まずはお知らせです。
ワタクシが関わっている「旭川歴史市民劇」、8月末に本公演を予定していましたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期することになりました。
来年2021年の1〜3月に行いたいと考えていますが、まだ具体的な日程は未定です。
日時場所等決まりましたら、またお知られしたいと思います。
公演を楽しみにしていただいた方には、ご迷惑をかけますがご容赦ください。
そして引き続きご支援いただけると幸いです。
さて、明治時代、上川開発の促進を目的に、旭川、永山、神居の3つの村が設置されてから、今年で130年になります。
「旭川歴史市民劇実行委員会」では、旭川の歴史を振り返る関連行事を行っていて、その一つとして予定しているのが、明治〜昭和の歴史を振り返るパネル展「写真と古地図で見る旭川130年展」です。
公園まで時間が空くことになったこともあり、今回は一足早く、その内容をこのブログでご紹介したいと思います。
先人たちが旭川の地に残してきた足跡に思いを馳せながら見ていただければ幸いです。
パネル展は、明治・大正編と昭和編の2回に分かれています。
まず前半の今回は明治・大正の二つの時代を振り返ります。
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①明治時代・・・
ペニウンクル(川上にいる人々)と呼ばれた上川アイヌの拠点だった上川盆地。
明治の世となり、そこに和人の進出が始まります。
旭川など3つの村が設置されたのは明治23(1890)年。
遅れていた北海道内陸部の開拓を進めることが目的でした。
翌年には永山、次いで東旭川に屯田兵が入植、彼等は上川開拓の礎を築きます。
札幌と結ぶ住民待望の鉄道が開通したのは開村から8年後の明治31年です。
さらに32年には、当時札幌にあった陸軍第七師団の本拠地を旭川に移すことが決まります。
北方に控えるロシアの脅威に備えるためでした。
師団の建設には今の価値に直すと1000億円もの巨額の資金が投入され、8000人もの作業員が動員されました。
当然、食料などあらゆるものの需要が高まります。
それを見込んだ商人たちも札幌や小樽などから次々と集まり、旭川は空前の賑わいを見せました。
(パネル1−1・明治23年旭川地図)
最初は開村時の旭川の地図です。
碁盤目の区画は、当初計画された市街予定地です。
しかし実際の建物となると、まだ数えるほどしかありません。
石狩川をはじめとする河川は原始の状態のままうねるように蛇行していて、あちこちにいわゆる川の中洲があります。
そのうちの一つ、旭川に最初に定住した和人、鈴木亀吉の名前がある左側の中洲には「亀吉島」の名がつけられています。
今の番地「亀吉」の由来です。
鈴木亀吉は、本名亀蔵。
秋田県出身で、明治10年、26歳の時に現在の石狩川と忠別川の合流地点付近に店を兼ねた小屋を建て、アイヌの人たちとの交易を始めました。
(パネル1−2・曙地区 明治23〜24年)
曙地区は、文字通り旭川開拓の最初の拠点となった場所です。
まだ鉄道はなく、人々は現在の神居に当たる忠別太(ちゅうべつぶと)から、はじめは徒歩や渡し船、のちに土橋を使って忠別川を隔てた曙に渡り、集落を作りました。
屯田兵村の建設のための資材を作る木挽所なども、ここ曙に設けられました。
(パネル1−3・1条通5丁目付近 明治20年代)
今の1条通5丁目にあたる付近から曙方向を写した写真です。
左手前に立っている人の向こうに2階建の建物が見えています。
明治24年に建てられた「12号駅逓」、旅行者の宿泊や休憩などのための施設です。
田舎の風景のようにも見えますが、旭川駅の開業に伴って師団道路(師団通)がメインストリートとなる以前は、このあたりが街の中心部でした。
(パネル1−4・鷹栖橋渡橋式 明治28年)
今の旭橋の場所を含む近文原野の開拓が始まったのは明治20年代です。
当初、川を挟んだ移動には渡し船が使われていました。
ただ往来が増えるにつれ、不便さを訴える声が高まり、明治25年、石狩川に設けられていた渡船場の近くに簡易な木の橋が架けられました。
さらに3年後に本格的な橋が完成、鷹栖橋と命名されました。
これが旭橋の前身となりました。
(パネル1−5・1条通2丁目付近 明治30年代初期)
旭川市街地では、明治25年に一般住民への土地の払い下げが本格的に始まります。
これに伴い、曙に近い1〜2条通周辺には、次第に住宅や雑貨店などの商店が建ち始めます。
写真は、1条通2丁目付近から南東方向を撮影しています。
中央やや右に三角屋根のやや高い建物が見えていますが、パネル1−2で紹介した「12号駅逓」です。
(パネル1−6・開業時の旭川駅 明治31年)
当時の住民にとって、鉄道の開設は開村以来の悲願でした。
札幌も巻き込んでの粘り強い請願運動が実ったのは明治29年。
2年後には空知太(今の滝川と砂川の間)〜旭川間が開通し、札幌・小樽方面との鉄路が結ばれました。
写真は記念すべき開業日の旭川駅舎です。
当時の駅前は半ば湿地のような状態で、小さな沼や小川まであったと伝えられています。
(パネル1−7・1条通9丁目付近 明治33年頃)
旭川駅の開業以来、栄え始めた師団道路(師団通)付近の明治30年代前半の写真です。
カメラは、1条通9丁目付近から7〜8丁目方向に向けられています。
右にある多くの看板を掲げた建物は薬局です。
中央やや右にある建設中の大きな建物は丸井今井呉服金物店の倉庫です。
遠くに見える山並みは嵐山付近です。
電柱が見えますが、これは電信(電報)用の電柱です。
(パネル1−8・2条師団道路付近 明治33年頃)
右上に向かって斜めに走っているのが師団道路(師団通)、交差しているのが2条本通りです。
この時期になると、師団道路はかなり賑やかになっています。
右端の交差点に面している店は篠原菓子店、師団道路を挟んだ向かいの店は陶器などを扱っていた河合商店(左端)です。
篠原菓子店の後方に、旭川初の公立小学校、忠別小学校の白っぽい校舎が見えています。
(パネル1−9・丸井今井呉服金物店 明治35年頃)
同じく師団道路(通)が栄え始めた頃の1枚です。
1条師団通から2〜3条方向を撮影しています。
右手前、現在のフィール旭川の位置にあるのは丸井今井呉服金物店です。
明治30年に札幌の丸井今井の旭川支店である呉服店が開業、34年には金物部が併設されました。
大きな看板や提灯などが配された店舗は、ひときわ賑やかです。
この後丸井今井は、通りを挟んだ1条7丁目側に洋品雑貨(のちに百貨店化)、8丁目側に金物部の二つの店舗を持つ形態となります。
(パネル1−10・東旭川兵村の水田 明治35年頃)
明治24年、永山兵村に、翌年、東旭川兵村に、それぞれ屯田兵が入植しました。
2つの兵村では、まもなく米の栽培に取り組み、後に上川百万石と呼ばれた稲作地帯の礎を築きました。
写真に見えている人の背丈以上の木の切り株は、運搬の効率性を考え、雪が高く積もった冬に伐採が行われたための産物です。
つまり伐採された時、切り株の部分は雪の下にあり、春になり雪が解けたためその部分があらわになったという訳です。
(パネル1−11・第七師団の建設 明治30年代)
建設工事(明治32〜33年)
完成直後の第七師団(明治35年)
北鎮部隊と呼ばれた陸軍第七師団の建設工事が近文地区で始まったのは、明治32年夏のことです。
完工したのは明治35年秋、総工費は現在の価格で1000億円にものぼりました。
当時地方に置かれた師団は、それぞれの府県内に分散して配置されましたが、第七師団は部隊の大部分が旭川に配置されました。
ロシアの脅威に備えるため、北海道中央部に位置し、宗谷〜留萌方面、オホーツク海側、千島方面のいずれにも部隊を展開できる旭川に戦力の集約を図ったのです。
(パネル1−12・日露戦争の出征と凱旋)
日露戦争出征(明治37年)
日露戦争凱旋(明治39年)
日露戦争に動員された第七師団の出征と凱旋を記録した写真です。
師団道路(師団通)を行く出征部隊の先頭の馬上の人は、薩摩藩出身の大迫尚敏師団長です。
凱旋を祝うアーチが設けられたのは2条師団道路(師団通)です。
パネル1−8で紹介した篠原菓子店がアーチの左側に見えています。
当初、第七師団は北方の守りを固めるため、北海道に据え置かれましたが、旅順港攻略で第一師団など派遣部隊に死傷者が続出したため、8月になって動員命令が下りました。
乃木将軍率いる第三軍に編入された第七師団は、激しい攻防戦の上、203高地の占拠に成功、日露戦争勝利への突破口を開きました。
(パネル1−13・初代旭橋 明治38年頃)
明治30年代に入ると、師団の開設や中心部の発展で、市街地と近文地区を結んでいた鷹栖橋の架け替えの機運が高まりました。
中央部が鋼鉄製、前後が木製の近代橋が完成したのは明治37年5月のことです。
日露戦争で第七師団を率いることになる大迫尚敏師団長が旭橋と名付け、橋の正面には、彼の揮毫による額が掲げられました。
なお橋の手前に見えているのは、当時市街地と師団司令部を結んでいた馬鉄=馬車鉄道の専用橋です。
(パネル1−14・旭川駅車両工場付近 明治42年頃)
明治31年に開業した旭川駅は、その後も天塩線(明治36年)、十勝線(明治34年)、釧路線(明治40年)と各路線の整備・開設に伴い、その重要性もいっそう高まりました。
写真は様々な機能が拡張された車両工場付近(今の北彩都地区付近)の様子です。
(パネル1−15・2〜3条師団道路 明治44年)
2条通から3〜4条方向を撮影した写真です。
右端と中央やや左寄りに人型の大きな看板が写っています。
ともに薬局で、右端は山形勉強堂、奥は秋山薬局です。
看板はともに胃薬の「ヘルプ」(山形勉強堂)、胃活(秋山薬局)の広告です。
通りに目を向けますと、馬鉄=馬車鉄道と馬車が並ぶようにして走っています。
もちろんまだ舗装はされていません。
馬鉄は、上りと下りがすれ違うことができるよう、一部複線化された軌道のあたりに差しかかっています。
(パネル1−16・常盤通 明治45年頃)
現在の常盤ロータリーは、かつて切替工事前の牛朱別川が流れていた場所で、常盤橋という橋が架かっていました。
写真は、その常盤橋付近から常盤通を見ています。
中央奥に見えているのは初代旭橋です。
旭橋方向から走ってきたのは馬鉄=馬車鉄道です。
その馬鉄がカーブしているのは、常盤橋の下流に並行して架かっていた馬鉄用の専用橋に向かっているためです
旭橋も常盤橋も、ともに橋に向かって道路がかなりの傾斜で上っているのが分かります。
洪水時に橋が流されないよう、できるだけ高い位置に橋が架かるよう設計されていたことが伺えます。
②大正時代・・・
明治末から発展の速度をあげた旭川は、大正3(1914)年、北海道独自の制度である区制を施行します(北海道の都市で4番目でした)。
さらに大正11年には市政に移行し、旭川市となりました。
この後、日本社会は、大正12(1923)年の関東大震災や金融不況、世界恐慌と暗い影に覆われていきますが、樺太まで伸びた商圏を背景に、旭川は北海道の中核都市としての地位を固めてゆきます。
さらに街づくりの中心も開拓1世から2世へと次第に受け継がれ、特に芸術文化分野では活発な活動が展開されました。
(パネル2−1・旭川市全図 大正15年)
大正末年の旭川の地図です。
まだ川は原始河川の面影を残したままです。
このうち牛朱別川は昭和に入ってからの切替工事の前ですので、今よりも市の中心部よりを流れています。
一方、開校間もない師範学校や商業学校、移転したての上川神社等の表示があるのが確認できます。
画面左にある近文駅から線路が分岐して、今の春光町方面にある第七師団の練兵場まで伸びています。
これは師団建設のために設置され、その後も長く利用された支線「大町岐線」の線路です。
(パネル2−2・区制施行の祝賀 大正3年)
大正3年、旭川では地元悲願の区制の実現が実りました。
区は市に準じる北海道に限った行政単位で、札幌、函館、小樽に次ぐ4番目の区の誕生でした。
写真は、6条通9丁目にあった明治44年竣工の役場庁舎をイルミネーションやアーチ、万国旗で飾った祝賀の模様です。
この時の人口は約5万6000人。
9月13日に行われた祝賀行事では、花火大会や仮装行列、夜には提灯行列など旭川始まって以来の華やかな祝いの催しが繰り広げられました。
(パネル2−3・中島遊郭の大門 大正初期)
旭川の遊郭は、明治31年、まず初期の市街地だった曙で営業が始まり、曙遊郭と称されました。
続いて第7師団の開設に伴い、より師団に近い現在の東1〜2条2丁目付近にも遊郭の設置が計画されました。
ここは旧制上川中学の近接地でもあったため反対運動が起こり、国会でも論議される事態となりましたが、計画は実施され、明治40年に中島遊郭が開設されました。
(パネル2−4・5条師団道路 大正4年)
大正初期の冬の5条師団道路(師団通)です。
走っているのは、馬鉄=馬車鉄道。
明治39年から大正7年まで旭川駅前と近文の師団司令部を結びました。
馬鉄の軌道部分、そして店の前は除雪してありますが、その間にかなりの量の雪が積み重なっているように見えます。
今のように便利な機械がなかった時代、排雪などはほとんどできなかったはず。
車の往来もありませんので、よけた雪を積んでいたのだと思います。
この時期の他の写真を見ますと、軌道と店先の間の雪が人の背丈ほどになっているものもあります。
(パネル2−5・出水時の1条師団道路 大正4年)
大雨による川の氾濫で一帯が水浸しになっています。
師団道路1〜2条の仲通付近から駅方向を写した写真で、奥に駅舎が見えています。
画面、中央付近に見えているのは丸井今井呉服金物店の看板です。
丸井は通りの両側に店舗を持っていましたので、間を針金か何かで渡し、そこから吊り下げているようです。
河川改修が進むまで、旭川ではこうした出水被害が頻繁に起きていました。
(パネル2−6・開園間もない常磐公園 大正中期)
旭川初の都市公園、常磐公園は、大正元年に整備が始まり、大正5年に開園しました。
以来、市民の憩いの場所として愛され続けています。
開園当初は牛朱別川が切替工事前で、いわゆる川の中島にあったため、中島公園と呼ばれていました。
大正7年には、料理屋や茶店の設置許可が下り、貸しボートの営業も始まりました。
(パネル2−7・旭川駅周辺航空写真 大正8年)
大正中期の貴重な航空写真です。
中央に見えているのは大正2年竣工の2代目旭川駅舎です。
大雨の後でしょうか、その裏を流れる忠別川はかなり増水しているように見えます。
画面右下を斜めに走る1条本通沿い(8丁目)に建設途中の大きな建物は北海道銀行旭川支店です。
(パネル2−8・第一神田館と師団道路 大正9年)
第一神田館は、明治40年に4条通8丁目に開業した北海道で2番目の常設活動写真館です。
経営者は、札幌で始めた理容業で成功し、のちに旭川に本拠地を移すとともに興行の世界に進出した佐藤市太郎です。
最盛期には道内各地に10館もの活動写真館を持ち、「興行王」、「神田館の大将」と称されました。
写真は、師団道路(師団通)で行われた第七師団の観兵式を写した一枚です。
神田館5階の望楼のところまで見物客がいるのが見えます。
威容を誇った第一神田館ですが、大正14年、試写中のフィルムが発火したことが原因で火事となり、全焼してしまいます。
(パネル2−9・駅前の2大旅館 大正10年頃)
大正から戦後にかけての旭川駅前のランドマークは、狛犬のように鎮座した2つの大きな旅館でした。
宮下通7丁目にあった洋館風の三浦屋、8丁目の城郭風の宮越屋です。
宮越屋は、明治41年、釧路新聞社に就職する途中の石川啄木が旭川に一泊した際に泊まった旅館でもあります。
また三浦屋の経営者だった立野庄吉は、旭川の野球の普及に尽くした人物で、のちの大投手、スタルヒンの旭川時代の後援者として知られています。
画面中央奥にパネル2−8で紹介した第一神田館が小さく見えています。
(パネル2−10・4条師団道路組写真 大正11年)
4条通7丁目にあった二番館ビルの屋上から撮影された写真です。
画面手前に写っているのは4条本通りの交差点です。
このうち8丁目角にある黒っぽい建物は、ヤマニ食堂。
1年後にカフェーに転身し、人気店となります。
そのさらに右手の白い建物は、大正9年創業の北海ホテルです。
ヤマニとホテルの間の奥の方に、やはり白っぽい大きな建物が見えますが、明治44年に完成した役場(市役所)庁舎です。
(パネル2−11・消防望楼から見た市街地 大正末期)
3条通9丁目にあった消防の望楼から撮影した写真です。
右端の白壁の建物は、パネル2−10でも紹介した4条通8丁目の北海ホテルです。
少し分かりづらいかもしれませんが、左端の上の方に高い建物が2棟重なって写っているところがあります。
手前がパネル2−8で紹介した活動写真館の「第一神田館」(4条通8丁目)、奥が4条通7丁目にあった二番館ビル(のち旭ビルディング百貨店)です。
3〜4の仲通りも4条本通りも、多くの人が道の真ん中を歩いています。
時代を感じさせますね。
(パネル2−12・旭ビルディング百貨店 大正末期)
大正11年に4条師団道路7丁目に建設された石造り4階建てのビルです。
旭川では最も高い建物でしたが、経営者や名称が頻繁に変わったのが特徴で、一時期は長く休業状態が続き、「幽霊塔」と称されたこともありました。
写真は、大正13年、「旭ビルディング百貨店」として新装開店した時期のものです。
ここでは、旭川初の本格的な美術展が開かれるなど、文化芸術のイベントなども開かれました。
(パネル2−13・新橋建設現場 大正14年)
大正14年9月、旭川市の要請を受けた陸軍は、工兵隊の特別演習として、全国6つの師団の工兵隊などを動員し、旭橋下流の石狩川に新たな木製橋「新橋」を建設しました。
橋は9月3日からわずか15日間で完成し、18日には渡橋式が行われました。
画像は作業の様子を紹介した絵葉書セットの一部で、遠くに初代旭橋も写っています。
軍の協力により完成したこの橋も大雨による増水で度々流され、戦後、永久橋である現在の新橋が架けられました。
ということで、今回はここまで。
次回は、昭和編をお届けします。
<写真及び地図の所蔵先・出典>
(所蔵先)
*旭川市中央図書館・・・1−1〜2、1−6〜8、1−10、1−12、1−14、2−1、2−3、2−5、2−9〜10
*旭川市博物館・・・1−3〜4、1−9、1−12
*那須敦志(写真・絵葉書)・・・2−4、2−6〜8、2−11〜13
(出典)
*1−5・・・・・・北海道官設鉄道開通式記念写真帖
*1−11・・・・・旭川回顧録、上川便覧
*2−2・・・・・・旭川区制実施記念写真帖