ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

出直し

2008年03月10日 01時49分51秒 | 思った事
昨日9日深夜にお出直しがありました。満87歳でのお出直しです。
おさづけに通わせて頂いた方であります。

本日10日は告別式です。
不思議なお助けを何度も頂かれて、一生懸命にお道を通られた方です。

その方から色々なことを学ばせて頂き、今回の身上を通しても、更に色々なことを学ばせて頂きました。
また、昨日はその方の孫さんたちに話をさせて頂く機会をお与え頂き、本当にありがたく感じました。

親神様のお働き、み教えは、宗教を超えたもの。
そして、親神様の教えは、教えを求めなければならない。
段々に経験をさせて頂いて、教えを元に悟りをお与えくださる。
かしもの・かりものを思案の台として、物事に当たらせて頂く、親神様に教祖にもたれて・・・・その中に一層の気づきがあるように思いました。

「本当に、長い間ありがとうございました。今度は望みどおりに、信仰のある家庭に生まれ変わられますように・・・・・。」



3月に・・・

2008年03月06日 08時48分30秒 | 思った事
早くも3月になってしまいました。
コメントにリンク情報を下さった方、更新せずにすみません。
大変楽しい情報ですが、ここにはふさわしくないと思って削除しました。

よく見ると、先月は一度も書き込みをしませんでした。
実際は書き込みかけたのですが、どうもふさわしくない事柄だったようで、書き込めませんでした。

人の死、それは出直しとお道では聞かせて頂いておりますが、死の形にも色々あります。
死ねるのも親神様のお働きがなければ死ねないのです。息を引き取る世話をしてくださる「たいしょくてんのみこと」様のお働きがなければ死ねないのです。

『信者の栞』の中の「誠真実」の中に次のような下りがあります。
「…そこで八つのほこりも、わが心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさせぬように、せにゃなりません。まず己がほしいものならば、人もほしいにちがいない。人にほしいという、ほこりをつけさせまいと思えば、わがものもわけさして頂くようにし、一つのものは半分わけでも、ほしいのほこりを、つけさせぬようにするのが、真実、誠の働きです。……わが身かわい、わが子可愛ければ、人の身をいたわり、人の子をかわいがる心をもち、……人にうらまれるような行いをせんように、……人にはら立たせるような言葉をつかわんよう、……よくのほこりをぬけんよう、色欲やごうよくの間違いに落ち入らぬように、人の世話をさして頂く、……されば人に恥かかさんよう、人と人との仲もとりつくろい、人をたてて、何事も人の心に満足あたえるよう……」
です。これすべて我がの心中心ではなく、我がの心の使い方をしったならば、人の心を考えて行動をしなさい。その行動で人の心にほこりをつけさせたりするのですから・・・と言われていると思うのです。

先に死について書き出して、急にこんな事を書いて、「意味わからん!」といわれる方もあるでしょう。


「自殺」自分で死を選ぶことも一つの死に方です。それが親神様に認められれば死ねるでしょう。しかし、認められなければ死ねません。
反対に生きたいと思っていても、死ななければならない人もあります。

死ねる事は親神様のご守護です。
しかしその死に方によって、その死が自分の将来(来世)のために、また周囲の方のためになる死に方かどうかが問題だと思うのです。
何よりも一番重要なのは「死にたい」と思ってしまう心だと思うのです。

私が「自殺したい」と本気で思ったのは、自分の悪い心、悪いんねんに気が付いた時でした。
それまで平然と人が悪いと言っていたのが、そうではなく、そう思ってしまう自分の心が悪いのだと気が付いた時でした。
その時ふと思いついたのが、「おぢば」でした。
闇雲におぢばへ出かけて行きました。すると不思議にも心が変わっていく事に気が付きました。
それは、「こんなのがあればみんなが楽しくなるだろうなぁ。」という心に変わっていたのです。
ところが、おぢばから離れて家に戻るとまた元の心に戻っていました。そこでまたおぢばへ出かけました。これを3日繰り返したら、家に帰っても人を悪く思わずにすむようになりました。
あの時から20数年経ちました。その時に「みんなが楽しくなるために、あればいいなぁ。」と思った事が今、紆余曲折を経て実現してきています。

親神様を信じる皆様、信じてはいないけれど、助かりたいと思う皆様。
親神様は心のほこりを払って下さいます。どうか悩み苦しむ方、おぢばへお出かけ下さいませ。