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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「旭川新聞」 赤い灯・青い灯

2015-02-06 09:00:19 | 郷土史エピソード


郷土史について、なかでもかなりさかのぼった年代の出来事について調べる時、なんといっても心強い「味方」になるのが昔の新聞です。
旭川には大正4年に創刊された「旭川新聞」(スタート時は『北海東雲(しののめ)新聞』、大正8年に『旭川新聞』に改題。現在の『あさひかわ新聞』とは異なる)が図書館に保存されていて(一部欠号あり)、ワタクシもちょくちょく利用させていただいています(マイクロフィルムでの閲覧なので、手間がかかりますが・・・)。
その「旭川新聞」に、昭和4年から12年まで、8年にわたって掲載されたユニークな短信記事があります。
今回はそんな昔の名物記事?について、ご紹介したいと思います。


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で、その記事ですが、「赤い灯・青い灯」というタイトルが付けられています。
「赤い灯・青い灯」。
そう、「♪赤い灯~、青い灯~、道頓堀に~」の唄い出しで始まる昭和初期のヒット曲、「道頓堀行進曲」に出てくるカフェーのネオンのことですね。
当時、旭川にあったカフェーを中心とした飲食業界の話題やトピックスを紹介する記事です。

どんな感じかというと・・・。



(昭和8年1月7日掲載)

「先んずファン諸賢、営業者各位、芸妓女給女中諸嬢に対し新年の御挨拶をウヤウヤしく申し上げ、併せて本年も「赤い灯青い灯与太書き」にカナキリ声を張り上げハッチャキの御声援を賜はらんことを同人一同お願いする次第であります。(中略)
 で縁起の良い所で酉年生まれの諸嬢を御紹介すると芸妓方面では川貞の「久栄」駒止の「●代」(中略)。女給方面ではグロリーの「●代子」センターの「瞳」パーラーの「秋子」・・・」



 これは正月にちなんで、この年の干支、酉年の女給さんを紹介している記事ですね。 
 ほとんどがこのように一段弱、20行~40行といった分量の記事です。

 写真入りのこんな記事も見つけました。



(昭和6年5月7日掲載)

 
函館高女(高等女学校)出の女給さんを紹介した記事ですが、なんと名前は「エロ子」さん。
しかも店は「カフェー・エロス」です(エロという言葉のニュアンス、今とは違っていたようですが)。

当時の世相が分かるこんな記事もありました。

「学生のカフェー出入り問題については、学校当事者は可なり厳重に監視してゐるが、不良性を帯びてゐる学生は、この監視網を巧にスリヌケてカフェーの甘夢にひたってゐるのも少なくないといふ。その近い実例として旭川師範校の風紀退学問題などはこの間の真相を語るものであろう。(中略)
最近は制服制帽のまま或は学生でないかの如く装ひカフェーに出入してエログロに耽溺する如きは誠に嘆かわしいことでこれは是非学校当局及び家庭と協力してこの風潮の蔓延を防衛せねばならぬ。
心ある女給諸君はこの意を体して出入学生にはその将来を慮うてあまりチヤホヤしないことだ。そして又それがやがては大きな社会的貢献ともなろうといふものだ。」(旭川新聞「赤い灯・青い灯」・昭和6年5月7日掲載)

新旭川市史によりますと、旭川にカフェーが現れたのは、大正末期。
割烹料理店より手軽に酒が飲め、女給さんもついてくれることが受けてまたたく間に店が増え、昭和期に入ると70~80軒ものカフェーが、師団通や錦座(3条通15丁目)界隈、中島遊郭界隈で営業していたということです。

また木野工の「旭川今昔ばなし」には、昭和10年の統計データとして、カフェーの営業許可を受けている業者数115人、働く女給さんの数325人と紹介されています。

こうしたカフェー全盛の風潮に対し、既存の料亭などはかなり苦しい立場に追いやられていたようです。
次の記事には花柳界の対抗策の一端が描かれています。

「料理店及び遊郭がカフェの進出に圧倒されて青息吐息の惨状は独り『旭川』のみではない。日本全国到る所の花柳界がこの風潮に支配されてゐる。(中略)
かくて料理店は残存ブルジョワでは到底維持困難のためあらゆるサービスを看板に吸収策を講じ呼びかけてゐるの現状である。(中略)
その例としてカフェには芸者たるもの絶対入るべからず、客と同伴でも入ったものは厳罰に処すと決議したところもある位――イヤハヤ物々しいことでござる又その裏を利用して顔見知り客の入りそうなカフェへ芸者に網を張らしておく。チビリチビリとコーヒーを吸っている内に少しでも知った客が現れると『アラッベーサン暫く』てな調子で飛つき線香の稼げる料理店へ無理矢理連れ込むといったマコトにインチキな方法を実行してゐるところもあるといふから恐れ入ったる始末である。」(旭川新聞「赤い灯・青い灯」・昭和8年1月26日掲載)


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さてこの「赤い灯・青い灯」。
旭川市中央図書館で確認したところ、前述のように期間は昭和4年から12年までの約8年、全部で745本の記事が掲載されていました(1つ1つ数えたわけではありません。データベースになっている記事の「見出し」で調べた結果です)。

ただ最初の18本は短信ではなく、当時のカフェー事情を伝える長尺の連載記事でした。
おそらくはこの連載記事のタイトル「赤い灯・青い灯」が〝はまって〟いたため、そのまま短信記事にも利用したのだと思います。
この18本の連載記事、写真なども掲載されていて、当時のカフェー内部の様子をうかがい知ることができます。

 まずはこちら。
 記念すべき第1回の「赤い灯・青い灯」です。



(昭和4年5月9日掲載)


 取り上げている「ユニオンパーラー」は、大正14年に3条通8丁目左仲に開店した「喫茶店パーラー」が前身です。
昭和2年に3条通8丁目右7に移転し、改名してカフェーに転身しました。
「カフェー界の雄として一時代をリード(新旭川市史)」した名店です。

写真を見ると、白エプロンの女給さんが3人、カウンターの奥に経営者とみられる男性がいます。
天井にはシャンデリアが飾られ、壁際には洋酒の瓶が並んでいるように見えます。

「マスターが新し屋だけ、蓄音機のレコードも相当蒐集されている。(中略)サンドボックス(サウンドボックス?)から響き出づる、音はモンパリである。異国味もつひにエキゾテックならざる時が来たカフェーなのである。」(記事より)

また記事には「☓☓座談会、〇〇の会と文芸人や素人の会合にこの二階が利用される」という下りもあります。
この店は、詩人の小熊秀雄や鈴木政輝ら当時の旭川の文化人のたまり場であったことでも知られています。



(昭和4年5月16日掲載)


 旭川カフェー界の雄で、文化人のたまり場といえば、このブログでもたびたび紹介している「ヤマニカフェー」も忘れてはなりません。

 「赤い灯・青い灯」の連載記事では、2回にわたって「ヤマニ」が紹介されていて、やはり内部の写真が載せられています(ヤマニの外観の写真はたくさん残されていますが、内部の写真はこれのみかもしれません)。

 また記事の中で「ヤマニ」は次のように評されています。

「旭川のカフェーの第一期時代。敢てそう言はう。この第一期時代は、何処のカフェーに行っても現在のように内部の設備が整ってゐなかったが、今と比較して何処のカフェーに行ってもウエートレスに美人が揃ってゐた。その代表的なものは、金子寿バー、三ヶ月バー、やまにカフェーを指したであらう。やまににしろ、三ヶ月でも、金子でも、純然たるカフェーではなく、一部はレストランであり一部はカフェー情緒を漂はしてゐるが、その中に流出るカフェー情緒はやまにが最も色が濃かったといってよい。」

 ところで、この連載記事「赤い灯・青い灯」では、18回のうち5回で、写真ではなく、記事の内容に沿ったカットが使われています。
 その中に興味深い画家の名前を見つけました。



(昭和4年5月11日掲載)


(昭和4年5月13日掲載)



 旭川の文化史に詳しい方ならすぐにお分かりですね。
 「北修」と書かれたサイン。
やはりこのブログに何回も登場している画家、高橋北修です。
 記事の掲載が昭和4年5月ですから、この時、北修は30歳です。
 ちなみに前年の昭和3年6月には、親交のあった小熊秀雄が妻子を連れて旭川を離れ、本格的な東京での生活を始めています。

 大正末期から昭和初期、旭川を彩ったカフェーの名店群と、そこに集った若き文化人。
さぞや賑やかな街の様子だったのではないでしょうか。

最後に純粋な喫茶店ですが、有名なお店の内部の写真が掲載されていましたのでご紹介します。



(昭和4年5月23日掲載)


「白ロシア」。
旭川ゆかりの大投手スタルヒンの両親が経営したとされる8条通8丁目の喫茶店ですね。
 楽器を持っているのが、記事中にある看板娘ドーシャと思われます(中央の夫人はスタルヒンの母?)。

 なおスタルヒン一家は、この後、昭和7年に「白ロシア」の経営を譲渡して神戸に移り住んだものの、すぐに旭川に戻り、3条通8丁目に「喫茶店バイカル」を開店します。
 そしてその2年後、スタルヒンは日米野球のため急きょ結成された職業野球団に加わるよう説得され、東京に旅立ちます。