ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

親神様(神様)のご守護、あります!

2011年12月07日 08時41分24秒 | 思った事
東北への慰問演奏を再度実現するために、同級生に募金を募っている。
8月に行かせて頂いた慰問演奏は、岩手教区主催で支部一会場を担当するとのことで行われた。
これを、教区の枠を超えて行おうという事からの募金である。

※慰問演奏では、教区からの声だからと懸命に募集をして、100名を越す方々に集まって頂き、「おぢばからの勇みの種を頂いた」と喜ばれた教会があった。
また壊滅的な被害にあった地域では支部としての活動が出来ないと意気消沈されている中、災救隊の活動から、天理教には関係ない公的立場の方が「天理教さんならOKです」と快く協力して下さり、50人あまりの方々が集まってくださり、その様子を見られた支部の方々が勇んでくださる姿も見せて頂いた。

何とかこの募金へ振り込をしたいと妻に相談したところ、「その募金もだけど、同窓会の会費滞納してるんじゃないの?」との言葉・・・。

今朝、何気なく書類を整理していると目の前に「同窓会の会報」が出てきた。「会費未納のお知らせ 5000円」が目に入った。

この会報、第1ページに先日お出直しになられた先生のお言葉が書かれている。来た早々に眼を通したのだが、今一度読んでみた。
「こんな珍しいご守護を頂いた、こんな不思議な事があった、あるいは、こんな節をお見せ頂いた。こういう心定めをさせて頂いてたという類の話。すなわち親神様のお働きの話は必ずあるはずだと思うのですが・・・」との事。

このブログには結構不思議なお働きの事を書いているつもりだが・・・。と思った。

そうそう
若い頃は「絶対に親神様の不思議なお働きはある」という言葉を、「どんな人でもすぐに・・・」と思い込んでいた。そして助かった人は必ず道につくと単純に思い込んでいた。
ところが、年を重ねて、色々なおたすけをさせて頂いて感じたことは、親神様のお働きはあり、お導きは頂いていても、その人の心によって現れて来る事が違ってくるということである。つまりたすけを願う人の心次第(助けたいと思う人の心が同じ場合)である事が分かってきた。
更には、身上がたすかる原因は、身上者の心ばかりではなく、周囲の心による場合もあるという事も知った。(この場合、身上者本人はなぜ助かったのか良く分からず、親神様の働きが理解されず、周囲からの期待に困惑する場合もある)
ご守護にはその他様々なケースがある。
これは私が体験させて頂いた事を後で思い返して感じた事で、事情身上の最中は、どうしてよりか分からず無我夢中に、思案しながら思い当たる事を一つずつて通るだけである。

先日、息子(次男)に喘息が出た。夕方である。
尋ねたところ「薬も飲んだ」との事。
「飲んで治まるはずの薬が効かないということは、親神様のお知らせだから、神殿へ来なさい。」と言葉が出た。
おさづけをさせて頂いた後に、「もう中学生だから、自分からおつとめをするように心しなさい。明日から朝づとめをするように」と話をした。
その後、不思議と治まって休ませて頂いた。
翌朝、咳き込んで起きてこない。神殿へ来なさいと申し付けて神殿で待っていた。
「昨日の神様との約束を守らなければ、うそになるぞ。誠にはならない。良くなったからそれで良いではならん。自分からのおつとめをしなさい。」と話をしたところ、それで治まった。

身上を通して親神様がお仕込みくださる。このありがたさをつくづく感じさせて頂きました。
道の心を持って、様々な仕事が出来る人間になって欲しいと思うばかりです。

あっという間に冬に・・・

2011年12月06日 12時36分06秒 | 思った事
先の投稿をしてから、あっという間に4ヶ月が経とうとしています。
近くの公園の木々の葉もどんどん散っています。

あれから、記念祭までの間、ほぼ大教会に泊まり込みをして、写真展などの準備をしました。
そして10月29日には、皆様方の心配のお陰で、無事に、しかも晴天の中に大教会の120周年記念祭も終える事が出来て、とても嬉しく思いました。
終えて直ぐに楽になるかと思いましたが、片付や写真の整理などがあり、さらには歴史を振り返るための写真展が好評で、1月の大祭まで掲示する事になり、その掲示の手直しなどで時が過ぎてしまいました。

私の体調は大教会へ泊まり込む以前の状態に戻って、少し根を積める作業をすると背中が痛み出すようになり、記念祭へ向かう間、不思議なご守護を頂いていたと実感しました。

11月の月次祭を終えてようやく、以前より依頼されていた、8月に同行した慰問演奏を振り返る文章を作成する事が出来ました。

そして11月29日には、今年の初めから準備をしていた、支部の法人実務研修会を無事に終える事が出来ました。今、明日支部へ持参するために、記録ビデオを作り終えたところであります。

この間に、大教会関係で私にとって大切な方々が3名、そして学生時代におぢばでお世話になった先生が2名お出直しになられました。

12月4日 お世話になった先生のお通夜に行かせて頂く事が出来きました。
その帰りにふとブログを書きたくなり、今書いています。

その先生から、「いんねんとして時も定まっている」というような事を、学生時代に聞かせてもらったように覚えています。
そしてその先生が朝礼で挨拶をされる時の第一声で心にあるのが、「人間というものは・・・」という言葉であります。
この「人間というものは・・・」という言葉を、ふと思い出して、闇路を抜けた経験があります。
学生の時は、いんねんと言われても良く分からず、ましてや信仰なんてさっぱり分からなかった頃です。ただ我武者羅に言われるままに、書き留めていた事が良かったと思っています。(書き留めた物は残っていませんが・・・)

来年うちの教会も120周年を迎えます。会長がつながらないで、信者さんも設立当時の家は全く無くなって、入れ替わりしながらここまで続いてきた教会です。
10年後か15年後か分かりませんが、何とか長男に無事に引き継がせて頂けるとありがたいと思っています。

世界救けるために、旬刻限を待って、親神様自らが手本として残された教祖のひながた。このひながたを親神様・教祖に導かれながら一歩一歩歩むと共に、周りに伝えさせて頂きたいと思います。