親神様のお働きはあると私は感じている。
実際に、今の身上で痛みを感じて、揉んで貰ってもどうしようもない時に、おさづけを願うと楽になる。
また、これまでにも、夜中に子供たちに喘息が出て、おさづけをさせて頂くとゼーゼー言いながらも、2時間ほどはす~~と寝ていく。
学生の頃、本部の神殿で畳一畳も歩けなかった人が、本部の先生のおさづけで杖無しで歩けるようになる姿も見せて頂いた。
教祖120年祭の年、常から親神様にと心を寄せてくださる方々数人に事情身上が起こり、その解決の糸口を貰いたいと急に思い立っておぢばへ運んだ時、神殿でおつとめをして教祖殿・祖霊殿を回る事を3・4度ほど繰り返した。しかし何も悟れる事がなく、諦めて岐路に着くことにし、名阪国道に乗った頃、アクセルが踏めないほど右足が痛み出した。次のインターでおぢばへ戻る事に決めたら少し楽になった気がしたので、おぢばへ戻った。丁度夕づとめの前だった。知り合いの本部の先生にぱったりと出会い、足の痛みの事、事情の事を話したところ、「一日におつとめを6回」という事を聞かせてもらい、これが親神様のお言葉かと思った。私の足の痛みは消えていた。そして教会へ戻り、その方々に伝えた。それぞれに「一日におつとめを6回」させてもらうと言う、心良い返事はもらえなかったので、自分だけでもと21日間心定めて「一日6回のおつとめ」をさせてもらった。それぞれに事情を乗り切り成人の姿を見せて頂いている。
また、色々な事柄を行うにつけても、不思議なめぐり合わせなど丁度良いように導いて下さっている様にも感じ、時の采配も親神様のお働きがあると感じている。
今の事情教会に入らせて頂いて3月で19年目になろうとしている。
なぜ、今突然、このような事を書くかというと、前の会長さんの息子さんが身上で病んでおられる。また私の伯父も身上で病んでいる。どちらも助かってもらいたいと思い、足を運ぶのだが、神様に自ら救いを求めてはもらえない。神様はあると言えばいうほど貝が殻を閉じるような、そんな雰囲気を感じてしまう。
どちらも若い頃から親や兄弟の事を思い、バリバリに仕事をして来た方である。これまで教会で生活をしたり、上級や会長さんを見て「天理教なんか!天理教の人間は!」という心がずっとある。なんとかそれを取り除いてあげる術はないだろうか?と考えるばかりである。
教祖のひながたにも、また「誠真実」の話にも、人の事を考えて、人に不足を与えないようにする心づかいや行いを求められているように思える。
「人の心ほど怖いものは無い」という言葉もどこかで聞いたような気もする。
「このもとをくわしくきいたことならば いかなものでもこいしなる」 とみかぐらうたに記されているが、詳しく聞かない人や聞けない人がある事をしっかりと心して、歩まなければ、助かる種があっても助かることが出来ない人を作ってしまう事になりかねない。と思う。
またそうした思いをさせた者は、そのような事にもなる。これが平等の親神様の働きでもある事を思うとき、人を救けると言う高い心ではなく、人に助かってもらうと言う低い心で、我が身を振り返りながら、心して通りたいと思う。
実際に、今の身上で痛みを感じて、揉んで貰ってもどうしようもない時に、おさづけを願うと楽になる。
また、これまでにも、夜中に子供たちに喘息が出て、おさづけをさせて頂くとゼーゼー言いながらも、2時間ほどはす~~と寝ていく。
学生の頃、本部の神殿で畳一畳も歩けなかった人が、本部の先生のおさづけで杖無しで歩けるようになる姿も見せて頂いた。
教祖120年祭の年、常から親神様にと心を寄せてくださる方々数人に事情身上が起こり、その解決の糸口を貰いたいと急に思い立っておぢばへ運んだ時、神殿でおつとめをして教祖殿・祖霊殿を回る事を3・4度ほど繰り返した。しかし何も悟れる事がなく、諦めて岐路に着くことにし、名阪国道に乗った頃、アクセルが踏めないほど右足が痛み出した。次のインターでおぢばへ戻る事に決めたら少し楽になった気がしたので、おぢばへ戻った。丁度夕づとめの前だった。知り合いの本部の先生にぱったりと出会い、足の痛みの事、事情の事を話したところ、「一日におつとめを6回」という事を聞かせてもらい、これが親神様のお言葉かと思った。私の足の痛みは消えていた。そして教会へ戻り、その方々に伝えた。それぞれに「一日におつとめを6回」させてもらうと言う、心良い返事はもらえなかったので、自分だけでもと21日間心定めて「一日6回のおつとめ」をさせてもらった。それぞれに事情を乗り切り成人の姿を見せて頂いている。
また、色々な事柄を行うにつけても、不思議なめぐり合わせなど丁度良いように導いて下さっている様にも感じ、時の采配も親神様のお働きがあると感じている。
今の事情教会に入らせて頂いて3月で19年目になろうとしている。
なぜ、今突然、このような事を書くかというと、前の会長さんの息子さんが身上で病んでおられる。また私の伯父も身上で病んでいる。どちらも助かってもらいたいと思い、足を運ぶのだが、神様に自ら救いを求めてはもらえない。神様はあると言えばいうほど貝が殻を閉じるような、そんな雰囲気を感じてしまう。
どちらも若い頃から親や兄弟の事を思い、バリバリに仕事をして来た方である。これまで教会で生活をしたり、上級や会長さんを見て「天理教なんか!天理教の人間は!」という心がずっとある。なんとかそれを取り除いてあげる術はないだろうか?と考えるばかりである。
教祖のひながたにも、また「誠真実」の話にも、人の事を考えて、人に不足を与えないようにする心づかいや行いを求められているように思える。
「人の心ほど怖いものは無い」という言葉もどこかで聞いたような気もする。
「このもとをくわしくきいたことならば いかなものでもこいしなる」 とみかぐらうたに記されているが、詳しく聞かない人や聞けない人がある事をしっかりと心して、歩まなければ、助かる種があっても助かることが出来ない人を作ってしまう事になりかねない。と思う。
またそうした思いをさせた者は、そのような事にもなる。これが平等の親神様の働きでもある事を思うとき、人を救けると言う高い心ではなく、人に助かってもらうと言う低い心で、我が身を振り返りながら、心して通りたいと思う。