教は慣れっこになってしまって神が入り込んで教える事が出来ん。
皆よい心持って暮らす者が無くなったから、余儀なくこの度元の屋敷へ天下った。教祖が第一のひながた、教祖を神の社と貰い受けた。元々人間初めた時の深き理があって、真心天に通じて天より神の社に貰い受けてのお話、ほこりがつもっているような者に神様が入り込みそうな事はない。この話は無理にどうせこうせゆうやない。
今まで人間の通って来たあり様も証拠なくして用いはしない。今度の証拠も話し通り致したら、いかな自由用もする。これが証拠。無理にどうせというやない。
自由自在でけたなら人に助けの理を力だけやるのやで。今までの道とは違う。この度は言葉の理を守ったら、力と助けと共にやるのやで。お道はお助けいただけば、自分の助けの段取りを人に伝える。助かった話を聞いて人が助かる。助かった話をすれば助けるだけの力が出来てる。
なかなかどんな結構なお話を下されても、長く容易な事で人が用いなんだ。元人間初めた結構な屋敷が現れても、皆敵のようにする者が多い。お道は苦労の道を先に通らにゃならん。
子供がこの屋敷へ寄り来ても、それは何も知らずに魂の内へ無理やりに帰ったようなものである。その者には心にたんのうさして返すのやで。寄り繰る者は四方正面という。
どんな悪く言うて来ても一寸もその者の事を悪く言うやない。この事を詳しく聞いたならばどんな者でもついてこんならんようになる。知らんのやからこれ無理はない。
この話をどんな者でも小口から守れば何にも言う事ない。
神が入り込んで自由用もし、段々年たつその上に、色々勝手気ままの事を成し、生れ替わり立ち替わりして難儀不自由で通らんならん。又そこ/\の心を持って通っているものもある。
そこで人間には高い低いが出来たけれども、神の目には高い低いはない。我がと我が心より難儀の道へ入ればどうもしようがないと仰る。
教祖をあちらこちらへ連れて行って懲らしめるという。色々様々な圧力の中を教祖がされた数十年のご苦労は、ご婦人の身の上であるのに監獄のアラムシロの上でご苦労下されたのは一度やありません。又夏の炎天にご苦労下された事も度々である。人間の浅はかな姿をかるしめた(懲らしめたor見せしめた。と解釈出来ないだろうか?)のや。誠といえば一時守るものはない。そこで無理はない。
人間が我が子を育てるのも同じ事、親が苦労艱難と言えば、言うに言えん苦労もせんならん。親が着なくても着せて通る、その親の苦労を子は何と思うか。子供は何とも思いはしようまい。子供は親を恨むであろう。
親の心より子供に物芸を仕込むについては、親が食わんでも食わせ、苦労するであろう。これ親のためか、子の為かよう思うて見よ。これも同じ事やで。10人育てても10人ながら思うように行くものではない。
身の不自由、難儀、今来て今なったように思う事が、どうもいじらしくてならん。親の家を、尻向けて出るような者もある。親のいう事用いる者は杖柱として何時/\までも親が付きまとう(連れ添う・寄り添うという意味だと思う)。
その子供が成人の後、人の中で踏みつけにされてから、思い出す、親の事を。こら後の間(後の祭りの意味に思える)であろうがな。
親さん(教祖の事と思われる)が艱難遊ぶ時分に攻撃した人は、今は、真実の人と、これをあほという人とがいる。なれども、なれどもその中を、日々年々月々と教祖が身の行いをしてお通り下さるから世界から関心をされている。
世界の教といえども話は良いが行が出来ん。そうすると今度は自分が楽どころやない(楽どころでは無くなるという意味では)。人によっては、「あれだけの教をして」と自ら日々教の行をする理を感じて、道についた人もある。
なお言うに言われん事は、今日では教会もあり、職もあり、心は安心で通れる。なれどその自分(教祖の当時)は何の名所も無きゆえ、なかなか(人が)寄り付く事も出来なんだ。その中の苦労艱難を思ってみよ。道すがらとなった教祖のその道中を暗がりの道という。
「この度、身を隠して道を早くするで」と仰る。教祖が、人間の目に見えないけれど、「存命より一層厳しく早く道をつけたい」と仰る故に、本部も直ぐに出来、より来る人も心懸かり(心配ないの意味と思う)ない。またそれぞれお助けに出るのにも教職を拝命して、公然と出来る段々の道がついて(出来ての意味と思う)来ました。
この屋敷はどんな事も人間心でしてはならん。この屋敷は神のさしづより外に理はない。
神のさしづ、神の支配と仰るから、この別席順序が初ったからは、足場なくして高いところへ上がる事が出来る。
神の道は胸三寸、心の道。その中、おうぼう(応法)の道を付けかけた。
応法の道ばかり通り、渡りやすくなったら胸三寸の道が切れかける。存命中の苦労艱難の理も失って、誠を付け切る事が出来ぬ。
そこで高いところへ登るために、足場固めをしておかねばならん。
あなた方が所々でお助けをして下さる事も、神様の自由用で、お働きで道がつく。これなくば世界の道も同じ事。
そこで心定めと仰るは、取次ぎ/\と仰る。あなた方がお話を取り次ぎ下さるのは、教祖から聞いた話。所々で手本雛形と言えば、教祖を世界の雛形と思わなければならない。
高いところへ足場無くして上がるというのは、世界応法の道に渡りた事。
前から段々の順序で今日、別席も運ぶに違いないて・・・・年は5年か7年か尽して下された事は、神様皆お受け取り。(意味がよく分からない。)
我々が9度呼んだら(運んだらの間違いではないか?)神様がおさづけを下さるそうな。このおさづけは、我々が効能でも貰ったと思うては徳を失う。今一時は助け一条のために下さる。やれやれという心になっては、さづけを頂いてから気がゆるむ。
やれやれは油断の理。お道はやれやれという心はなれません。我々はお道について、三年五年以前に初めてお話を聞いた時に、この世での良し悪しをさんげもした。それからこちらへは神様のご恩を果たして来ている様には思うが、神の話を聞けば今一代やない。してみれば今一代のさんげはしても、以前の理はどうも謀りがたない。しからば今日まで三年五年の間、人のために尽したと言えども徳を積んだのではない。今までの恩を返したか、まだ返さんかも分からん。
してみればおさづけを頂いたのは徳で頂いたのではない。これから例え一命がすたろうが、どんな事があろうが、これからはあくまでも道のために奔走させてもらうという心で通らんならん。
この話の聞こえん処(伝わっていないという意味だろう)といえば、どこへなりとも、海山越してでもかまわん。身の続く限り、心の及ぶ限り、行って取り次がしてもらわんならん。草山を地ならしてして種を撒く。撒く種はみな生えて、みな実ると言えば誰でも皆撒くやろう。なれど撒いただけでは実りを取る事は出来ようまい。
六月の炎天に草取りという、これを修理という。これ炎天に遊んでいれば楽であろう。なれどそれでは草山になってしまうやろう。そこで段々と百姓一年の楽しみがあるから、草取りをして修理をするやろう。又この修理をするだけではなろうまい。肥を置かねば十分にとはゆかん。
神様の道もこれと同じ事で、あなた方がにをいがけに出て下さる。いかな悪人でも話の理で感心する。その心誠を撒く、その種が生えるというのは講社ができた事である。講社が出来ても反対が起きる。その講社は理が分からねばいづむ。いづましてしまうような事やったら雑草のために、しこらして(失敗しての意味だろう)しまうようなもの。
そこであなた方はそれを進んで、反対のある、行きにくいところでしょうけれども、そこを行くのが、これ百姓が炎天に草取りに出るようなものである。
悪と言えども悪にも強けりゃ善にも強い。修理は百姓の理を言う。百姓の理から考えたら同じ事や。天理教はよい教やなと世界の人からゆうように説いて下されば、又講社の人に、段々に教えの深き処を仕込み下さる事は、これが修理で、田の草を取りたも同じ事。
第一に先立つは旅費を使う。これ肥を百姓が置くようなものである。この度、段々と道を通さしてもらって、尽す運ぶ旅費というものは、これ皆自分の力で尽してくれ、人の物を持って尽しては、肥金を人に借りておいたようなもの。平常節倹(節約)を第一としてそれから理を出して通って下さるなら、一粒万倍の理に返やすと仰る。
よう教祖が仰ったが、「世界でに一厘の銭を与えても、敷居の下から帰るというて、やる人もある。これがおかしい」と仰った。そりゃどういうものなら……。
あなた方も段々と尽す運ぶというが、「我々も徳を積ましてもらう」「教祖の大恩送らして貰う」と思うて尽して下さらねば、「ただの付き合い」や「負けん気」で着いて来たのでは真実が薄い。
どなたでも徳をかえしたい者はないが、そこの運ぶ事情が、崩して行くようになりやすい。それ心で「どうなろうたって/\」と思うて尽しては、徳を崩すようなものや。
これは、あなた方がお話を伝え下さるお方ですから、「尚も踏み違いの無いように通って下さい」と、これまでの世界の教も、「教は良くても教を説く者が通らぬから、理が消えてきた」と仰る。
そこでそうゆうようにならんよう。
教祖のご存命中は十分心の定まった、「命張っても」と言う者でなければついて通る事が出来なかった。そこで教祖が存命の末方(教祖が現身を隠される前当たりの意味だろう)に、皆おさづけを頂戴しました。人間心は神の足場。
神様のお話は老若男女の隔てはない。誠の心を定めたら同じ理を渡すと仰る。なれども年寄りの人はお話の取次ぎは楽であるが、少ないもの(若い者)が年の行った人に取り次ぐのは難しいものである。神様のお話は変わらないけれど、聞く人の心持が違うから難しい。何故ならば、年の行った人は経験があるし、少ないものは経験が無いから人が信じてくれない。そこで難しい。
お道は「どうせこうせえ」と言わんけれども、お話を伝えて下さるあなた方であるから、何分お道は固く尽すお方は、なお尽すようにしてもらわにゃならん。「尽すのに、まだ尽せ運ぶのにまだ運べといわれる。どういうものであろう」というのは、心の浅い付き合いのお方のいう事。
まあ/\人間同士でも、子供が覚えれば覚えるほど、何もかも仕込む。覚えぬものは仕込まぬ。結構やな。
結構であると思えば十分尽せる。お道は「上になるほど難儀する」と思うようなのは、世界並みと言おうか、誠に浅い/\ものである。
あなた方がご奔走下さるのは、根に肥を於き、又通って下さる方は、……
上の方も下の方も共に心を合わせて通るのは、銘々に「これだけの徳を積ませて貰おう」と思うて通らにゃならん。
親が手を引いて上がれば、どんな高い処でも恐き危なき(こわきあぶなき)はない。なれど、それまでに待ちかねて、駆け上がるような事をするから転げ落ちんならん。
不足をつけぬよう。不足は思わず知らず出るで。
心定めのお話、心定めは足場のこしらえという。
人間を神様が道具に使うて下さる。一度使うて棄てる道具もある。日々使う道具もある。一度使うて棄てられるような道具にならぬよう、いつ/\までも使うてもらわんならん。
【以上】