ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

時の御守護

2013年02月28日 09時15分46秒 | 思った事
おさしづに、刻限というものがある。

その「時」に教えなければならない事を、神様からお話くださるおさしづと私は理解している。


立教の時には、「旬刻限の到来により・・」と子数の年限がたったその時に、親神様がこの世の表に現れられた。

また、おびや許しのお話に、「のばしなりとも、早めなりとも」とのお話がある。

さらにおさしづの中には、「遅れているだけ」という意味の言葉を見ることができる。

春夏秋冬のように、定められた時はある。それが理だと思う。

しかし、それぞれのいんねんで定まったことも、親神様はその時の人の誠真実の心を受け取って、特別にお働きくだされて、よいように時を調整してくださっているようにも思える。

ところが、その一番良い時が、私たちにはわからずに、いらぬ心を使ってしまうようにも思える。

占い師など時を見るような人がいるが、凡人にはそのような事は分からない。

分からないのならば、無理にわかろうとせず、心通りに良い時に良いように導いてくださる親神様を信じて、今の時を精一杯、誠真実を出せるように勤める事で良いのではないだろうか?

卒業式

2013年02月22日 09時12分49秒 | 思った事
今日は長女の卒業式です。

残念ながら、大教会の月次祭前日なので出席できません。

長男の時もそうでしたが、次女の時も日にちが変わらない限り無理ですね。(^^;)

今朝、詰所に泊まっている長女から電話があり、チャンと起きて準備をしている様子。

3年間おぢばでお育て頂き、誠にありがとうございました。

さて、大教会へ出かけます。

月次祭その後

2013年02月15日 11時54分02秒 | 思った事
12日に無事に2月の月次祭を終えた。

今月はおさづけを頂いた長女が、おつとめ着を付けて勤めた。

ありがたいことである。※娘はそれほど思っていない。(^^;)

しかし、一番その姿を見ていただきたい人が、自宅で療養中。

昨日、その方の講社祭だった。

食事が採れなくなってきている。
「医者は無理に食べさせることはない。本人の好きなようにしてあげて下さい」との事。
また、不思議と痛みがなく。痛み止めは使っていない。
そして、しゃべる事もない。

その講社祭で、話を終えたとき、その方から、
「会長。おれはこのまま逝って良いのかなぁ。」
との言葉が出た。

即座に
「○○さんの心一つですよ。」
「これまで、親神様の不思議なお働きを感じているでしょ。」
「生きたいと思うか、もうこれで良いと思うか、その心を神様は受け取られます。」
「ただ私は『生きて頂きたい。そして教祖130年祭の団参に一緒に行ってもらいたい。』そして
『今一度教会へ足を運んでもらいたい。』と思うばかりです。」
と答えた。

「ありがとう」との言葉を頂いて、おさづけを取り次がせて頂いた。

軟らかい心

2013年02月03日 23時52分26秒 | 思った事
『増野鼓雪選集』1巻より

 道の上で神様の御用をさして貰うのに、自分で良いことを考え付いてするのを、神様の御用に働かしてもらっているように思う。けれどもそれは、本当に神様のために働かしてもらっているとは言われない。本当に神様のために働くには、神様に使って貰わねばならぬ。神様の人足として使われ、神様の御心のままに仕事をしてこそ、神様の御用がさして貰えたと言われる。
 ところで神様の御用に使って頂くには、かたい心を持っていては、取り返しのつかぬことになってくる。かたい心とは自分がこうしよう。あーもしたいという心で、世の中の人がよく言う、「私の主義はこうです」とか、「目的はここに在るのです」とかいう主義目的というようなものであって、この心があっては、刃を懐に入れて抱かれに行くのと同じで、神様に使うて頂くことはできない。使って頂くことは、神様の御心どおりになることで、そうしなければ神様も使いにくいし、又それでは自分のことをしているのと同じことになる。自分というものをすっかり無くしてかからねば、神様の御用に立っているとは言えぬ。
 この自分を捨てるということほど、人間として辛いことはない。けれどもこの一番辛いことをしなければ、神様の御用に立つことはできない。「そんなことをされては私の顔が立たぬ」とか、「立場がない」とか言うようでは、自分の心を捨てたとは言われない。
 南向いて座っていよと言われたら、一日でもそうしているようでなければならぬ。それが神様の御目から見れば軟らかい心で、丁度水のようなものである。水は四角な器に入れても、丸い瓶に入れても、その器に従っている。どんなに使われても、黙って使われているのが軟らかい心である。それが一番使いよい道具である。神様の使いよい道具となれば、御守護は自由用に下さる。
 人間の心が自由用になるということは、人間心で勝手に何でもするということではない。水のように軟らかな、優しい心になるということである。そうして神様の自由用なる御守護を受けるのである。


上記の文を読んで思うことを書きたい。

 神様の御用とは?神様の思いとは?ということが問題になってくると思うが、「成ってくることを喜ぶ」という話を考えると、どんなことでも神様のされる事を思い、癖性分を出さずに受け止めて歩む事を言われているように感じた。