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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

改築済んだ旧偕行社

2017-10-24 21:00:00 | 郷土史エピソード

第七師団旧旭川偕行社と言えば、現在、旭川市彫刻美術館として活用されている歴史的建造物ですが、平成24年からの大規模な改修工事がようやく終わって、今月8日にリニューアルオープンしました。
先日、訪れて見ましたが、傷みが目立っていた建物は見違えるようにきれいに整備されていました。
今回は、その様子と、旧偕行社の歴史についてご紹介したいと思います。



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改修工事が終わった彫刻美術館(旧旭川偕行社)


22日の日曜日に訪問した際の写真です。
いつもながら美しい建物です。
屋根や煙突、窓や階段の直線と、ベランダ上下の柱、そして玄関ポーチやその屋根部分のりカーブが、コントラストを作っていて、見ていて飽きることがありません。



同上


これは斜めから見たところですね。
曇り空だったことが残念。
青空でしたら、もっと建物の壁の白が引き立つのですが。



1階


こちら1階ですね。
奥に見えているのが玄関です。



2階大広間


メインの展示室である2階の大広間。
以前は細かくパーティションで区切ってありましたが、現在はこのような形で、中原悌二郎や歴代の中原賞の作品が展示されています。
以前の博物館時代から何度もこの建物には足を運んでいますが、大広間を本来の姿で見ることが出来たのは今回が初めてです。



同上


中原悌二郎賞は、旭川ゆかりの彫刻家、中原悌二郎の功績にちなんで1970(昭和45)年に創設された彫刻賞です。
受賞作の中には、ワタクシのお気に入りの作品が多数あるのですが、今回はそのうちの何点かと久しぶりの対面。
しばし至福の時を過ごしました。



彫刻1


現代作家の中でも人気の高い船越桂の作品ですね。
木に彩色してあります。



彫刻2


隣には、お父さんの船越保武の名作が。



彫刻3


保田春彦の「聚楽を囲う壁1」。
とてつもなく重いんだそうです。
彫刻の作品は、見た目よりも重いものが多くあります。
そうした点も、建物の痛みにつながっていたそうです。



彫刻4


深井隆「流れゆく思念」。



彫刻5


山本正道「秋」。



資料室


今回のリニューアルでは、旧旭川偕行社についての資料室も設けられていました。
中には、解説パネルと、このような実物資料が。
右から、「柱頭」と「棟板(札)」、そして「鬼瓦」ですね。



棟板


このうち「棟板(札)」は、建物の建築を記念して内部の高い所に取り付けられたものです。
表面には、竣工当時の初代第七師団長、大迫尚敏の名前がありました。
大迫師団長は、第七師団を率いて日露戦争に出征。
二〇三高地の攻防や、その後の奉天会戦などで指揮を執った人物です。



日露戦争に出征する大迫師団長(先頭)


こちらは旭川を出発するときの写真です。
そういえば、NHKが制作したドラマ「坂の上の雲」では、旭川出身の俳優、品川徹さんが、この大迫師団長を演じていました。

では、ここからは旭川偕行社の歴史について。



戦前の旭川偕行社(昭和4年)


偕行社(旧)は、日本陸軍の将校の親睦などを目的にした互助組織です。
組織としての偕行社は、師団司令部のある各地に将校用の社交場、集会場を建てましたが、この建物の事も偕行社と呼びました。



建設中の旭川偕行社


旭川にも、師団司令部の移駐に合わせて建設が進み、移駐の2年後の1902(明治35)年には偕行社の建物が完成しています。
ここには宿泊設備もあって、皇太子時代の大正天皇や、昭和天皇、また軍医総監だった文豪の森鴎外も師団視察の際に利用しているということです。



廃墟時代の偕行社


こちらは昭和42年に撮影された偕行社です。
まるで廃墟ですね。
終戦後の偕行社は、進駐軍に接収されたあと、さまざまな学校の仮校舎などに活用されますが、恒常的な使用はなかったため、このように荒れ果ててしまいました。
その後、当時の五十嵐市長が道に掛け合って費用を工面し、建物は全面的に補修。
1968(昭和43)年から郷土博物館としての使用が始まります。
さらに博物館の新築移転に伴い、1994(平成6)年から彫刻美術館として使われ、今に至ります。
戦前は、全国各地にあった偕行社の建物ですが、現存しているのは、旭川のほか、弘前、金沢など全部で6か所のみとか。
郷土の歴史を伝える建物をこれからも大切にしていきたいものです。




戦前の旭川偕行社


同上