もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

佐々木座と第一楼

2015-11-12 08:36:25 | 郷土史エピソード


鉄道の開通や陸軍第7師団の移駐決定を契機にした人口の急増を背景に、一気に発展した明治30年代の旭川。
歌舞伎の上演も可能な本格的な劇場や舞台付の大広間を備えた料亭が早くもお目見えし、好景気に沸く人々を癒しました。
今回はそんな開拓期のお話です。



                   **********


「最初の劇場」



佐々木座開業広告(明治32年7月1日・北海道毎日新聞)


明治32年の新聞に載った広告です。
「旭川本町六町目ニ於テ劇場新築中ノ処来ル七月十四日落成ニ付佐々木座ト称シ同日舞台開キ仕候間当日ヨリ賑々シク御来観ノ程伏テ奉希候」とあります。
この「佐々木座」(「マルサ座」とも)、場所は現在の1条通6丁目、今の「スマイルホテル旭川」(旧ワシントンホテル)裏手の駐車場のところにありました。
回り舞台など歌舞伎を上演できる設備を備えた旭川初の本格的な劇場で、東京から歌舞伎の一座を呼ぶなど開業当初から人気を集めたほか、政党による演説会など各種の集会にも利用されました。



佐々木座(明治35年・上川便覧)


「大親分、佐々木源吾」



佐々木源吾


この劇場を建てたのは、当時、地域の顔役だった博徒の親分、佐々木源吾(ささき・げんご)です。
佐々木は幕末の1847年に現在の岩手県水沢市に生まれ、江戸に出た後、旧幕府軍の榎本武揚(えのもと・たけあき)に従って函館に渡った人物です。
その後、函館を拠点に全道に勢力を広げていた博徒の丸茂(まるも)派一家(親分は森田常吉)の盃を受けて幹部となり、明治25年頃、旭川に進出して自身の一家、丸佐(丸サ)派を作りました。



「昇る旭川」(大正6年3月4日・北海タイムス)


大正6年に連載された「北海タイムス」の記事「昇る旭川」です。
急成長する旭川の様子を確かめようと、札幌から派遣された記者が書いた今でいうルポルタージュ記事です。
その中に当時、賭博場はもとより花柳界、興業界を仕切っていた佐々木のことが詳しく紹介されています。
少し紹介しましょう。

「佐々木源吾の旭川村へ落ち着いたのは明治二十五年頃で同地が漸やく拓けかかる時であつた(中略)間もなく三十一年八月には瀧川旭川間の轍道が開通 三十二年には鷹栖村字近文へ第七師團が起工され三十三年八月には旭川町と改稱(かいしょう)さるるに至り僅か七八年の間に旭川も驚くべき進歩を来たした 源吾は此間に土工夫を相手に賭博を開帳し一面旗亭妓楼を開業 第一楼(今の)第二楼、妓楼は中島遊郭で開新楼と命名し營業も次第に繁昌し追て見番を設け劇場佐々木座を経營するに至り丸サの親方親方と立られ、一面には賭場の部屋が設けられ部屋には乾兒(こぶん)百人斗(ばか)り置れ(中略)旭川附近一圓には四百八十人斗(ばか)りの乾兒を有し丸サの親分といへば飛ぶ鳥落す勢ひであつた」。

「日の出の勢ひだつた丸サの親分佐々木源吾は一方博徒の首領として町民を戰慄せしめたが一方旭川のため功勞も多い 又當時同町第一の納税者で明治二十七年頃火防の必要上私立消防を組織した 當時の人員は六十名だつたが三十一年に旭川署に返上し町有となつてからは十有二年間消防組頭の公職を勤め貸座敷取締を五年間も勤続した男だ」。


「本格料亭『第一楼』」



第一楼(大正4年・北海の礎)


この佐々木が、劇場に先んじて経営していたのが記事にもある料亭「第一楼」でした。
明治30年頃、のちに「佐々木座」を建てる1条通6丁目に店を移し、本格料亭として経営を始めます(開業当初の店は別名)。
明治32年10月7日の「北海道毎日新聞」には「第一楼は一条通り六丁目にあり真に旭川に於ける第一楼にして百人以上の宴会には此楼を措て他に求むべからず」とあります。
北海道ではまだ珍しい舞台付の大広間を備える本格料亭で、札幌の「幾代(いくよ)」、旭川の「第一楼」と並び称されることもあったようです。
また同じ記事には「当地に足をいるるもの官吏たると商人たるを問わず一度は必ず昇るものとせり」とあり、賑わっていたことをうかがわせています。
鉄道の延伸や第七師団の移駐で人口が急増した明治30年代の旭川。
ゴールドラッシュに沸くアメリカ西部のような昼夜を問わぬ喧噪のなか、各地から集まった人々を癒したのは、源吾がいち早く建設した劇場や料亭だったようです。



第一楼の内部(昭和3年・旭川新聞)


「佐々木から辻広へ」



辻広駒吉


さて飛ぶ鳥を落とすと形容された佐々木源吾ですが、明治37年、突然、興業界及び博徒渡世からの引退を表明し、当時の朝鮮に渡ってしまいます(本人は「開明の世にいつまでも賭博を生業にするのは大きな間違いと思い至った」と話したとされています。その後、いったん旭川に戻るも今度は樺太に渡り、昭和3年、当地で死去)。
この時「佐々木座」や「第一楼」などを引き継いだのが、配下の辻広駒吉(つじひろ・こまきち)でした(賭場は別の人物が引き継ぐ)。
辻広は明治元年、福井県の生まれで、明治12年に函館に移住。さらに旭川に拠点を移したのは明治30年頃とされています。
興業関係の才覚は佐々木をしのぎ、明治30年代には、東京相撲の招へいで手腕をふるったほか、大正2年には中村芝雀(なかむら・しばじゃく)、大正7年には尾上菊五郎(おのえ・きくごろう)一座を旭川に招き、地元住民の喝さいを浴びました。
その後は、もともとの生業である建設請負に加え、典礼関係の会社を興すなど事業を拡大、町会議員や市会議員としても活躍しました。


「続く名興行主の系譜」



佐藤市太郎


ところで、旭川の興業界は、ご紹介した佐々木、辻広のほかにも、大正から昭和にかけて活動映画館の全道チェーン「神田館チェーン」で一世を風靡した佐藤市太郎(さとう・いちたろう)や、戦後、日本を代表する興行主と言われ、名優、長谷川一夫(はせがわ・かずお)との深い親交などで有名な本間誠一(ほんま・せいいち)など、異才を輩出したことで知られています。
地理的には日本の最北端に近い場所に位置する旭川。そこがこのように実力ある名興行主を輩出した背景はなんだったのだろうかと考えずにはおられません。


「旭川に来た須磨子と貞奴」


なお、このブログでは何度も触れている北けんじさんの著作に、大正時代に「佐々木座」で公演した在京の2つの著名な劇団について詳しく書かれています。
ワタクシも読んで驚いた一人でありますが、多くの人に知っていただきたい事実なので、最後に紹介させていただきます。



芸術座公演を伝える新聞記事(大正3年9月13日・北海タイムス)


一つは抱月(ほうげつ)、須磨子(すまこ)で有名な「芸術座」です。
北さんはこう書いています。

「坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)が主宰する文芸協会が、島村抱月と松井須磨子の恋愛問題に端を発してあっけなく解散となり、抱月は須磨子を擁して芸術座を組織したのが大正2年9月である。松井須磨子は島村抱月という演出家を得て粗削りな演技にもかかわらずその野生美と大衆が受け入れやすい感傷性を兼ね備えていたので、新劇女優として成功した。(中略)今では伝説となった『復活』の主題歌カチューシャの唄は全国に普及して流行り歌となっていたのである。その絶頂期にある松井須磨子を擁する芸術座が旭川にやって来た」。

公演は札幌、小樽に続き、大正3年9月13日と14日に、旭川「佐々木座」で行われ、「復活」など2本が上演されました。



松井須磨子(1886-1919)


もう一つは、川上貞奴(かわかみ・さだやっこ)の一座です。
貞奴は、「オッペケペ節」で知られる壮士芝居の雄、川上音二郎(かわかみ・おとじろう)の妻ですが、夫の急死を受けて貞奴一座を作り、全国を巡演していました。
「佐々木座」での公演は大正4年2月1日の開幕。演目は「八犬伝」でした。これは当時の新聞に載った劇評です。

「嘗て新しいと云ふ寝耳に水の様な声に驚かされて芸術座のカチューシャを観た時は多くの顔が失望の色を浮かべてゐた。正月の芝居沈み勝に過ぎた今日、早くも雪解けの長閑さを味ふかの様も待ち侘びていた貞奴一座が佐々木座に来ての初日は素晴らしい人気であった。マダムの指は未だ痺れるには間がある。夫れに時代劇の八犬伝墨田高楼は旭川唯一の観劇趣味に投ずるに足るもので女装の犬坂が凛として決心を見せる処は拍手喝采。(後略)」

この評について、北さんは「須磨子の芸術座は旭川の観客には高尚に過ぎて退屈してしまったようだが、マダム貞奴一座の『八犬伝』の大立回りは旭川の観客には理屈抜きで面白い芝居に映ったということのようである。新劇のもってまわったような科白にはついてゆけない、正直な観客層だったといえる。しかしこんな演劇もあるのだという認識を植え付けられたという意味で画期的な公演だった」と書いています。
ワタクシもさもありなんという感想です。




貞奴(1871-1946)


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 市街に鳴り響いた「母の鐘」 | トップ | カラー動画でよみがえる30年代 »
最新の画像もっと見る

郷土史エピソード」カテゴリの最新記事