ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

春季大祭神殿講話

2010年02月24日 09時52分22秒 | 思った事
大教会の月次祭も無事につとめ終えさせて頂く事が出来、落ち着いて『みちのとも』3月号「春季大祭神殿講話」を読ませて頂いた。
すでに天理時報で要旨を読ませて頂いていたが、まずは表題(小見出し見出し)の違うことに驚いた。
これまでもこんな事は頻繁にあっただろうが、今回は天理時報で余りにも気になる見出しを見たので、気になっただけである。(^^;)

さて、講話を読ませて頂いていつも感じることは、心勇ませて頂けるという事である。こんな言い方はおかしいかもしれないけれども、段々と復元の歩みをして導いて下さっているようにも感じる。


自分自身、常に思うことは「これは親神様の思召に添った思案なのだろうか?自分の性分(いんねん)からの思案なのだろうか?」ということである。
そんな中、おふでさきやおさしづなどの言葉、ひながたや先人の歩みが思案の柱である。思案するために、おふでさき・おさしづを紐解くと共に、先人の歩みを調べている。
これが出来る元は、おぢばで学ばせて頂いたお陰とつくづく感謝している。

今年、娘もおぢばへ引き寄せて頂けた。人生を歩む真の柱を心にお与え頂ける様に、親として心正して日々を歩みたい。