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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

旭川のアナキスト・大正編

2020-09-07 15:00:00 | 郷土史エピソード
以前の記事でも触れましたが、大正から昭和初期の旭川は、北海道におけるアナキスト=無政府主義者の拠点の一つでした。
彼らの活動した期間は長いものではありませんでしたが、3つの事件で大きく報道されるとともに、調べていくと、詩人・小熊秀雄との関わりなど興味深い側面も見えてきました。
今回は、そんな旭川のアナキストを巡る動き、そして小熊との関わりなどについて、2回に分けて書きます。
まずは前半、大正編です。


                   **********



◆アナキズム(無政府主義)とは


手元にある辞書を引くと、アナキズム=無政府主義について、こう書かれています。


「国家をはじめ一切の政治権力を否定し、個人の完全な自由およびそうした個人の自主的結合による社会を実現しようとする思想」(三省堂「大辞林」より)


この無政府主義を唱える人が、アナキスト=無政府主義者です。
日本では、明治43年の大逆事件で処刑された幸徳秋水や、大正12年、関東大震災の混乱の中で検挙された朴烈と金子文子、同じ時期に憲兵隊に虐殺された大杉栄らが有名です。



画像1 幸徳秋水と大杉栄



画像2 朴烈と金子文子



◆鎖断社と小熊秀雄


郷土史を調べていくと、旭川にもこのアナキストやグループの名前が幾度か出てきます。
まず登場するのは、鎖断社(さだんしゃ)というグループです。


「旭川市四条通六丁目右十号に鎖断社自由廃業相談部の看板を掲げて『第四階級に生きる彼等を解放せよ』と自由廃業を宣伝する自称社会主義者石井龍太郎、大鐘参夫、寺田格一郎外数名の一派は、三十一日『自由廃業をしたい芸娼妓諸君』と題する宣伝ビラを数千枚市中に散布し主要所で宣伝演説をしてゐたが同夜石井、大鐘、寺田の三名は中島遊郭に入り岩手楼其他二三ケ所に登楼して娼妓に宣伝を始めたのでかくと知つた同郭内の妓夫二十数名に地回り野次馬連を加へた五十余名と大門前で大立回りを演じたが多勢の為め追まくられた石井大鐘の二名は永隆橋際の叢(くさむら)に待ち伏た覆面せる野次馬数名のため棍棒及び木刀を以て頭部腹部所嫌はず散々に殴打され打ち倒れてゐる処を翌一(一部不明)四ノ一二竹村病院に入院した」(大正13年9月2日・旭川新聞)


妓夫(ぎゆう)とは、遊郭の用心棒的な役割を持っていた男たち、いわゆる牛太郎(ぎゅうたろう)のことです。
大胆にも中島遊郭に乗り込んで娼妓に自由廃業を勧めていた所、察知した牛太郎に囲まれたというわけです(この頃の公娼制度では、娼妓は自由意志で廃業することができる仕組みでした。ただ諸事情で廃業を選んだ娼妓は少数でした。詳しくは前回のブログ記事「『襤褸』が描いた旭川」参照してください)。
記事では身元をぼかしていますが、おそらく石井、大鐘を袋叩きにしたのも牛太郎と思います。



画像3 偕楽園(現在の8条通9丁目にあった庭園)から見た中島遊郭(明治末〜大正初期)


そして翌日の旭川新聞には、この記事とは全く別内容の、彼らについて触れた黒珊瑚こと小熊秀雄の署名記事が掲載されます(以下、このブログの別記事「小熊秀雄が書いた旭川その2」の内容と重複する部分がありますが、ご勘弁を)。


「時の推移とともに、さまざまな経路の変つた職業の生まれてくるのは争はれない、これも時代が産んだ新職業のひとつであらう。この場合この仕事を職業化するのは考へものかもしれないが市内四条通六丁目角の女髪結の隣りに近頃『芸娼妓自由廃業紹介所』といふ眼新しい看板がかかげられた表の硝子戸にべたべたと『自由廃業をしたい芸娼妓諸君へ』といふ白赤の印刷物がはりつけられて通りすがりにひよいと硝子越に、ねそべつた若い男のすがたが見えたがいかにもプロ運動にふさわしいやうな所内の有様であつた。虐げられたる者達の繋がれたる鉄鎖を断つといふ意味から名づけられたものであらう『鎖断社(さだんしゃ)』といふのであるが、同人達の宣言では、この北海の地に無産階級の根底を築かうといふので、労働運動に社会運動に中央の同志と呼応して今後あらゆる方面に活躍しようといふのである、その第一歩として生温い一種の改造運動ではあるが金権の暴力に圧迫されて淫慾の犠牲となつてゐるあまたの弱き女性の解放に尽くしたいといふのがこの社の主張である。自由廃業をしたいと思ふ芸妓なり娼妓なりが申込めば、いろいろの注意やら商業届も書けず其の手続きが出来ない者に手続きもするし、届書も書いてやつて完全に自由廃業の目的を遂げさしてやるといふことである(中略)東京でこの種の自由廃業相談所ににたのをやつた者があるさうだが芸娼妓の自由廃業を教唆応援して女の雇い主が泣きついてきたときは雇主側から金をとつて生活をしてゐたさうであるが、これなどはプロ援護の美名に隠れてプロを喰ひ者にしてゐた憎むべき徒輩と言はれよう。こんど旭川に初声をあげた鎖断社などもともすればかうした誤解され易い立場にある仕事をやらなければならない訳だ。同社の前途を共鳴と祝福の意味から筆者ははるかに、真実の苦言を呈してをく。(「秋の夜長の無駄話」より・大正12年9月3日旭川新聞)



画像4 旭川新聞時代の小熊秀雄(後列左)


注文はつけていますが、好意的なスタンスで書かれた文章です。
この鎖断社という組織、昭和41年に発刊された「北海道社会運動史」(著者は元日本社会党代議士の渡辺惣蔵)によりますと、大正末から昭和始めにかけ、旭川、函館、小樽などで活動したアナキストのグループで、記事にあったように娼妓の自己廃業を後押しする活動をしていました。


「(鎖断社は)露天商などの商売をやりながら『籠の鳥』と称された遊郭の娼妓の自廃運動に主力を注ぎ、これを人身売買からの解放運動の手段としたから、各地の遊郭業者を震え上がらせた」(「北海道社会運動史」より)。



画像5 旭川新聞に載った鎖断社本部の写真


さらに「北海道社会運動史」は、旭川鎖断社のメンバーについても触れています。


「旭川の鎖断社のアナキストの中心人物は大鐘参夫らであり、後に小樽で黒色青年同盟の運動を起した寺田格一郎や、昭和初期の旭粋会との乱斗事件や、不敬罪に問われて下獄した山下章二(筆者注・正しくは昇二)も、そのころソヴェートロシアから帰ってからアナ系運動に投じていった。露店商、香具師などを業とし、長髪の思想青年が多く、異行の徒の集団であった。」(「北海道社会運動史」より)


なお、小熊の記事から一週間後、「鉄鞭」と題されていた旭川新聞の投書欄に、ここで名前の上がった寺田格一郎の文章が掲載されます。
寺田は小熊の記事について、「鞭達及び苦言においらは心から感謝し且つよろこぶ」としたうえで、「俺らにとって最も寂しく思ふのは共鳴されている人から誤解を受けることだ。だからおいらを最もよく知ってくれ」と呼びかけ、「これからおいらのほんとの意味の活躍の時季になる・・・単なる虐げられた婦人の解放運動のみでなく、オール(プロレタリアートの解放のために・・・」と書いています。


◆突然の検挙


そしてこの投稿が掲載されたわずか5日後の9月15日、寺田を含む鎖断社の主要メンバーや関係者が逮捕される事件が起きます。



画像6 事件を伝える旭川新聞の記事


「旭川憲兵隊及び旭川警察署高等課では数日来非常の緊張味を帯び極く秘裡に活動中の所一昨夜十時頃予て其筋に行動を注目されてゐた四条通六丁目右十号芸娼妓自由廃業を宣伝してゐる鎖断社員大鐘三夫其他一味三名の検挙となり(中略)更に午前八時其筋の活動の手は三条七丁目左一号竹の湯方小間物店桃太郎屋こと服部みさを(三〇)方の家宅捜査の上みさを内縁の夫社会主義者大杉系幹部と目される大石太郎(三〇)を其場より拘引、太郎が在京の同志と往復せる書信数通を押収旭川署に引上げ午前十時一応取調の上太郎三夫は関口予審判事の令状執行となり両名は直ちに収監事件は予審に附せられて仕舞った」(大正13年9月16日・旭川新聞)


「日本アナキズム運動人名事典」によりますと、大鐘参夫(記事では三夫)は京都出身の香具師で、旭川鎖断社の創設メンバーです。
大石太郎は熊本出身のやはり香具師で、事件の1年余り前に北海道に渡ってきましたが、本州時代、大杉栄と交流があったとして当局にマークされていました。
逮捕容疑は示されてはいませんが、大石および旭川鎖断社の面々が、当時、旭川第七師団第十三旅団長だった小泉六一少将を付け狙っていたことを当局が察知し、検挙に至ったと説明されています(最終的な検挙者は、大石、大鐘に加え、石井、寺田の鎖断社メンバーら6人)。
ではなぜ彼らは小泉少将の襲撃を計画したとされたのでしょうか。
少し背景を説明しますと、事件の1年前の大正12年9月、当時、日本のアナキズムの指導者的存在だった大杉栄が、関東大震災直後の混乱の中で、内縁の妻でアナキストの伊藤野枝と甥の6歳の男児とともに憲兵隊に連行され、全員が殺害されるという凄惨な事件が起きます。
この事件は、残されたアナキストたちにショックを与え、一部は報復のための実力行動に出ます。



画像7 伊藤野枝と大杉栄


その代表格が大杉と行動をともにしていた和田久太郎や村木源次郎、アナキストグループ、ギロチン社を結成していた中浜哲、古田大二郎などです。
彼らは大杉の虐殺後、さまざまな行動を起こしますが、そのハイライトとなったのが和田、村木、古田による福田雅太郎大将暗殺未遂です。
事件は、震災一周年の9月1日、旭川鎖断社事件の2週間前に東京で起きました。
震災時の戒厳司令官だった福田雅太郎大将に向けて和田がピストルを発砲、しかし空砲だったため襲撃は失敗に終わり、3人は相次いで逮捕されます。
彼らは大杉虐殺の報復のため、当時、憲兵隊を指揮する立場にあった福田を狙ったと供述しました。



画像8 中浜哲・和田久太郎・村木源次郎


旭川鎖断社事件で当局が描いた構図も和田らの事件と同じで、小泉六一少将が震災当時、福田大将を補佐する立場の憲兵司令官だったため、報復を目論んだというわけです。
ただ事件発生を伝える各紙の記事はこうした構図をもとに書かれていますが、実際にはそうしたテロ計画はありませんでした。
それを端的に表わしているのが起訴内容です。
一つが、鎖断社を作るに当たり届け出をしていなかったため秘密結社と認定されるとした治安維持法違反(大鐘ら4人)、もう一つが中島遊郭での自由廃業宣伝の際、暴漢に襲われて入院していた石井龍太郎が、仲間とともに看護婦に革命歌を歌って聞かせ、歌詞を書いた印刷物を渡したとする流言浮説取締令違反(石井他1名)、テロのテの字も出てきません。
このため、この起訴内容を北海タイムスが特ダネとして伝えた翌日(大正13年12月4日)には、当初の構図では首謀者とされた大石が罪に問われることなく釈放されています。
旭川鎖断社は、この年8月末から看板を掲げて活動を開始しました。
そして少し前には大杉と関係のあった大石、さらにはアナキストに狙われる立場の小泉少将が旭川にやってきていました。
そうした中で迎えた震災一周年。
東京では懸念されていた報復テロが、失敗したとはいえ実際に起こりました。
旭川の憲兵隊および警察では、地元でそうしたテロの計画はないと思いつつも(憲兵隊は、主義者を装ったスパイを鎖断社に潜入させていました)、なにより警戒のため関係者の検挙に踏み切った、というのが実情と思います。
そのためのフレームアップ(=でっちあげ)というのが、事件の本質と言えそうです。
なお病院で革命歌を歌って聞かせたという石井龍太郎ですが、「日本アナキズム運動人名事典」によりますと、九州の炭鉱で労働組合活動をしていた人物で、その後北海道に渡って旭川で日雇い労働者となり、鎖断社の結成に参加したということです。



画像9 石井らが革命歌を歌った竹村病院


◆旭川新聞のスタンス


ところで、こうした事情をある程度わかっていたのか、当時、旭川新聞は、重大事件発生の割には、と思わせる誌面作りをしています。
具体的には、大石の美人の妻をやたらと取り上げたり、当局を茶化したかのような記事を載せたりといった点です。



画像10 大石の妻、みさをのインタビュー記事


これは事件の発生を伝える日の記事の一部ですが、大石の妻、みさを(本名・服部ミサ)の「大石と鎖断社では主義が違う」「主義者の家内となれば辛いもの」といった談話に加え、カフェのメードをしていたなど、プロフィール的なことまで細かく載せられています。
また大石の釈放を伝える12月5日の記事では、「例の大石の妻君たる操さんが美しい顔を今日は一層艶かにして包み切れぬ嬉しさを現しながらも何んとなく落付きのない態度で控へ室を右往左往して居る(「美しい顔」は大きな活字!)」などと描写しています。
別の日には、小熊による写真付きのこんな署名記事も掲載されます。



画像11 小熊の署名記事(写真は取材中の小熊)


「編輯長から小泉少将の首を撮って来て呉れの命を受け記者は早速写真班のオー君といっしょに一区十銭也の乗合自動車を師団までふん発する。(中略)ふいに玄関の扉がひらかれて四十格好になつた老女が半身を現す『どなた様でございますか』『閣下は御在宅で?』と記者は百も承知の在宅を訪ねると「をられますが、その方へ何卒」と呼びさすのでフと記者はさされた方を見ると髪の毛をジャンギリにした伊勢崎絣を着流した眼の凄い素人眼にも一見憲兵と知られる男が何時の間にか記者達の傍に立ってゐてその鋭い殺人光線のやうな視線をふたりにパラパラと浴びせかける(中略)らいらくな少将のこと何程こん度の陰謀事件があるからと言って面会謝絶の警戒振をするやうなことがまさか有るまいといふ目算がどうやら案に相違して玄関番代用の憲兵の物々した身辺警護に二人はビックリして首を振るどころの騒ぎではない、むかふでさう戒厳令をしけばこつちでも策戦計画を変へてと記者が写真班に眼で合図をするとオー君合点と準備をするやがて例の眼の鋭い男が扉から顔だけといふ玄関番作法をしらぬ態度で『閣下は何も御意見がないと申しますが』とまんまと玄関払ひ記者は「御面会はお願ひ申しましたが、用件のことはまだ申しませんが」と一本突っこみ警護役の眼を白黒さしてゐる処を写真班がパチリ、てもまた大げさな警戒振かな」(大正13年9月19日・旭川新聞)


この記事、タイトルが「小泉少将の首を撮りにゆく記」となっています。
報道機関では、顔写真のことを「ガン首」と言い、ただ「首」と略する場合もあります。
なので事件の報道に合わせて掲載する小泉少将の顔写真を撮影に行った顛末記という体裁ですが、テロの標的にされたとしている人物の取材記を、「首を撮りにゆく・・・」としてしまうのはかなり思い切ったことです。
警戒ぶりを茶化した文章といい、「そんなテロ計画などないものを」と小熊が匂わしていると言ったら深読みのしすぎでしょうか。
いずれにしろ小熊や当時の旭川新聞の反骨心が現れた記事と思います。



画像12 小泉六一少将


◆傍若無人の被告たち


さてそんな軽微な罪での起訴となった事件ですが、年が明けると公判が始まります。
ここでの被告たちは、現在では考えられないほどの傍若無人ぶりを見せ、法廷もある程度許容、新聞はそれを面白く書き立てるという展開を見せます。



画像13 初公判の記事


まずは傍聴席ですが、起訴されなかった鎖断社のメンバー、大石ら関係の深い香具師に加え、一般の傍聴者も多く、記事では「立錐の余地もない騒ぎである」と書かれています。
そして大鐘、寺田、石井ら4人の被告が入廷しますと、傍聴席から激励の声が飛び、4人もそれに応えて「気焔を上げる」という興奮ぶりです。
さらに開廷が遅れると、被告の一人、鎖断社の山田正信が怒り出し、係員を怒鳴りつけるや傍らの椅子を振り上げて床に叩きつけ、壊してしまったというから驚きです。
今なら即退廷ですが、やがて現れた裁判長もそんな彼らに何故か寛容です。
起訴理由の朗読に続いて審問に移りますが、被告はいずれも起訴事実を否定しました。



画像14 初公判について書いた小熊のコラム


この公判の模様を伝えた旭川新聞には、黒珊瑚こと小熊のコラムが載せられていますが、その中で小熊はユーモラスに法廷の様子を伝えています。


「竹村病院の看護婦を整列さして『革命歌』の教授をやつたというかどを、温顔な福間裁判長がじんぐりもつくりと肥えた姿の主義者石井龍太郎を証拠品第何号を突きつけて尋問を始める幾分どもつた言ひ振りの石井がすつくと立ちあがり、『わつちは十三才の時に親に死に別れやしてから、あつちこつちの炭礦へ渡り歩いてずいぶん虐げられたもんで、ヘン、都々逸や端歌などを歌つてゐられる気分が出ませんから』と叫ぶ。この一風変わった赤い労働者がさかんに気焔をはく開廷前に『開廷時間の不励行だ』というので、元気な山田が座席の椅子をたたきこわしてしまった。慈父のように優しいものいいの福間さんが法冠法衣姿で高い台から静かな調子でいちいち詳細に被告に尋ねるが、さすがに赤い裁判と思わせる、すこぶる寛いだ感じのよいといっては変にきこえるがとにかく肩のこらない公判は続けられる。(中略)さすが頭のよいのは寺田格一郎老師の虚無主義崇拝が畑違いの社会主義に頭を突っ込んでいまさら巻添を喰つてつまらないといった表情でさかんに同志の弁護や弁解を述べたてるし、大鐘参夫はなかなかの熱弁家でともすれば詳細に主義の理論を裁判長殿に教授する態度であるので『よしよし、それはまた後からくわしく聞くから』と裁判長に言われる、(中略)廊下でばったり逢つた御大の大石太郎クンに『なかなか人気があるもんですね』といふと『フ丶丶丶』と異様な笑いを漏らすこの大石一派の主義者が香具師連、師団の兵隊さんと老人連で傍聴席がぎっしりだが見渡すところ思想問題に無関心なせいか旭川の青年の顔がさっぱり見えないのはちょっと変な気がした位」(旭川新聞・大正14年1月20日)


小熊が大石に「なかなか人気があるもんですね」と言ったくらいですから、どうやら地元の世論も“被告より”だったようです。
また法廷の雰囲気も、椅子を叩き壊すなどの場面があったにしては、そう緊張感が漂うものではなかったことが、この記事からは推測されます。



画像15 旭川地方裁判所


◆判決も大幅減刑


さて公判は2月2日にもう一度開かれて結審。
検察は、寺田と石井に禁錮10か月、大鐘と山田に同8か月を求刑しました。
そして2月13日には判決の言い渡しがあり、病院での流言浮説取締令違反については無罪で、治安警察法違反のみ有罪。
寺田、石井、大鐘の3人は禁錮8か月、山田は同6か月(いずれも未決勾留2か月を含む)となり、4人は控訴の手続きを取ります。
最終的には、4月に札幌で開かれた控訴審で、山田は無罪、他の3人は禁錮6か月(いずれも未決勾留100日を含む)とさらに減刑されますが、ここでも4人の傍若無人ぶりは変わっていません。
小樽新聞は、判決言い渡し後の様子をこのように伝えています。


「裁判官の退廷するや石井は満員の傍聴席を顧みて大聲に鎖断社の万歳を唱へ寺田は裁判長の椅子に腰をかけて見たり椅子を打ち倒したり従順でない態を見せながら退廷した、それでも彼等は傍聴に来てゐた一味同志と共に減刑の上未決勾留期日通算され近々出られる喜びを語り合つてゐた」(小樽新聞・大正14年4月26日)


さらに同じ日の北海タイムスは、こうした被告の姿に傍聴人が沸いている様子を描写しています。


「寺田は裁判長の席にどつかり腰かけて如何なもんだと長髪を振立て係員の椅子を二つ三つ引つ繰返して見栄を切つたが、座頭格の大鐘は始終ニヤニヤ苦笑を漏らしながら悠々と退廷した当日是の事あるを期して傍聴席は警戒の警官憲兵を始めとして大入満員の姿であつたが被告等が御愛嬌たつぷりな傍若無人の振舞に思わずどつと笑ひ崩れ好奇心を満足させて貰つて引き取つた」(北海タイムス・大正14年4月26日)


やはり世論は被告よりだったようです。


◆鎖断社のその後


「日本アナキズム運動人名事典」や新聞記事などによりますと、翌月の出所後、大鐘が旭川に残ったのに対し、寺田は小樽に移り、小樽鎖断社を立ち上げて娼妓解放運動を継続、さらに次回詳述する北海黒色青年連盟の結成に関わります。
また石井は北海道を離れて東京で活動、9月には大杉3回忌の追悼会に参加して警察に検束されたことが新聞で伝えられています。
大石については、その後の動きについて書かれたものが見当たりません。
なお、大正15年11月27日付の小樽新聞には、旭川芸娼妓相談所から香具師数名が札幌に進出して札幌支部を設立、再三に渡り車で白石遊郭に乗り込み、メガホンで自由廃業を呼びかけ、ビラを撒くなどしたという記事が載せられています。
鎖断社の名前は出ていませんが、少なくともこの頃までは活動を続けていたことは間違いないようです。
こうした旭川のアナキストの動き、昭和に入りますと、先に触れた全国組織である黒色青年連盟が北海道でも立ち上がったため、こちらが主流となります。
詳しくは次回をお待ち下さい。




画像16 大正15年11月の小樽新聞の記事





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