「アンコール・私の好きな旭川」ももう6回目。
今回は、以前の記事「舞台は常磐公園」にも登場したあの劇団のお話です。
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<私の好きな旭川~劇団「河」と河原館>(2013年11月15日掲載)
まずはこちら。
「河原館」(昭和60年)
1970年代から80年代にかけて、旭川の芸術・文化の発信拠点だったスポット「河原館(かわらかん)」です。
「河原館」は、昭和49年、常磐公園脇にある土蔵を改造してオープンした喫茶兼劇場です。
30人ほどでほぼいっぱいになる小さなスペースでしたが、週末ごとに演劇やライブ、朗読やダンスのパフォーマンス、講演会などさまざまな催しが行われてにぎわいました(建物は今も健在で、バンドの練習場などに利用されているようです)。
この「河原館」を開設、運営していたのが、この時期、北海道の演劇界に大きな影響を与えた旭川の劇団「河(かわ)」でした。
唐十郎作「二都物語」(昭和49年・星野由美子と北門真吾)
清水邦夫作「鴉よおれたちは弾丸をこめる」(昭和47年)
「河」は、昭和33年の結成。
当初はオーソドックな舞台公演を続けていましたが、70年代に入ると、唐十郎の「状況劇場」や、鈴木忠志、別役実の「早稲田小劇場」、寺山修二の「天井桟敷」など、東京を中心とした小劇場運動の高まりに刺激を受け、唐らの戯曲を連続して上演して高い評価を受けました。
清水邦夫作「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」(昭和51年)
上の写真は、昭和51年に「河」が上演した「幻に心もそぞろ狂おしの我ら将門」の舞台です。
この作品は、在京劇団の内部分裂により公演が中止となり、一度も上演されていなかった作品で、作者であり、「河」と親交のあった劇作家、清水邦夫の勧めで「河」が初演しました(こうしたプロの劇作家の作品を地方のアマチュア劇団が初演するのは極めて異例です)。
「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」(塔崎健二と池ノ内にじ子・昭和51年)
その後も「河」は、創設メンバーで役者兼演出家として劇団を支えた星野由美子や、テレビドラマ「北も国から」にも出演した塔崎健二(平成7年に、筋萎縮性側索硬化症のため死去)を中心に精力的に活動し、その存在は在京演劇人からも注目を浴びました。
清水邦夫作「楽屋」
また質の高い舞台とともに、「河」が果たした大きな功績は、当時の東京の最先端の文化の〝紹介者〟でもあったことです。
当時の劇団関係者からお借りした資料をもとに、この時代、「河」が受け入れて旭川で行われたイベントをざっと上げてみますと・・・
舞台では、前述の「早稲田小劇場」や「黒テント」現在は俳優としても活躍している田中眠のダンス、女優吉行和子の1人芝居、等々。
さらには「竜馬暗殺」「サード」などの名作映画の上映もありました。
当時のイベント一覧が載せられたチラシ
インターネットの発達などで今は文化面でも東京と地方の距離は短くなっていますが、70年~80年代は情報も少なく、ましてや実際に体験する機会はごくごく限られていました。
だからこそ当時「河原館」や周辺でのさまざまな文化・芸術のイベントに大きく触発された若者は数多く(当時高校生だったワタクシもその一人でした)、その功績は計り知れないと考えます。
劇団「河」と河原館、当時の旭川の若者の可能性を引き出してくれた存在でした!
唐十郎作「鉄火面」(昭和48年・常磐公園での野外公演)
「火のようにさみしい姉がいて」のチラシ(昭和54年)