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しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

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疑いと試し

2013年06月07日 09時21分32秒 | 思った事
[六下り目]
一ッ ひとのこゝろといふものハ
   うたがひぶかいものなるぞ

と「みかぐらうた」にある。

疑いでおさしづを探すと次のおさしづが出てきた。

明治29年10月10日夜12時30分 
『刻限』
いつも旨い事思うて居たら、違うで/\。話聞いて楽しんで居たのは今までや/\。来る者はよし、来る者だけは寄りてくれ。来ん者に来いとは言わん。来る者は皆寄りてくれ。内の者は筆取りするのやないで。筆取りする者皆呼んで来い/\。
さあ/\まあやれ/\長い間、やれ/\長い間十分待った/\。どうもこれまでと一つ事情ありて刻限の話と言うた処が、刻限話に錆は無し、神がするようなこの話、区域食い違いある。よう聞き分け。長い間長い道筋長い日ならどういう日もあろ。これまで長い間どういう話もしてある。年限数えてみよ/\。年限の事情入り込むも入り込むも、道理諭しみよ。これまで長い間、年限は早く六十年なる。それはどうもならん。種という、種を蒔いても年によりて生えるものあれば、又生えんものもある。この理聞き分けて、だん/\話伝えてくれ/\。何も言うまで。今の道と半年後の話と、事情一寸心に案じもあろう。道は結構な中に案じあろ。蒔き流し蒔き流し、あちらにしょんぼり、こちらにしょんぼり。蒔き流しはどうもならん。蒔いたもの修理する。あちら一人育て、こちら一人育て、何処へ種蒔いたやらという処から生えて来る。眺めて見れば、その道筋一粒万倍という。百石蒔いて百石取る話では分からん。たゞ一つの理から出けて来た。この話は深い心の話、前々一寸説いた処が、筆を取る者はなか/\容易やない。一寸取り掛けたら十分取りてくれ。さあ/\今に百石蒔いて、一粒万倍取る事ばかり思うてるから、どうもならん。聞き分けてくれ/\。言うたばかりではならん。上ぼり切りたら下だらんならん。よう聞き分け。雨降る中もだん/\凌ぎ、百石蒔いて一粒万倍という楽しみ。席や席やあら/\分かり結構と思えば結構になる。ちょい/\の話し難くかった。この結構一粒万倍分からん。煩(うるさ)い/\なあと思ては、どうもならん。楽しんだ理はいつまでも/\。孫子の代まで楽しんでくれるよう。話から理を諭す。道はどういう処から出て来たる。分からん。聞き分ける者だけ聞き分けてくれ。聞き分けん、出けん者はどうとも言わん。これまで説いたで。一度や二度や三度やあろまい。こゝへどうしましたと伝えてくれ。聞くに聞かせん、見せるに見せられん、口に言うに言われん。曇り/\濁り/\溜(た)まるから、多いの中から他の心にちょい/\皆ある。よう聞き分け。同じ一腹(ひとはら)一種(ひとたね)、我が身になるあたゑ、兄弟という親族という、皆結んでくれ/\。雨風や/\。あちらこちら津波や、地震やと言うても、遠い所は怖わいようで、聞いて真の心に無くばつい/\忘れて了う。よう聞き分ける者だけ聞き分けてくれ。聞き分け出けん者はどうもならん。嘘と言えば嘘になる。疑えば疑わにゃならん。疑うから、世界に疑うような事出けて来る。さあ/\月が更わり年が更わり、事情だん/\多くなる。これも分かり難ない。よう聞き分け。根出しの悪い方へは枝が枯れる/\。根出しのよい方へは枝が栄える。こら何でもない話と思えば、何でもない。これ聞き分けば古い話。これだけ諭せば分かるやろ。今夜はこれだけ話して置く。又めん/\聞いて居る話の段取こうなったと、席に知らしてくれるがよい。これだけ知らし置こう。

私自身はとても疑い深い人間である。
疑い深いという事は、信じられないという事でもある。

そうした中に、ひながたにある「おびや試し」の事柄を思った。
教祖は、おびや許しを出される前に、親神様の言われるままに自らに、おびや試しをなされた。
これは自分自身の身を持って、神様の不思議を試されたものだと私は理解している。

かしもの・かりもののお話からすると、体は神様から心に貸し与えられたものである。
心通りに総てのものは貸与えられている。だから心を切り替える事が大切だと教えられる。

心は自由である。どんな事を思うことも自由である。
しかし、心が感じるためには、心が喜びを味わうためには、心が育つためには、身体がなければならない事に気がついた。

今の社会は情報化の社会である。実体験をしなくても様々な情報を得ることが出来る。
今書いている、この私の文章もそうした情報の一つである。

こうした情報が本当に正しいか正しくないかは、それぞれに試して得心をする必要があると思う。
情報だけで不安になり、何の体験もせずにいたら、いつまでも不安はぬぐい去れないと思う。

疑う心も同じで、体験することで真実は見極められると思う。
親神様のお働きも同じ、教祖のひながた・先人の歩みを体験すること。

体験した事の喜びが信仰の喜びであり、それが子供たちに伝わるものだと思う。
いくら、信仰の喜びを伝えようと言っても、喜びを体験していなければ伝えようがない。
結構であるがゆえに、その結構を離したくないがために、苦労を避けているようでは、それこそひながたを無くす事になるように思う。

不安に思う心があって結構。疑う心があって結構。
その心に気がついていることが先ずは大切。

その心を自分自身で嫌だと思うならば、その心の切り替えを願う事。
その為に自らが試すこと。これがまた大切だと思う。

親神様が人間の心を変えることなど、容易いこと。
しかし、それでは親神様を感じることが出来ない。
願う誠に親神様はお働き下さり、親神様と共に歩む心になるように、陽気ぐらしの心になるようにとお導き下されていると思う。
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