明治、大正から昭和にかけ、旭川には多くの著名な文化人が訪れています。
今回は、旭川生まれの井上靖<いのうえ・やすし>なども含め、文学者を中心に、旭川とのつながりやプロフィールをまとめて紹介してみます。
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まずは詩歌の分野。この2人が旭川を訪れているのは有名ですね。
石川啄木
*石川啄木<いしかわ・たくぼく>(1886-1912)
「一握の砂」「悲しき玩具」で知られる天才歌人。明治41(1908)年に旭川を訪れ、駅前の宮越屋旅館に1泊、5首の歌を詠んだ。小樽に家族を残し、就職が決まっていた新聞社のある釧路に向かう旅の途中だった。なお啄木は、小樽日報の記者時代に、旭川の新聞社にも勤めた野口雨情<のぐち・うじょう>と同僚であったほか、知里幸恵<ちり・ゆきえ>にアイヌ神謡集の執筆を勧めた金田一京助<きんだいち・きょうすけ>とは親友の間柄だった。
*宮沢賢治<みやざわ・けんじ>(1896-1933)
独特の世界観を持つ岩手県出身の詩人、童話作家。旭川には、大正12(1923)年、樺太への旅行の途中に立ち寄り、早朝、駅前から馬車に乗って6条通13丁目の農事試験場に向かった。しかし試験場はすでに移転しており、賢治は駅に戻って昼前には稚内に向かったと見られている。旭川の滞在はわずか7時間と推定されているが、その様子は「旭川」と題された詩に残されている。
続いては、日本を代表する2人の童謡詩人。
野口雨情
*野口雨情<のぐち・うじょう>(1882-1945)
北原白秋<きたはら・はくしゅう>、西条八十<さいじょう・やそ>と並ぶ三大童謡詩人の一人。明治40(1907)年から42(1909)年にかけて北海道で新聞記者となり、旭川では42年の8月から11月まで「北海旭新聞」に勤めた。その後、東京に戻った雨情は、中山晋平<なかやま・しんぺい>らと組んで数々の名作を発表した。童謡詩人としての名声を高めた雨情が再び旭川を訪れたのは、昭和2(1927)年。この年、開かれた大雪山・層雲峡のPRイベント「大雪山夏期大学」の講師としての〝凱旋〟だった。
*北原白秋<きたはら・はくしゅう>(1885-1942)
熊本県生まれの近代日本を代表する詩人。詩、童謡のほか、短歌でも活躍した。詩人仲間との樺太旅行の帰り、弟子に当たる歌人、酒井広治<さかい・ひろじ>のいる旭川に立ち寄る。酒井は札幌で入院中だったため、斎藤瀏や小林昴<こばやし・すばる>(旭川新聞記者で歌人)が酒井の指示に従って歓迎歌会を開催し、接待に当たった。
続いては新旧7人の短歌関係者。
旭川での牧水夫妻と斎藤瀏一家
*若山牧水<わかやま・ぼくすい>(1885-1928)
旅と酒を愛した抒情歌人。旭川には、大正15(1926)年、軍人歌人として知られ、当時、第七師団参謀長を務めていた斎藤瀏<さいとう・りゅう>を頼って訪問、斎藤宅に4泊した。旭川では、この来訪がきっかけとなっり、酒井広治や小熊秀雄を中心に「旭川歌話会」が結成され、後の歌壇の隆盛につながった。牧水は友人として啄木の臨終に立ち会ったほか、前述の北原白秋<きたはら・はくしゅう>とは早稲田大学の同期で、親交が厚かった。
*斉藤 史<さいとう・ふみ>(1909-2002)
日本を代表する女流歌人。父、瀏<りゅう>の異動に伴い幼少期と思春期の2回に渡り旭川で暮らす。短歌を始めたのは2度目の旭川滞在時、来旭した若山牧水が勧めたことがきっかけだった。2・26事件で決起し、処刑された青年将校の栗原安秀<くりはら・やすひで>、坂井直<さかい・なおし>とは、父親がいずれも第七師団勤務の将校だったことから、いずれも北鎮小学校に通った幼なじみ。瀏も事件に連座し禁固刑を受けたことから、事件は生涯に渡り、史の創作上の重要テーマとなった。
*斉藤 瀏<さいとう・りゅう>(1879-1953)
日露戦争に従軍していた際、歌人、佐々木信綱<ささき・のぶつな>に手紙を送って門下に入る。陸軍将校として各地で勤務するかたわら作歌を続けた。二度目の旭川勤務の際、参謀長として、師団長の渡辺錠太郎<わたなべ・じょうたろう>に仕えたが、その後の2・26事件では、教育総監になっていた渡辺が青年将校によって殺害されたのに対し、瀏は、反乱軍を支援したとして禁固5年の刑を受けた。
与謝野晶子
*与謝野晶子<よさの・あきこ>(1878-1935)
短歌のほか、詩、小説、評論など多方面で活躍。昭和6(1931)年5月28日、夫、鉄幹<てっかん>とともに来旭。北都女学校で講演したほか、北海ホテルで開かれた文芸座談会に出席した。
*柳原白蓮<やなぎわら・びゃくれん>(1885-1967)
大正から昭和にかけて活躍した歌人。福岡の炭鉱王に嫁いだが、社会運動家の20代の青年と駆け落ちし、「白蓮事件」と称された。この後に生まれた長男が太平洋戦争で戦死したことから、戦後は平和運動に力を注ぎ、各地で公演活動を行った。昭和28(1953)年9月、旭川にも「国際慈母の会」会長として訪れ、講演した。
*斉藤茂吉<さいとう・もきち>(1882-1953)
大正から昭和にかけて、アララギ派の中心人物として活躍した歌人。旭川を訪れたのは、昭和7(1932)年8月。実弟の高橋四郎兵衛とともに、実兄で、当時、中川村(今の中川町)で医師をしていた守谷富太郎を訪ねた。駅前の旅館、山口屋に泊ったあと中川に向かい、兄宅で5日間過ごした後、樺太へ。帰路、また旭川に寄り、層雲峡などを訪れた。
*寺山修司<てらやま・しゅうじ>(1935-1983)
歌人として注目を集めた後、詩人、劇作家、演出家などとしても活躍、マルチな才能を発揮した。旭川には、昭和43(1968)年、雑誌「婦人公論」が企画した講演会のため、評論家の江藤淳<えとう・じゅん>、石垣綾子<いしがき・あやこ>とともに訪れたほか、昭和51(1976)年にも、西武旭川店での自身の企画展「鏡の国のヨーロッパ展」の開催に合わせて来旭した。
次は俳人。子規門下の2人がともに旭川に来ています。
河東碧梧桐
*河東碧梧桐<かわひがし・へきごとう>(1873-1937)
正岡子規<まさおか・しき>に師事した松山出身の俳人。旭川には、明治40(1907)年4月、全国俳句行脚の途中、立ち寄っている。今の市中心部のほか、屯田兵として入植していた同郷の友人に招かれ、東旭川を訪ねている。こうした様子は、当時の旭川の情景とともに、著書「三千里」に詳しく記されている。
*高浜虚子<たかはま・きょし>(1874-1959)
碧梧桐とともに、子規門下の双璧と呼ばれた俳人。昭和8年8月、「ホトトギス北日本俳句大会」出席のため来旭。大会の前日に旭川に入り、近文のアイヌコタンを訪問。北海ホテルに2泊し、大会終了後は、参加者とともに層雲峡を吟行した。
続いては小説家です。こちらもビッグネームがずらりと並んでいます。
徳富蘆花
*徳富蘆花<とくとみ・ろか>(1868-1927)
熊本県出身。明治36(1903)年、第七師団の見習士官だった小笠原善平<おがさわら・ぜんぺい>の日記をもとに書かれた小説「寄生木<やどりぎ>」を発表してベストセラーとなる。その前年には、取材のため旭川を訪れている。明治43(1910)年、家族とともに再び来旭。師団を見下ろす春光台で善平をしのぶ句を詠んだ。
*井上 靖<いのうえ・やすし>(1907-1991)
日本ペンクラブ会長などを務めた国民的作家。明治40(1907)年5月、軍医だった父親の勤務地、旭川で生まれ、父の従軍に伴って、翌年、静岡県の母の郷里に移転するまで過ごした。戦後は、3回にわたり講演のため来旭。さらに平成2(1990)年には、旭川市開基100年記念式典と、緑橋通に設けられた詩碑の除幕式に出席した。平成24(2012)年には、東京世田谷にあった井上邸の書斎と応接室が、旭川の井上靖記念館に移設され、公開されている。
*伊藤 整<いとう・せい>(1905-1969)
明治38(1905)年1月、現在の松前町で生まれる。下級軍人だった父が陸軍第七師団から官舎を与えられたことから、出生後まもなく旭川に転居。翌年1月、父親の転職により余市町に転出するまで過ごした。旧制小樽中学から、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に進む。小樽時代は詩、上京後は小説、文学評論で優れた業績を残す。昭和13(1938)年7月、かつて過ごした旭川を訪問、地元の詩人、鈴木政輝<すずき・まさてる>らの接待を受けた。
森鴎外
*森 鴎外<もり・おうがい>(1862-1922)
文学活動のほか、陸軍軍医としてトップの軍医総監を務めたことでも知られる。大正3(1914)年5月11日に旭川を訪問。将校クラブである偕行社<かいこうしゃ>(現旭川市彫刻美術館)に宿を取り、3日間にわたり、歩兵二十八連隊、騎兵七連隊、衛戍<えいじゅ>病院、上水道など第七師団の各施設を視察した。
芥川龍之介
*芥川龍之介<あくたがわ・りゅうのすけ>(1892-1927)
特に短編小説に真骨頂を発揮した。昭和2(1927)年5月、出版社の改造社が企画・主催した北海道での文芸講演の一環で、作家仲間の里見弴<さとみ・とん>とともに来旭した。東京の自宅で服薬自殺したのは、その2か月後だった。
*里見 弴<さとみ・とん>(1888-1983)
兄である有島武郎<ありしま・たけお>の友人だった志賀直哉<しが・なおや>に強い影響を受け、同人誌「白樺」に参加した。昭和2(1927)年5月、芥川とともに文芸講演のため来旭。芥川はエッセーの中で、旭川で里見がオムレツを食べ、「なんとうまいものだ」と感心したと書いている。
有島武郎
*有島武郎<ありしま・たけお>(1878-1923)
東京生まれだが、農学者を志して、札幌農学校に学んだ。アメリカ留学から帰国後、志賀直哉、武者小路実篤<むしゃのこうじ・さねあつ>らと同人詩「白樺」を始め、本格的な作家活動に入る。大学予科の英語教師として札幌で勤務していた明治41(1908)年7月6日、東京からやって来た実篤とともに旭川に小旅行し、1泊した。
武者小路実篤
*武者小路実篤<むしゃのこうじ・さねあつ>(1885-1976)
志賀直哉と並ぶ白樺派の理論的支柱。理想郷「新しい村」の建設でも知られる。明治41(1907)年7月、当時札幌に在住していた友人の有島武郎とともに来旭した。
*岩野泡鳴<いわの・ほうめい>(1873-1920)
詩人として創作活動を始め、その後小説家に転じた。奇抜な言動でも知られ、明治42(1909)年には、カニの缶詰工場を作ると言って北海道、樺太に渡るも失敗。この間、10月に来旭、北海旭新聞に勤めていた旧知の野口雨情と会っている。
最後は、その他の文学者3人です。
大町桂月
*大町桂月<おおまち・けいげつ>(1869-1925)
美文調の紀行文で人気を集めた文筆家。大正10(1921)年8月、旭川を発って上川に向かい、層雲峡から入山して大雪山系の山々を4日間かけて縦走した。その後発表した紀行文のなかで、「富士山に登って、山嶽の高さを語れ。大雪山に登って、山嶽の大(ひろ)さを語れ」と記し、大雪山の名が全国に知られる契機となった。
*金田一京助<きんだいち・きょうすけ>(1882-1971)
アイヌの言語・文化の研究で知られる言語学者。大正7(1918)年8月、研究の一環として近文の金成<かんなり>マツ宅を訪ね、知里幸恵<ちり・ゆきえ>と知り合う。その後も交流を続け、大正11(1922)年、上京した幸恵を自宅に迎え、「アイヌ神謡集」の編纂をサポートするも、幸恵は校正の終了後、持病の心臓病が悪化し、19歳の生涯を閉じる。石川啄木は、旧制盛岡中学時代の後輩で親友でもあった。
*米川正夫<よねかわ・まさお>(1891-1965)
ドストエフスキーの翻訳などで知られるロシア文学者。大正元(1912)年、ロシア語教官として第七師団に赴任、大正5(1916)年に職を辞して上京するまで旭川で過ごす。
こうしてみると、森鴎外、徳富蘆花、斎藤瀏など、旭川が陸軍第七師団の本拠地だったことが、来旭につながったケースが多いことが分かります。
また戦前の旭川は、石勝線などがまだなかったため、鉄道で道内(樺太も)を旅行する場合は、ほぼ必ず経由しなければならない場所でした。啄木や賢治はそうした関係で旭川に来ています。
いずれにしろこれだけ多くの文化人が立ち寄っている都市はそう多くはないはずです。旭川人としては、ちょっと自慢したくなるような歴史エピソードですね。