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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・私の好きな旭川 VOL.5 「母の鐘」と佐野文子

2014-10-12 14:11:04 | 郷土史エピソード

好評の「アンコール・私の好きな旭川」。
5回目の今回は、小説の主人公のような人生を歩んだこの女性について書いたこの記事です。


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<私の好きな旭川~「母の鐘」と佐野文子>(2013年10月16日掲載)


まずはこちら。


(旭川市中央図書館蔵)


かつてロータリーにあった大平和塔です。
以前に紹介しましたよね。
さらにこちら。



こちらもお分かりですよね。市役所の屋上部分です。
では、この2つに共通するものと言ったら?

分かった方は旭川のかなりの歴史通。
答えは「母の鐘」です!

以前、このブログでも触れましたが、「母の鐘」は、夕方、外で遊んでいる子供たちに時刻を知らせ、家に帰るよう促したメロディーです。
昭和27年に始まって最初は大平和塔から、その後は市役所屋上から流されました。

で、きょうはこの旭川での母の鐘の提唱者、佐野文子(さの・ふみこ)のお話です。


佐野文子(「国防婦人会記念写真帳」より・昭和12年)

NHKの朝の連続テレビ小説には、過去、さまざまな分野で活躍した女性をモデルにした主人公が登場しましたが、佐野文子は、まさに小説のような人生を送りながら数々の社会貢献を果たした人です。

文子は、明治26(1893)年、島根県生まれ。
明治42(1909)年に旭川で医師していた義兄を頼って来旭、小学校の教師になりました。
3年後、実業家と結婚しますが、ほどなく夫は病死、24歳にして未亡人となります。


文子が勤めた中央小学校(旭川市中央図書館蔵)


キリスト教の信仰を持っていた彼女が、さまざまな社会活動を行うようになったのはこのころからで、中でも廃娼運動には命をかけて取り組みました。

当時旭川にあった遊郭に単身乗り込んでビラをまき、助けを求めて駆け込んできた女性をかくまい、市外に逃がすなどした文子。
脅迫や嫌がらせにも屈せず、文子に救い出され、新たな人生を歩み始めた女性は10余名にのぼったといいます。


中島遊郭の大門(旭川市中央図書館蔵・大正時代)


そんな彼女、もう一つ「へー」と驚くエピソードがあります。
昭和17(1942)年、文子に「上京してある職務についてほしい」と、旭川の陸軍第七師団の幹部から依頼がありました。
言われて訪ねた先は、何と時の首相、東条英機邸!
役目は東条の私設秘書兼子供の家庭教師で、夫人の相談相手も務めました。

当時、軍は東条の命令で、自宅で秘書役を務める有能な女性を探していて、
国防婦人会旭川支部長をつとめ、全国的にもその精力的な活動ぶりが知られていた文子に白羽の矢が当たったと伝えられています。

文子は、首相本人からも「佐野先生」と呼ばれたそうで、戦後すぐに旭川に戻りましたが、東条が戦犯として処刑されたあとも一家との親交は続き、遺児の成長をわが子のことのように喜んだといいます。


第7師団司令部


なお「母の鐘」は、以前に書いたように、昭和27年に、保護司の集まりで大阪を訪れた文子が、当地で子供の帰宅を促すメロディーが流されているのを知って旭川でも導入しようと取り組んだのがきっかけと伝えられています。

またさらに付け加えますと、文子はわずかな蓄えを崩して、旭川の若者に奨学資金を提供したことでも知られ、その一人にのちにNHK会長となる前田義徳(まえだ・よしのり)がいました。


前田義徳(旭川の100人)

佐野文子、旭川の歴史を語るときには、欠かせない女性です。



コメント (3)
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