かつて旭川の街に鳴り響いていた「母の鐘」。
これについては、何度かブログの中で触れてきました。
これまでの調べで新たに分かったことも出てきましたので、改めてここでまとめたいと思います。
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「『母の鐘』鳴り響く」
(写真①)ロータリーと大平和塔(昭和26~27年・絵葉書)
昭和33年5月12日、旭川の街に時を告げる鐘の音が響き渡りました。
その名は「母の鐘」、夕方5時と夜10時の2回、街で遊ぶ青少年に帰宅を促す合図です。
「母の鐘」が設置されたのは、昭和25年の「北海道開発大博覧会」のシンボルタワーとしてロータリーに建てられた「大平和塔」です。
記録によりますと、鐘の音を発生させる装置を隣接する商工会議所の建物内に置き、そこからコードを伸ばして塔の先端部に取り付けたスピーカーから流していたようです。
(写真②)完成直後の大平和塔(昭和25年・「北海道開発大博覧会誌」より)
「ルーツは『みおつくしの鐘』」
(写真③)佐野文子
この「母の鐘」、設置のきっかけは、命をかけた廃娼運動などで知られる社会活動家の佐野文子の働きかけでした。
佐野は、大阪市で開かれた保護司の大会に出席した際、地元の婦人団体の提唱で始まった「みおつくしの鐘」(夜間、鐘の音で青少年に帰宅を促す活動)を知り、旭川でも同様の試みを行いたいと提唱したのです。
反響は大きく、直ちに建設期成会が結成されて寄付集めが始まり、婦人団体を中心に建設に必要な90万円余りが集まりました。
この「母の鐘」の活動は、その後、道内の他の都市にも広がったそうです。
(写真④)8条斜通りから見た大平和塔(昭和34年・旭川市博物館蔵)
(写真⑤)塔の先端のスピーカー(同上)
「平和塔から市役所屋上へ」
こうして始まった「母の鐘」ですが、その後、いくつかの変遷をたどります。
まず一つは鐘の音を流す時間です。
当初は午後5時と10時でしたが、市内の小中学校からの要望があり、昭和33年、午前5時(のちに6時に変更)、午前8時、正午を加えた5回に増やされます(このあたり、どちらかというと時報がわりの意味合いが強まってきたように思えます)。
2つ目は場所です。
昭和33年11月、新しい市役所庁舎が竣工したのに合わせ、「母の鐘」は庁舎の9階屋上に移設されました。
より広い範囲に鐘の音を届ける事が出来、メンテナンスもしやすいというのが移設の理由と考えられます。
これ以降、「母の鐘」は1日5回、市役所屋上から流されますが、いつ頃まで続けられたのかは定かではありません。
ちなみにワタクシは、昭和30年代から40年代にかけて、市役所の隣にあった(今の市民文化会館の場所)中央小学校に通っていました。
なのでこの鐘の音は日常的に聞いていました(もっとも「母の鐘」という名前があったことは子供の頃は知りませんでした)。
(写真⑥)新築工事中の旭川市役所(手前は旧庁舎・昭和32年か・旭川市中央図書館蔵)
「大阪では今も」
旭川の「母の鐘」の元となった大阪の「みおつくしの鐘」ですが、始まったのは旭川の3年前、昭和30年です。
市役所庁舎の屋上塔に鐘が置かれ、毎夜10時に鳴らされました。
その後、昭和61年に市役所は新築されますが、屋上塔はモニュメントとして鐘ごと新庁舎の屋上に移設され、今も大阪の街に音を響かせているということです。
また毎年の成人の日に、新成人がこの「みをつくしの鐘」を突くのが、大阪市の恒例行事となっているそうです。
(写真⑦)旧大阪市役所庁舎で行われた「みおつくしの鐘」の設置式(昭和30年・「写真集おおさか100年」より)
(写真⑧)現市役所庁舎にある屋上塔モニュメントと鐘
(写真⑨)旭川市役所と旭川市街(昭和38年・旭川市中央図書館蔵)