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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

大正の「異種格闘技戦」

2016-05-18 19:17:45 | 郷土史エピソード


 プロが活躍する格闘技と言いますと、大相撲にボクシング、プロレスといったところになりますか。
 近年は、総合格闘技と称して様々な団体が活動しているようですが、一時代前までは「総合」という概念はなく、アントニオ猪木対モハメド・アリ戦など、それぞれの競技の人気選手がプライドをかけて戦う「異種格闘技戦」なる興業に世の中が沸いたものです。
 今回は、その「異種格闘技戦」が、なんと大正時代の旭川で行われていたというお話です。


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(写真①)


 坊主頭で腕組みをする若者たちの集合写真。よく見ると、彼らが着ているのは柔道着です。
 これ、大正6年3月に撮影された旧制旭川中学、現在の旭川東高校の柔道部の記念写真なんです。

 この写真が撮られた約半年前、旭川中学、略して旭中(きょくちゅう)柔道部は、思いがけないところから挑戦状を突きつけられます。
 相手は、ロシア人のイワノフ、インド人のラッシマンという2人の外国人ボクサー。実は、この2人を引き連れて道内を巡業していた「東京弘道館」と称する格闘技団体が、当時、強豪として知られた旭中柔道部を巻き込むことで、興業を盛り上げようと画策したんです。
 今なら到底実現不可能なお話ですが、それは万事おおらかだった大正時代。日本男児たるもの、敵に背中は見せられないと、なんと学校側は挑戦に応じてしまいます。



(写真②)旭川中学の正門(昭和3年)


 話は急展開に進み、〝決戦〟の舞台は、このブログでも何度か紹介している「佐々木座」に決まりました。1条通6丁目にあった当時の旭川一の劇場ですね。
 突然の挑戦状を受けて立つという男気を見せた旭中柔道部を応援しようと、当日は大勢の観衆が詰めかけました。
 おそらく入場料を払っての観戦でしょうから、このあたり、実質は興行主であったに違いない「東京弘道館」側の目論見がうまく当たったと言わざるを得ません。



写真③)佐々木座(明治35年)


 で、肝心の試合ですが、旭中からは柔道部内の紅白戦でともに大将をつとめる実力者の高橋永と永井義一が登場、それぞれイワノフ、ラッシマンと対戦したそうです(すみません、名前の読みはわかりません)。

 ところが、対戦場は、劇場の舞台に畳を敷いただけで、ロープなどはなし。
 昭和58年に北海タイムス社が刊行した「シマレガンバレ キャンパス人脈 旧制旭川中学編」の記述によりますと、「つかまえてしまえばこちらのもの」と踏んでいた2人でしたが、相手を捕まえようとしてもフットワークで逃げられ、ようやく体をつかんでも上半身裸のため思うように技がかけられません。
 高橋は辛うじて時間切れ引き分けに持ち込んだものの、永井はかなりのパンチを浴びてしまったそうです(判定なら負けというところでしょうか)。
 柔道家には不利なルールだったようですね。

 そういえば、旭川は昔から格闘技が盛んな地域として知られていますよね。
 中でもレスリングと柔道は旭川ゆかりの名選手が多く、レスリングではメキシコ五輪の中田茂男選手ら3人、柔道でもアテネと北京を連覇した上野雅恵選手ら3人のオリンピックメダリストがいます。

 大正時代に行われていた「異種格闘技戦」。旭川にふさわしい歴史エピソードといえそうです。