夢のあと

釣りには夢があります。夢を釣っていると言っても過言ではありません。よって、ここに掲載する総ては僕の夢のあとです。

熊谷桜提 3月28日現在

2013年03月28日 16時19分14秒 | その他
埼玉の熊谷桜堤に行って来ました。
当堤では熊谷地方気象台から3月26日に満開宣言が出ました。これは、平年(4月5日)より10日早く、昨年(4月10日)より15日早い満開です。
満開とは、標本木で、80%以上のつぼみが開いた状態のとき
桜堤全体的には、概ね七分咲き程度です。今週末にかけて、見ごろとなるでしょう。

 との情報を得たので行ってみました。完全満開の方がいいに決まってますが、そうなると人ばかりで桜なんてどうでも良くなってしまいますから。僕の中では、桜っていうのはガヤガヤした中で見たい花ではありません。こんなチャンスはあまりないので行ってみました。
 案の定、人の出がイマイチでしっとりとした風情を思いっきり味わうことができ満足・満足でした。出店が沢山あって、また訳が解らないのですが演歌や懐メロなどを大音量で流していて、これだけは風情をぶち壊してくれていましたが、耳をふさいで出店がない方向に歩いていけば、僕のように静かに桜を感じたい人にはとてもいい場所でした。

 桜、ソメイヨシノは江戸末期から明治期に、染井(現在の豊島区駒込)の植木屋さんがオオシマザクラとエドヒガンというそれまであった桜の種類を交配して作った交配種と言われています。この交配種を作った染井の植木屋さんは「吉野桜」の名称で売り出していたため(奈良吉野山のヤマザクラも「吉野桜」と呼ばれていたので)、混同を避けるため「染井」の文字を頭に付けて混乱をなくすようにしたそうです。
 ソメイヨシノは野性のさくらと異なり、種で増えることができません。このため、オオシマザクラを植えて(もしくはあったもの)、それに接ぎ木(つぎき)によって殖やしています。ですから、出所と言えば染井の植木屋さんが作った原木が接ぎ木の連続で全国に広まった物らしいです。よって全国のソメイヨシノは皆同じ性質を持つため、今では花前線の測定基準にもなり、私たちに春の季節感を与えてくれます。
 果たしてこの植木屋さんが、同時、自分が作った桜が今日のようになると思ったかどうかは知る由もありませんが、縦長の日本ですからこういうものから四季を感じる日本人に日本人らしさを感じるのは僕だけではないでしょう。
 和を大切にすることが少なくなった現代の日本人ですが、和の代表格である桜だけは大人気です。桜だけでなく有形・無形にかかわらず和を大切にする心を持ちたいですね!

天空テンカラ溪愚Specialという竿

2013年03月26日 13時26分17秒 | 渓流釣り
先日お亡くなりになった堀江溪愚氏が開発し、自身も大変気に入っていたテンカラ竿『天空テンカラ溪愚Special』。僕が持っているのは『39Pro』 と『32Pro』。こげ茶色のこの竿はこの他に黒いバージョンもあって、そちらはイワナ用だとか。道具にあまり頓着しない僕なので間違っているかもしれません。ではなぜ僕の手にこの竿があるのか?そもそもこの竿との出会いは・・・
 あるとき堀江氏が我が家を訪れ、いつも通りに楽しい会話を交わしていました。で、突然彼は『最近さぁ、40オーバーのイワナとか釣っても誰も無感動なんだよ。雑誌等には大きな魚が沢山出てるからネ。でも先生もご存知の通りテンカラで大物を釣るのは大変なんですよ。で、テンカラの可能性を求めて何か新たなジャンルを模索中なのですが、何か面白い案はありませんかね?』と話を切り出しました。勿論テンカラ界で頂点に君臨していた彼ですから僕が考えるような事はみんな分かっているはずです。でも、そのときの彼の目が真剣だったので僕も真剣に応えなくちゃと。
 しばらく考えて提案したのが海でのテンカラ。どうして僕がこれを提案したかといいますと、この頃の僕は大物釣りでカジキを狙って海外に釣りに行っていました。僕のカジキの釣り方は一旦海に出たら何日も陸に上がりません。誰も釣らないような沖を釣るので、いちいち陸に帰って来ていたら釣る時間が少なくなってしまうからです。夜は船を近くのリーフに留めてまた朝を待ちます。夜の間も暇なので船から釣りをしています。要は24時間釣り三昧なのです。あるときいつも通りに夜に釣り遊んでいてあることに気が付きました。釣っていると毎回船の灯りで海の小さな虫が集まり、それに小魚が集まってライズしているのです。これを見た僕はフライ・フィッシングで釣ってみようか?と思いました。で、帰国して色々と考えて・・・日本人の僕としてはやはり“フライ・フィッシングではなくてんからで”と考えるようになりました。例え魚が捕れなくったってカジキ釣りの余興ですから。荷物も少ないし。。。
 そしてあるときてんから竿を荷物に忍ばせ、夜に実行しました。昼間のうちにクルーに『今夜は面白い釣りを見せるから。ジャパニーズスタイルのフライ・フィッシングだ。』と話しておきました。そして夜になって道具を出していたらクルーが寄って来てまじまじと見ています。最初の質問は『どこにリールを付けるのか?』でした。海外の釣り具屋でリールが付いていない竿は見たことがありません。釣りはリールを使うものでそれ以外は考えられないことのようです。で、リールは使わないことを伝えると『大きいのが掛かったらどうするんだ?』って間髪を入れずに聞かれたので『切られるんだ』と応えたら『侍』と。分かってるじゃんと思いながら早速始めました。すぐにサヨリが釣れて感触としてはすこぶる良好。しかし、何匹か釣ったら水面をバシャバシャやるのでローニンアジ系の魚が寄ってしまって取り込むまでにそいつらが食ってきてしまいます。てんから竿で1mを越すような魚が掛かったらひとたまりもありません、あっと言う間に切られてしまいます。最初はハリスはいつも通り1.5号のナイロンだったのですが、あまりに切れるので2号にしました。でも結論はあまり変わりませんでした。それを見ていたクルーも面白く思えたのか『やらせろ』ってことで振らせてみました。クルーたちは釣りのエキスパートですから、指導なんかしなくても5分もすれば竿の特性をつかんで振れるようになってしまいます。そして彼らも掛けては切られを繰り返し、でも時々上手く行けば捕れるという魚に対して興奮気味。思い切り柔なタックルでの釣りを楽しみました。そしてハリスが細過ぎるとの事でいきなりナイロンの10号を付けて釣り始めました。3号とか4号とかの中途半端な糸が船になかったので仕方ありません。そしてあっという間に折れました。当たり前です。でもカジキ釣りの余興でしたからとても楽しかったです。クルーたちも大はしゃぎで楽しそうでした。日本ではこの釣り方を『てんから』って言うことを伝えると『面白い』って。言葉の響きでしょうかね?いずれにしても大ウケでした。
 そんな経験があったので堀江氏に『海でのテンカラってどうでしょう?海でフライ・フィッシングをやる人は居ますがテンカラをやった人はかつていないと思います。』と答えると『海かぁ・・・釣れるかね?』って。で、上記の話をすると『やってみたいなぁ』って事になり、一度試しに行ってみる事になりました。
 とは言うものの、僕がやったのは誰も行かないような秘境中の秘境みたいな場所です。果たして日本の海でも通用するのか?不安になって来ました。折角行くのですから絶対に釣ってもらいたいし。。そこで大物釣りで各地を歩いていた当時の僕は様々な所の友達に訳を話し『小魚が入ったら連絡を下さい』と連絡しまくりました。そしてあるとき、八丈島の友から『ショゴが接岸した』との連絡がありました。ショゴとは八丈島の方言でカンパチの赤ちゃんの事です。大きな群れで入って来て漁港内にまで入り込みます。漁港内なら足場も良いし。早速堀江氏に電話してみました。ご存知の通りこの手の魚は入ったと言われてもすぐに居なくなってしまいます。長々と待ってはいられません。その週の土日の一泊でどうでしょう?と聞いたら忙しい日々を送っていた彼ですが『行きます』と一つ返事でした。
 当日は山梨からE氏も参加しました。現地の友達も来て案内してくれました。現場に到着した堀江氏は早速仕掛けをセットして釣りを開始しました。莫大な量の毛鉤を持ち込んでいました。何せまだ誰もやったことがない事ですから準備万端に持ち込んだようです。毛鉤を次々と変えて、ショゴの群れが回って来ると打ち込みます。充分にテンカラで届く距離まで寄って来るのを待って毛鉤を射込みます。間もなく魚を掛けたのですが、あっという間に切られました。やはり海の魚は強いです。ご存知の方も多いと思いますが、海の魚は同じサイズだったら概ね2倍くらいの力を持っています。その強さには彼もビックリ。脇で見せてもらっていたのですがあまりに切られるので苦笑いの連続。でも、それは見ているだけでも楽しい強烈な攻防でした。まさに掛ける度に竿が折れんばかりです。そしてまた切られて。捕ってもらいたいので『ハリスは何号を使っていますか?』って聞いたら『』フロロの4号です。』って。こりゃーもうMAXです。彼の竿さばきをもってしても限界に見えてましたから。しかし彼は今度はフロロの5号に。『堀江さん、それはもう折れますよ。』って忠告したら『竿のテストも兼ねてるので折れたら嬉しいです。竿のテストって折って何ぼですから』と。そしてショゴの群れが入ってきて彼が竿を振って理想的な位置に着水。そして彼が合わせをくれた瞬間に群れの中の一匹がギラギラって、その後彼の竿は一気に限界までしなりました。両手で竿を支える堀江氏。まるで大根を抜くかのような体勢で対応しています。竿が折れそうで危険を感じた僕は少々離れて見ていました。それでも竿がミシミシ音を立てているのが聞こえて来ました。そして、大格闘の末、ついに彼はショゴと言われるカンパチをGetしました。大きさにして40cmほどのカンパチ。カンパチにしては小物ですが、これをテンカラで捕ったというのは凄いことです。『いやぁ、強いねぇ。どうなるかと思っちゃいましたョ』って言いながらニコニコしている彼、今でも忘れられません。その後の彼はまさに水を得た魚状態。夜中のギンガメアジ以外のそこにいる魚の全魚種(ダツ、ヤガラ、ゴマサバ、ムロアジ等々)を釣ってしまいました。これには僕も同行したE氏も脱帽でした。流石にこの世界の頂点に立つ人です。一匹釣ったら後はガンガン釣ってしまいました。僕にとっても素晴らしいテクニックを見せてもらい、改めて彼の凄さ、そしててんからという釣りの可能性を感じました。そしてもう一つビックリしたのはテンカラ竿の強さです。僕は上記(船からのてんから)の経験からてんから竿ってもっと弱い物だと思っていました。で、『凄い竿ですね』って言ったらニコニコしながら『そのうち出ますから。待っててください』って。頼もしい竿です。出たらすぐに買おうと思いました。
 それからしばらくしたある日、彼から長尺の届け物が。そしてそこには『八丈でテストした竿です。ありがとうございました。お陰様でとても良い竿に仕上がりました。よかったら使ってください。』ってメモ書きが。
 こうして手元に届いた二本のテンカラ竿。開発の状況を知っているが故、その強さには絶対の信頼を置いています。ですからその後に発売された竿には目が行かず、僕はずっとこの竿を好んで使っていました。強いので壊れることもなく今でも現役のバリバリです。渓流で1mを超えるような魚は居ないわけではありませんが、まず掛からないので(堀江氏ほどの竿さばきは出来ないにしても)使っていて安心していられる竿です。しかし、もし折ってしまったら思い出だけになってしまいます。残念ですがこの二本は彼の思い出と共に封印することにしました。
 その後やはり彼はCustomを完成させたのですが、氏はやはりSpecialを好み、ここになって新たなテンカラ竿『天空テンカラ溪愚Special SE』を開発していました。『SE』とは『Second Edition』つまり『天空テンカラ溪愚Special』の第二段ということ。普通、竿の開発は徐々に進化していくのですが、彼はここでCustomを見切り、彼が好きだったその前のバージョンをより進化させようと考えたのです。彼は自分の病のことを知っていたのでこの竿の開発が最後になることを知っていたからです。ですから、その熱の入れようは大変な物でした。自分はもとより色々な人に振ってもらいその使用感を聞き・・・僕にも『使ってインプレを。』って。しかも注文があって素人のように雑に使ってくれと。彼が言うには『ベテランだけに特化した竿は簡単に出来る。ベテランはそれなりにどんな竿でも使いこなしてしまう。しかし発売したらどんな人がその竿を使うかは判らない。素人からベテランまでが使える竿となると難しいのです。だから、素人みたいに魚が掛かったら思いっきり引っ張り上げたりしてみて』と。なるほど・・・。ってことでいろいろとやってみました。少々重いのですが(僕が一番テストしたのは3.9m。理由は普段使っている長さだから。)、やはり強い竿で僕的にはとても好印象な竿でした。勿論堀江氏も何度も振って感触を見ていました。そして僕らのような沢山の素人にも振ってもらって、沢山の魚を掛けてもらって。。。振った感触、釣った時の感じを聞いて。。。つまりは堀江氏がみんなの意見まで取り入れて作り上げたプロトタイプでした。昨年末(2012年12月9日)に厳寒の奥多摩で、病で疲れる体を酷使しながら最終テストを終え、あとはカラーリングの変更だけ(最終テストバージョンはピンクでしたので堀江氏は気に入らなかった)して発売するだけの段階までにもって行った堀江さん。ご苦労様でした。
 でも果たしてSUZUMIさんは彼の遺作とも言えるこの竿を販売してくれるのでしょうか? この竿の開発に携わったテンカラ師および私的ではありますが、是非発売していただきたいと思います。彼が望んでいた『天空テンカラ溪愚Special SE』として。

てんからの原点

2013年03月25日 17時08分09秒 | 渓流釣り
 てんからをやる人ならその発展に於いて職漁師は外せない存在である事は理解できると思います。それは僕も判っているのですが、その人たちがどんな釣りをし、どんな生活をしていたかはまったく霧の中でよく判っておらず、想像の域を出ませんでした。
 そんな中、こんな本が発売されました。『職漁師伝』。各地に実在した伝説の人たちを調べ上げた一冊です。
 この本の著者である戸門秀雄氏は僕の餌釣りの師匠とでも言える存在で、長いお付き合いを頂いております。この本を出版するにあたって何度も現地に足を運び、それはもう大変な作業だったことと思います。
  本日発売なのでまだ読んでいませんが、昨日著者本人からプレゼントされました。ざっと見ただけですが、昔の職漁師たちの生活や釣具などが紹介されています。伝承毛鉤の写真や釣具なども紹介されています。人柄か良く、山村にまで人脈が多い戸門氏だからこそ書けた本だということは確かです。
 てんからがテンカラ、そしてTENKARAと進化している中で、てんからとしての原点を垣間見ることが出来る貴重な本だと思います。

 ここに登場する人たちはプロですから沢山釣る事に特化し、試行錯誤を繰り返してここに書かれたような仕様で釣っていたものと思われます。そこには楽しむという要素は一つもありません。僕は楽しむことを主眼に釣っていますので、沢山釣ってもどうしようもありません。しかし、現在主流のテンカラやTENKARAだけではなくこういうてんからが総てのベースになっていると思えますし、個人的に僕が目指すてんからもこういう時代のてんからがいいなぁ・・と思っています。

夢が叶った瞬間

2013年03月22日 17時20分49秒 | タナゴ釣り
 当初は同行するROSSI 46さんの希望で今シーズン最後のヒラメ釣りに行く予定だったのですが、折からの強風のため、もし出船できない場合の逃げとしてタナゴ釣りをチョイスしておきました。両方の用意を済ませておいたのですが、船頭さんから『無理』との電話があってヒラメは断念することとなりました。
 で、今回はタナゴ釣りです。かなりの間行っていなかった霞ヶ浦です。ROSSI 46さんはタナゴ釣りは初めてです。僕の家からROSSI 46さんを拾って霞ヶ浦に行くとかなりの遠回りになる事を気遣って、彼の方から我が家に来てくれるとのこと。早朝に来てくれる事になったのですが、風はどんどんとその強さを増し、家の中でも外のピューピューの音が聞こえて来ます。待ち合わせの時間が近付いたので、僕も駐車場に行ってヒラメ釣りの道具を下ろしていました。その時は立っているのが大変なくらいの風になっていました。彼はバイクで来るので、僕の気持ちの半分くらい来ないのではないか?と思い始めた頃、爆音と共に彼のバイクが。
 凄い風に二人して苦笑でしたが、本当によくバイクで来られたものです。『恐怖との戦いでした。まさに直線ドリフトで走って来ました。』とは彼の弁。
 こんな最悪の条件にもかかわらずにここまで頑張って来てもらったのですから、こちらとしても気合を入れなければなりません。いつも通りに車を走らせながら今日の釣りを組み立てていました。まずは風が避けられる所というのが今日の第一条件です。今日は彼のタナゴ釣りデビューなので、こんな最悪の状況下でも僕の責任下で気分良く釣ってもらう必要があるのです。釣りは最初が肝心で、最初に酷い経験をしてしまうとその釣りには二度と行かなくなってしまうのが常です。で、風が避けられそうな場所をいくつか思い起こし、そこを順番に攻めて行けば良いのですが、初心者の場合はそれに加えて目指す釣りに行き着くまでの状況を考慮する必要があります。それを考えながら今日の釣り場を構築しながら霞ヶ浦に向かいました。
 最初に竿を出したのは土手で風がさえぎられる場所です。昨年まではかなり釣れていたと聞いていたのですが魚信がありません。少々のフナが釣れて、しかも徐々にサイズアップしてます。少々のフナでも『楽しいなぁ』を繰り返してくれるROSSI 46さん。普段彼がやっている渓流釣りやヒラメ釣りでは使わないウキを眺めているのが楽しいとか。彼が幼少の頃にお父様に連れて行ってもらったウキ釣りを懐かしんでいるように思えました。
 ここではフナしか釣れないので場所を移動します。この辺で一匹くらい釣っておいてもらわないと最終的に狙っている難しい場所ではお手上げになってしまいます。少々風は当たるのですが、ここのポイントより確立が高い場所に移動しました。タナゴ釣りをしていて思うのですが、タイリクバラタナゴ以外は風を背に受けるより正面に受ける場所の方が釣れる気がしています。枯れた葦が集まっていてその隙間に仕掛けを入れて釣るのですが、風があるのでしんどいです。そして再びフナが釣れて。。。フナでも結構楽しんでくれてます。そして、魚信に乗せた彼の手に少々赤みを持った魚が飛び込みました。・・・ヤリタナゴだ!『これがヤリタナゴというのですか。』としみじみと見入る彼。生涯初のヤリタナゴです。でも僕が想像していたほどの色はなく、水温がまだ上がってないことを理解しました。低水温下でのタナゴ釣りはタナゴ達がまとまっている場合が多いです。ですから、ここでは彼に少々粘ってもらったのですが、その後もフナばかり。念のため、もう一ヶ所似たようなヤリタナゴの場所へ移動しました。ここでもフナを連発する彼。そのうち釣り師が一人話しかけてきました。なんと自転車タナゴ君です。しばらく見ないうちに大きくなって、最初は彼だと判りませんでした。最近の霞ヶ浦の状況やお師匠さんの話をしばらくしていたのですが、その間もROSSI 46さんはフナを連発。そして再び場所を移動することにしました。これで最終的に目指す釣り場に行くにはまだ少々早すぎます。これで行ったら悔しい思いをするだけなのは判っています。ですからその場所に行くまでの間にどこかもう少し練習できる所がないか考えたのですが、僕の知る限りではないように思えました。彼がまだブルーギルを釣ったことがないと言うのでドックに立ち寄ってみました。上手くいけばヤリタナゴをはじめタイリクバラタナゴや他のタナゴが釣れる可能性があるからです。ドックで釣り出した彼はすぐに掛けました。しかしタナゴの仕掛けでは少々きついサイズです。切られてしまいました。多分ブルーギルです。前に釣っていた人が沢山のブルーギルを捨ててありましたから。そして僕がタナゴのヒラ打ちを発見し、少々頑張ったのですが駄目でした。ドックで遊んでいるうちにちょっと考えて、最終的な釣り場で釣る前にもう一ヶ所ヤリタナゴが釣れる場所を思い出しました。同じ川なのですが、最終的な釣り場の上流に位置する釣り場です。
 早速行って釣り出しました。今日は水が澄んでいてとても釣り辛い状況です。しかし、この澄みの状況は最終的釣り場の練習にはばっちりでした。タナゴ釣りをする皆様であれば澄みの状況下でのタナゴ釣りはかなり難しい事はお分かりになると思います。しかし、彼は渓流釣りで鍛えた木化け石化けを駆使して魚に警戒心を与えないようにしながらとうとうヤリタナゴを釣り上げました。メスでしたが立派です。しかも、この難しい場所で5匹も。これなら大丈夫だと踏んだ僕は最終的釣り場に向かいました。底が丸見えの場所なのですが、ここは大きなヤリタナゴが沢山居ます。過去に華々しい実績を持った場所です。場所を前にして彼はすぐにヤリタナゴが群れているのを見つけました。中には10cmオーバーのヤリタナゴが!とても釣り辛い場所なのですが彼の今までの経験を総動員して責めます。最初は彼の流す餌には見向きもしなかった彼らですが、だんだんと興味を示し出しました。そして、餌がその群れを通過している途中で彼はいきなり誘いを掛けました。いままでポーカーフェイスを決めてきたヤリタナゴですが、これには溜まらずに群れの二匹が取り合うように餌に突進。その瞬間彼の手首が返って・・・竿がいい感じにしなって良型のヤリタナゴが彼の手に飛び込みました。明らかに10cmを超えるヤリタナゴです。そして彼はニコニコしながら『これ何ですか?』って。ヤリタナゴのこんなに大きいのを見たことがなかった彼ですから他の魚だと思ったようです。興奮した僕はすぐに車までカメラを取りに行って。。。本当に嬉しく感じました。
 自分で釣る事は経験を積めばそれほど難しくありません。でも釣らせる事は本当に難しいのです。しかもベテランでも結果を出すのが難しい超澄みの状況下ですから嬉しさ倍増でした。彼も思い通りの結果にとても喜んでくれて。。。二人の夢が叶った瞬間でした。
 その後2ヶ所を見て回りましたがオイカワが釣れただけ。あまりの寒さと十分な結果をすでに得ていたので、夕方のゴールデンタイムは割愛して帰宅の道に付きました。

 友人が他界してからは毎日彼のことを思い出してしまっていた僕ですが、この日は何度か思い出しただけで済みました。釣れなくても僕を信じて頑張ってくれたROSSI 46さんがいたからこそ僕もそれに真剣に応えようとしていたからです。お陰様でとても心が軽くなりました。ROSSI 46さんありがとう!

萬鱗小橋 Part.Ⅱ

2013年03月17日 21時36分47秒 | 渓流釣り
先週の日曜日に完成した萬鱗小橋ですが、今日は写真を撮りに行って来ました。先週は仕上がりが遅くて日が暮れて写真が撮れなかったからです。
 明るい太陽の下では始めてみる萬鱗小橋。最後はネームプレート(橋名板)の取り付けでした。小さくて質素な橋ですので名前なんか要らなかったのですが、ここに彼が名付け親となった橋が残れば彼の名も風化することなく永久に語り継がれるのではないかと思われます。渡るのが怖いくらいの小さな橋です。丸太を二本並べただけです。本当ならこの二本の間に板を貼って、誰もが恐怖を感じずに渡れるようにしたかったのですが、過去に何度も流されてる橋ですから、今回はこれだけにしました。その理由は、今までの橋が流されてしまったのはがっちり作り過ぎていたのが原因だと思えたからです。今回の橋は岩にアンカーを打ち込んで、そこにコンクリを流して枕にし、水が出たら丸太が浮き上がって外れるようになっています。そして、外れた丸太が流れて行ってしまわないように、別にアンカーを打ち込んでワイヤーでつないでおきました。こうすれば大水の時には浮き上がって枕から外れて流されますが、ある程度でワイヤーが効いて流失が防止されます。しかもワイヤーは両岸から一本づつ引き、そこに二本の丸太が一本づつ取り付けられているので、水の抵抗も最小限となるわけです。たとえ増水して流されても水位が戻ったらまた拾って来て元通りに置けば再び通行が可能になるから橋自体が流失してなくなってしまうことがない設計になっております。丸太二本では狭くて渡るのに少々恐怖が伴いますので、三本を並べる方法も考えたのですが、三本だとどうしても流されたときにワイヤー同士が絡んでしまって切れてしまう懸念があります。もし切れなかったら絡んだワイヤーに流木などが引っかかって、超危険な状態も考えられないわけではありません。よって、実用に少々の恐怖はあるものの、今回は堀江氏の小さな業績(名付け親)を一日でも長く留めたいと思ったのでこれ以上には出来なかったのです。
 それでもこの橋が出来たことによって対岸への移動がすこぶる楽になったとの声が沢山聞こえてきます。慣れない作業で苦労の連続でしたが、その甲斐があったっていうものです。
 当初、何も考えずに(っていうか何も知らずに橋架けを請け負ってしまって)どうしようか?と悩みこんでしまった僕ですが、僕らの会の会員(TOURANさん、たつやさん、小次郎さん)をはじめ、吉田毛鉤会のK隊長も『いつでもお手伝いしますから何でも言って下さい』と言ってくれて勇気百倍。実際、一番大変だった丸太の移動の時にお手伝い頂きました。またTOURANさんのお友達が丸太を対岸に渡すときにわざわざ来てくれて先頭になっていろいろと指示してくれました。彼は釣り師でもないのに感謝・感謝です。またネームプレート(橋名板)の製作にあっても、面倒臭い製作をお願いしたにもかかわらず僕の意向を汲んでくれて『特殊加工賃は僕からのボランティアです。』って言ってくれて。このお店はネットで探していきなりお願いをしただけなのにもかかわらずです。店長の優しさにびっくりしましたが、お言葉に甘えさせていただきました。本当に嬉しかったです。参考までにこのお店は高木石材というお店でHPアドレスはhttp://www.takagisekizai.comです。嬉しかったので少々コマーシャルさせてもらいます。このように素敵な仲間と素晴らしい人たちによって完成にこぎつけた橋です。僕が思うに、これこそ堀江さんが望んでいた形なのではないかと思います。この橋の製作に携わった総ての方々に感謝すると共に、僕自身も本当に嬉しく感じました。皆様本当にありがとうございました。
 尚、この橋は上記のように素人の製作です。何があっても責任は取れません。利用する方々の自己責任で渡っていただきたいと思っております。

 きっと今日あたりは堀江さんもこの橋に腰掛けて柔らかな日差しを浴びながらオカリナでも吹いて。。。今までのストレスを発散させていたのではないかと思われてなりません。
 萬鱗小橋・・・小さくて質素で飾り気のまったくない橋です。でもこの小さな橋は岸と岸とをつなげ、人の気持ちをもつなげた素晴らしい橋です。そして僕らの気持ちを天国に居る堀江さんに届ける橋としてずーっとずーっとここにあって欲しいと願って止みません。 

堀江溪愚さんが逝去されました。

2013年03月16日 22時44分32秒 | 渓流釣り
堀江溪愚。
てんからをやる人でこの名前を知らない人はいないと思えるほどこの世界での超有名人です。
 残念ながら3月11日午前3時25分に逝去されました。享年67歳。

彼とは良き釣り仲間であるとともに、僕の患者さんでもあり、30年来のお付き合いをさせていただきました。
 あるとき我が家に来て、僕が仕事をしているのを見ながら『管理人さんも大変だねぇ。仕事と趣味が別だから。僕なんか仕事が趣味で趣味が仕事なんだからさぁ・・・幸せな人生だよ。仕事が少しも苦にならないんだから。趣味だからね!』って言っていました。そんなノーテンキな彼ではありましたが、勿論仕事となれば面白くないことがあったことも多々伺っております。でも、そう思うことが人生を楽しくすることを知っていた彼ですから、わざとそう言っていたのではないかと思います。
 曖昧なことを好まない青竹を割ったような性格ゆえ沢山の人に愛され、またそれゆえに厳しい所もありました。そしてそれが彼のテンカラにも生きて、しっかりとした彼の釣りを構築されました。彼の功績はテンカラにフライ・フィッシングを取り入れた(『アーバンテンカラ』と呼ばれていました)とか、秘密性が高いがゆえにあたかも難しく伝えられているこの釣り方を誰でもが楽しめるようにしたとか言われています。確かにそれらも彼の業績なのですが、一番の功績は各地に散在するてんからの名手を発掘し、紹介してまとめ上げたことだと思っています。彼がいなかったらきっと今のようなテンカラ界にはなっていなかったと思います。テンカラの巨匠と言われる人たちは本当にみんな仲が良いのです。

 僕自身も長い間彼と交友があったので、いろいろな事があってそれらの一つ一つを上げていたら枚挙に暇がないのですが、二三のエピソードを・・・。
 僕が海釣りで使う毛鉤を某オークションで落札しました。100個セットでした。で、その毛鉤が届いたらなんと500個も入っていて、しかもそれに使った鈎だけの物がまた1000本も入っていて。何かの間違いだと思った僕は出品者に連絡を取りました。そうしたら『100本セットで出したのですが、他に誰も落札がないのでよろしかったら使ってください』と。そして聞いた事には、出品者のお父様が悪い病気になって釣具店を閉じたので、そのお父様が作った商品の毛鉤が大量にあってその処分なのだそうです。そんな折、堀江氏が僕の所にいらしたのでその話をしました。『へぇ~、海の毛鉤。チョット見せてください。』ってことでこのショット(添付画像)。そしてこの写真を訳を話してその人に送っていいか?を聞きました。彼は笑いながら『良いも何も、こんな爺が役に立てるなら何枚でも送ってやってください』と。早速その出品者様にメールし画像添付をしました。そうしたら、さすがに釣具屋の店主です。堀江さんの事は雑誌などで知っていて『自分が作った鉤がこんな凄い人の所に行ったなんて・・・』と、とても喜んでくれたとのこと。出品者の方もとても喜んでくれていました。そして堀江氏にこのことを電話で告げたら『人の役に立つ事が出来て本当に良かった』と彼自身も喜んでくれました。本当に優しい人でした。
もう一つ・・・
 僕が釣り堀化した渓流に見切りをつけてカジキや磯釣りに浮気していたのが原因で、彼とはしばらく疎遠になっていましたが、彼はいつも僕の事は心に留めていてくれてTTCの開業の時もお誘いを頂き、久し振りのテンカラを満喫しました。当日は氏もビニール袋を背負ったまま、午前中だけではありましたが僕の釣りに付き合ってくれました。そして上がるちょい前にある場所に定位している魚を指差して『あいつは誰がどうやっても食わないんだ』って言いながら数投して『今日も駄目だ』って。その魚は彼の毛鉤に見向きもしませんでした。
 昼食の後は一人で釣らせてもらいました。そして当然ですが例の魚にロックオンしました。毛鉤を変え、誘いを変えてあの手この手で誘ったのですが、まるで水中に置かれた魚の剥製のようでした。で、最後の手段として巨大な沈み花笠をヤツの顎の下に突っ込んでそのまま上流に段差をで逆引きしてやりました。そうしたら追っかけて来てパクって。してやったりでした。その後夕方まで釣ってレストハウスに戻ると『管理人さん、どこであんな技を?・・・ビックリしましたよ。免許皆伝です。ガッハッハッハ』って。しっかり見られてました。またその後、彼の病態が気になってTTCを訪れました。朝は彼は寝ていたので一人で釣っていました。しばらくしたら背後になんとなく人の視線を感じました。気付くと遠くの岩陰から堀江氏が見てました。ニヤニヤしながら姿を出してきた彼と挨拶を交わし、体の具合を聞き『一緒にレストハウスに行って休みましょう。』って言ったらもうちょっと釣りを見せて欲しいと。僕の釣りなんか見たってしょうがないからというと。いやいや、凄いです。だから遠くから見てたのですから・・・って。堀江さんの前で振る竿は思ったようにならず、四苦八苦してたら「そんなもんですよ。一人で没頭してるときが一番いい竿操作が出来るもんです。だから取材は辛いのです。」って。でも、レストハウスに戻ってから色々と根掘り葉掘りでした。僕のようなずぼらなテンカラでも、堀江氏には不思議がいっぱいだったらしく、僕の釣りを一つ一つ検証して行きました。堀江氏ほどの名人が僕に質問をするなんて事は考えられなかったのですが、彼は解らないことがあるととことん追求するタイプでしたので、相手が誰でも関係なしです。基本的に僕のテンカラも堀江氏の指導を頂いてやっているのですから彼は僕のテンカラをお見通しだと思っていました。しかし、彼は『いやいや、そりゃースタートの指導はしましたが、いまや先生は先生の経験を通して立派な先生流を作り上げてます。そして、それがとても理に適っているのでビックリしている次第です。』ってベタ褒めしてくれました。・・・人を喜ばすことがとても上手な人でした。
 もう一つ・・・。
 かなり以前の話です。あるとき『先生、今度“てんからサミット・イン・名古屋’93”っていうのをやるので時間の都合が付いたら来てください。』とお誘いを頂きました。彼が言うには『凄い人を講師に招いているので講師に不足はないのですが、この人たちの凄さがわかる人って世の中にそんなに沢山はいないと思うのです。だから解る人には是非来てもらいたい。』との事でした。僕にてんからが判るはずがないことは彼が一番承知していることなので、多分講師に対する客の入りが少なかったらどうしようという彼の不安がこういう言葉になっているのだと思えました。先にも書きましたが、当時は大物釣りに傾倒していた僕ですので本来なら行かないのですが、講師陣をみると確かにそうそうたるメンバーでした。しかも堀江さんのお誘いですし、これから先テンカラで大物と格闘できる日が来るかもしれませんし、少なくともテンカラとは云々を語れるためにも一度行っておこうと思って重い腰を上げました。場所は名古屋の税理士会ビルでした。僕が住む埼玉の上尾からだと相当な距離があります。しかも知り合いは堀江さんだけですから行っても誰とも話はできないでしょう。一人ぽつんと講義に耳を傾けるだけとなることを覚悟しながら一人で新幹線に揺られました。現地に到着し、受付を済ませてウロウロしていたら『ワァ、本当に来てくれたんだぁ。』って声がして堀江さんが。『ちょっと来て』と言ってその講師たち一人づつに僕を紹介してくれました。大した釣り師ではない僕なのにとろけそうな褒め言葉を並べ立てて。でも悪い気はしませんでした。その時紹介してくれたのは天野勝利氏、石垣尚男氏、瀬畑雄三氏、竹株希朗氏、榊原正巳氏、片山悦二氏、富士正道氏、そしてフライマンの新川功氏だったように記憶しております。そしてその時に名人毛鉤なるものを頂戴しました。これは今でも大切に持っています。講師たち全員の毛鉤が小ケースに入れられていて。堀江氏の毛鉤は当時堀江氏が考案し始めていたフライの毛鉤の模倣&加工をしたものでした。僕が寂しくないように色々と気を使ってくれたので、孤独感はまったくなく、それどころが堀江氏が常に気にしてくれていたので彼の仲間のようにしていられました。こんな風に友を大切にし、しかも細かな心遣いが出来る人でした。

 最後に・・・
 彼の悪い病が脊髄に移転し、立てなくなって入院されたことを吉田毛鉤の吉田さんから連絡を頂きました。入院生活は山や自然が大好きだった彼にはとても苦痛な日々だったと思います。そんな中、彼が支配人をやっているTTCで『テンカラファンの集い』なるものが開催されました。主催は堀江氏の愛弟子と言っても過言ではない吉田毛鉤会の吉田さんでした。企画が上がった時は堀江氏も元気でしたので当然ながら講師として名を連ねていました。しかし、この状態では・・・歩くことさえ出来ないのですから。しかし、僕もこんな病気にはめげたくはないと思い、きっと堀江氏も同じ気持ちだと思って彼に聞いてみました『講師はどうしますか?もし来られるってのであれば僕はオブっても連れて行きますよっ』って。彼は『吉田さんの始めての主催だから是非参加して上げたい。でもこの体じゃぁ・・・』って。この返事を聞いて僕は『だったら任せてください。』と伝えて、そのことを主催者である吉田氏に打診しました。彼からの返事は一つ返事でした。それどころか全力で堀江氏を病院から連れ出す事を応援してくるとまで約束してくれました。このことを堀江氏に伝えると彼もとても喜んでくれて。で、ついでに『堀江さん、折角TTCに行かれるのですから釣りもしませんか?総ては僕がやりますから。岸辺に行って竿振りましょうよ。手は大丈夫なのでしょ?』と聞くと『無理・無理。話だけで勘弁してもらうよ』と。でも彼にとっても外に出られる数少ないチャンスです。僕もやや強引に釣りをすることを進めました。そうしたら・・・ベッドで横になったまま焦点のない目で空を見つめ『釣りかぁ・・・』と。そしてしばらくの間を持って『面倒をかけるけどお願いします。』って。しかも『で、お願いがあるのですが。』って。何かと思ったら『先生が以前僕にくれたあの逆さ毛鉤、もう一度僕のために巻いてくれないかなぁ。』って。僕は涙が出るほど嬉しかったです。そして当日に参加する予定の僕らの会の会員に助っ人を頼んだらこれまた一つ返事でした。結果、昨年末の『テンカラファンの集い』のようになりました。川に下りる階段は車椅子のまま人力で降ろして、そして釣ってもらいました。厳寒期でんもありますし、普段からベテランに虐められきった賢いニジマスが相手ですから少々時間が掛かったものの、すぐに一匹釣ってくれました。物瞬間の喜びは僕意外の誰にも解らないのではないかと思います。会員たちも『涙が出るほどでした。』と言ってくれましたが、僕は全身に鳥肌が立ちました。思わず彼の所に駆け寄って握手してしまった記憶があります。でもこれが彼の最後の釣りになってしまいました。彼もとても喜んでくれて。僕も本当に嬉しくて。。。後日彼が『あの時の魚が掛かった手の感触が今でも残っているよ』って言ってくれて。
 それと同時に、僕はTTCに橋を架けました。堀江氏が入院したときにとても気にしていたからです。この橋、何度か掛けられたのですが一昨年から昨年にかけての大雨や台風で流されてしまい、そのままになっていたのです。彼の病気が良いものではないことを知っていましたので、このことに気をもんでいる彼に『僕が何とかしますから安心して・・・』って言ってしまったのが事の発端です。丸太を二本渡しただけの簡素な物ですが、丸太を岩の上に固定する難しさなど、素人の僕にはまるで無理のように思えました。しかし、釣りで鍛えた試行錯誤を繰り返す事により、何とか人が通れるまでになったので堀江氏に名前を付けてもらいました。『萬鱗小橋』です。彼はその場所で朝陽に煌く水面が魚の鱗のように綺麗だったこと。そしてここは魚が溜まる場所なので、夕刻には渓魚が跳ねて鱗がとっても綺麗だった記憶があるとのことから付けられた名前です。そしてその完成と同時に彼はこの世を去りました。僕はこの橋の完成に向けて作ってもらったネームプレートを持って病院に行きました。まさかこの日が彼が逝く前日になろうとは思いもせずに。。。病室に入ると薄目を開けて寝ていました。看護婦さんから『薬で寝ているだけなので声をかければ起きますョ』と言われ、声を掛けてみました。『堀江さん、堀江さん、僕ですよ!判る?』って。そうしたら瞼を大きく広げ、黒目が出て来て・・・たったそれだけのことなのですが、体力の残りがわずかだった彼には重労働のようで、それはもう全身全霊の力を使って僕の顔を見ようとしました。で、少しではありますが二回頷いてくれました。でもまたすぐに寝てしまいました。ネームプレートも見せたかったのですが、あんな努力しないと目が開けられない状態でしたので引いてしまいました。そして、聞こえているかどうかは判りませんが『もうあんまり頑張らなくて良いよ。もういままで充分頑張って来たじゃない。バラバラだったテンカラ界をまとめ上げた堀江さんの功績は今後もずーーと語り継がれますよ。だから・・・もういいから・・・頑張らないで』って言ってしまいました。また寝てしまったようなのでこれには無反応でした。そしてしばらくの時間、そんな堀江さんをベッドの脇に腰掛けてじっと見ていて、やはりネームプレートは見ていただきたいと思いました。ネームプレートを付けるという事は橋の完成を意味しますから、彼に少しでも安心していただけたら・・・と思ったからです。で、勇気を振り絞ってもう一度声を掛けました『堀江さん、ネームプレートが出来ましたよ。これを今日付けて完成です。これからやってきます。完成ですよ!完成!』と。そうしたら今度は顔は変えずに黒目だけが出てきて・・・またわずかに一度だけ頷いてくれて。。。分かってくれたことに満足してしまった僕は『また帰りに寄るから』と言ってTTCに行って橋架けをしてしまいました。約束通りに帰りに彼の病室に立ち寄って橋架けが終わったことを報告しましたが、もうまったく頷くこともなくただ寝ているだけになってしまっていました。
 そして翌朝早く携帯が鳴りました。頭の中が真っ白になってしまって。ただただ長い間彼の身の回りのことをしてくれたTTC及びメイフライの方々、そして吉田さん率いる吉田毛鉤会の方々に対する感謝が頭の中を駆け巡るばかりでした。
 今となっては、橋架けなんか後にしてずっと脇に居てあげれば良かったとの後悔に苛まれる毎日が続いております。最後の最後に脇に居て上げられなかった事の後悔は、多分僕が死ぬまで持ち続けてしまうでしょう。
 それにしても3.11に逝くとは。誰もが忘れられない超派手な日です。彼らしいといえばそうなのですが、僕らテンカラ師にとっての3.11は東日本大震災の日というより堀江溪愚の命日という意味合いの方が強くなってしまうのではないかと思います。いずれにしても3.11は悲しさのMAXの日です。


 先にも書きましたが、彼との交流の一つ一つを書いていたら快挙に暇がありませんのでこのくらいで割愛させて下さい。いつかの機会に少しづつでもここに掲載して行こうと思っています。

 本当に惜しい人を亡くしました。まだ日が経っていないので一日に何回か彼を思い出してしまいます。そうすると決まって涙が溢れて来て。。。まだまだ悲しい日々は続くでしょうが、これだけはどうしようもありません。こういうときに効く薬は時間だけという事も理解しております。僕自身、一日も早くこの悲しい想い出たちが輝ける昔話になって皆様にお話できる日が来ることを待ち望んでいます。その日が来るまで少々の時間をいただけたらと思っています。

 残念で悲しくて・・・
 堀江さん、今まで色々とありがとう!僕はあなたと知り合えて本当に良かったと思っております。沢山の幸せをありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

 堀江氏の逝去の事はTTCや吉田毛鉤会のBlogでも公表はしていませんでした。なのに、先に情報を得たとばかりにあるWebで先行して公表してしまう空気が読めない人がいたことに尚更の悲しみを覚えた僕です。なぜTTCや吉田毛鉤会のBlogでの公表を控えていたのかは知る由もありませんが、こういう事は常識人ならば解ることだと思っておりました。
 ここに来てTTCのHPでも吉田毛鉤会のBlogでも掲載されたのでこのBlogでも掲載させていただきます。

 堀江さん、僕はあなたからは沢山の幸せを頂きました。そして堀江さんからてんからを教えて頂いた沢山の方々、そしててんからをやらずとも堀江さんに関与した方々もあなたから沢山の幸せをいただいたことと思います。ありがとう!本当にありがとう!そしてご苦労様でした。これからはゆっくりと休んでください。(合掌)

ヒラメ釣り

2013年03月08日 23時38分35秒 | ヒラメ釣り
ヒラメ釣りに行って来ました。
同船した皆様には7Kg、6Kg、5Kgなどが釣れて大型の日でしたが、僕は何だかピントが合わずにたった一回しか魚信がありませんでした。そして、その唯一一回の魚信で釣れたのがこの小さなヒラメ。36cm。
 基本的に相手がヒラメでも総てT&Rをしてきた僕ですが、訳あって先日よりキープすることが多くなりました。
 しかし、流石にこれをキープしたら幼児虐待のような気がしてT&Rです。

 T&Rとは基本的にはC&Rの延長なのですが、ただリリースするC&Rとは違ってタグ(標識)を装着してからリリースします。画像に写っている黄色い棒のようなものがタグです。タグには電話番号とタグ番号が記載されています。
 僕がタグを付けて放流したことはJGFA(Japan Game Fish Association)という組織に釣った時の大きさと放流場所を報告しておきます。そして、このヒラメを誰かが捕獲してタグに書かれている電話番号に電話するとJGFAにつながり、その人がいつどこでどのくらいの大きさになっていたかを言っていただけたら、そのヒラメがいつからいつまでにどのくらいの距離をどちら方向に移動し、その成長量が解るってわけです。
 こうして海洋資源の実態を知ることも大切なことだと思って続けていますが、再捕されるのはとてもわずかです。悲しいことに一般的には例えタグ付きの魚が釣れても『変な物が付いている』くらいの気持ちで引っこ抜いてお終いのパターンが多いようです。

 タグには何種類かがあって、僕のはダートタグSという物です。色々な形はあっても基本的にはみな同じでJGFAの電話番号とタグナンバーが書かれています。もし皆様が釣った魚にこういう人為的なものが付いていたら是非書かれている電話番号に電話連絡していただけたら嬉しいです。ちなみに報告するとJGFAの携帯ストラップがもらえます(どうでもいいような物ですが)。

 ちなみに過去の再捕記録を見てみると、ヒラメに限ってはあまり移動しないことが判って来ました。例えば、2003年11月20日に千葉県御宿で36.5cmで放流されたヒラメが1,283日後、つまり3年半ぶりにおなじ御宿沖で再捕されました。大きさは約70cmになってました。このことからヒラメの成長って案外早いことが判りました。勿論、ヒラメにとって良い環境があったのだと思いますが、それまでの僕は70cmくらいになるにはほぼ10年くらいかかっているのではないか?と思っていました。

 釣り人に出来る調査なんてたかが知れていますが、それでもこういう地味な調査も必要なのではないか?と思っています。
 ところが船頭さんによってはT&Rだけではなく、リリースそのものを嫌がる船頭さんもいます。船頭さんは貴重な財源としてヒラメを捉えています。プロですから当たり前と言えば当たり前です。ですから、船頭さんにとってヒラメはどうも札束に見えるらしく、過去に『なんで放すんだ。もう二度と来んなョ。』とか、『二度とお前にはヒラメは釣らさん。』等と言われたことがあります。船頭さんはプロで僕らは遊びですから、そこに大きな温度差はあって当たり前なのですが、一匹のヒラメを捕るということはその海域から一匹のヒラメが減るということです。特にヒラメのようにあまり移動しない魚にとってはその傾向が顕著になるはずです。ヒラメが減れば釣れなくなるので釣り客が減ります。ですから捕るという行為は自分で自分の首を絞めている行為だということがわからないようです。なんど説明しても『またこの船で釣れればいいけど、他の船に捕られちゃうョ』って。他の船に捕られたっていいじゃない。みんながそうすれば大きくなったヒラメたちがまた僕らの竿を大きくしならせてくれるだろうし、地元の漁師さんも沢山捕れて喜ぶはずです。そういうことが解らない船頭さんのところからはだんだんと足が遠のいてしまいます。

 僕が今回放したヒラメが上記のように大きくなって誰かが(僕でもいいですが)捕獲して報告してくれたら・・・まさに夢です。

わが子のように

2013年03月06日 00時36分06秒 | 渓流釣り
その昔、職漁師たちはその釣果を確保するために隠し沢を持っていました。ちなみに僕も数本の隠し沢を持っていました(現在確認していないのでここは過去形にしておきます。)。それは釣果を確保するというより、原種(在来種とも言う)を温存しておくために作った沢です。
 魚が居ないと聞けばすぐに行って調べ上げ、魚が居ない事が確認出来て尚且つ川虫が居る場所を見つけるのです。そして、そういう場所があったら地元の古老を訪ね、訳を話してその地区の原種の特徴を事細かに聞いて原種が同定できるようになるまで通い詰めます。ここで注意しなくてはいけないのは古老たちは各人の思い入れみたいなのがあって、話される原種の特徴が違ってくることがあります。そこで、複数人の古老に何度も足を運んでその共通項を見つけ出します。そしてそれらの共通項を満たして入る魚を見つけ出し、こは原種として上記のような沢に放すのです。出来たら下流帯が伏流水になっていたり、本流に鉱毒が流れていて魚が棲めない環境(要は、自然には他の魚が入ってこない場所)がベストです。

 苦労して作った隠し沢ですからとても自分で釣る気にはならず、放流の数年後に魚が居るかどうか?だけの確認をし、その後は放置です。
 放置とはいえ、昨年や今年のように雪が多い年や、大型の台風が通過したなんて時は、つい『あの魚たちは大丈夫だろうか?』と想いを馳せてしまいます。当然ながら、隠し沢は人が簡単に入れないような場所に作りますから、現在の体力ではとても確認する事はできません。ですから、尚更想いはつのる一方なのです。

当方は今、ある小溪に橋を架けています。知り合いがやっている管理釣り場内です。この知り合いは、現在体調を崩して入院中でこの橋に事の他気持ちを寄せていました。と言いますのも、この橋は今まで何度か架けられたのですが、大雨や台風が来る度に流されてしまっていました。要は岩の川なので水位の変化が大きいのです。そして昨年の大雨の時にも流されてしまいました。これはこの知り合いを慕うグループが掛けた橋でした。とても良く出来た橋だったので、僕も今度は大丈夫だろうと思っていました。しかし、やはり自然の猛威にあっけなく壊されてしまったのです。彼を慕うグループが彼のために架けた橋だったので心痛は計り知れないものがありました。橋を作る業者に委託すれば頑丈な橋が架かるのでしょうが、その費用は莫大です。で、少しでもその心痛を和らげたいと思い橋を架けることを買って出ました。知り合いに橋架けのプロがいるので何とかなるだろうと安易に考えての事です。しかし、思っているような単純な物ではありませんでした。まず、架ける場所が平坦ではなく、岩と岩に架けることから難しさがありました。これから先も水嵩が増すことも間違いなくありますからその対策・・・etc.。そして何よりお金を頂いて釣ってもらうのですから、近代的な橋ではなく風景にマッチした物であること、そして安全であることが最低必要条件です。
 難し過ぎてとうとうプロの人に聞いたら『そういう条件だと橋脚を3本くらい立てて、中に鉄筋を大量に・・・』ですって。・・・お話になりません。ボランティアですから。彼の言うことを聞いていたら○千万円も掛かってしまいそうです。でもそういう仕事しかしてこなかった彼ですから、そういう人に聞いた僕が馬鹿でした。
 それからと言うもの、思案に暮れる日が続きました。でもその一つ一つを解決しながら作っていくのは釣りとまったく変わらない行為でした。
 そして、やっと渡れるようにまでになりました。

 完成は間近です。そこで、この橋に名前を付ける事になりました。勿論僕が付ける訳には行きません。僕が誰のために作ったかと言えば入院中の知り合いのためです。是非彼に名前を付けていただきたく願い出たら『萬鱗小橋』という名前を頂きました。川に沢山の魚が泳ぐ事から萬鱗。橋が架かる場所は瀬なので陽の光が鱗のように反射してみえるので萬鱗ということです。当初は萬鱗橋と言われたのですが、その後そんな大それた橋ではないので『小』の字を入れましょうということで決定しました。

 そこで橋名板を作りました。勿論僕は作れないので業者に頼みました。色々と注文を付けると工賃が跳ね上がりそうで怖かったのですが、結論から言わせて貰うとその業者様は僕がボランティアでやっていることを知って『特殊工賃はこちろもボランティアにさせていただきます。』って。泣かせてくれますね!またひとつ釣りをしていて良い出会いがありました。

 そして出来てきたのが画像の橋名板です。僕の伝え方が悪かった所為か、設計と少々違ってしまったのですが、綺麗に出来ています。後は僕が綺麗に付けるだけ。・・・もうちょっとです。

 知り合いの夢、そして僕の夢の架け橋として、できるだけ長くここにあってほしいと願っています。

 きっと、大雨が来たりすると彼の隠し沢の魚よろしく、この橋に思いを馳せてしまうでしょう。我が子のように。。。

残念。

2013年03月01日 21時08分04秒 | タナゴ釣り
いきなりちょっとグロですみません。

 2012年10月15日にこれがタイリクバラタナゴかどうか?判らなくてUPした魚です。
残念ながら本日逝ってしまいました。
 3年前に茨城県の大きな湖に流入する河川で釣りました。(原発事故の前年ですので放射能の影響ではありません。
 タナゴ類であることは間違いないと思うのですが、なんとなくおかしな感じがしたので連れて帰って来ました。飼育していてもなんとなく普通のタイリクバラタナゴとは違う感じがしていたのですが、背鰭分岐軟条数、臀鰭分岐軟条数、側線が完全性、鱗の乱れ、口髭の長短や有無・・・etc.総てがタイリクバラタナゴの範疇だと思っていました。

 しかし、昨年末に僕の家に遊びに来た友人からもタイリクバラタナゴじゃないのではないかと指摘を受けたので、某有名な同定してくれるサイトに画像を貼り付けて聞いてみました。それでもやはりタイリクバラタナゴだとのことでした。
 それはそれでいいと思い可愛がっておりました。しかし二週間前くらいから食欲が落ち、呼吸が早くなり体色も白っぽくなり始めました。今までの経験からすると松笠病の可能性が高いです。そこで、まずは水槽の半量の水換えを。その後毎日1/5の水換え、それでも良くならなかったので最後の手段としてニューキノロン系の抗菌剤(過去に何回か効を奏した経験があったので)を。。。
 今日は朝から水草の中に隠れて出てきません。覗き込むとかなり呼吸が速くなって鱗が立ち始めていました。やはり松笠病です。他のタナゴたちはいたって元気に泳ぎまわっています。ほうれん草の茹でた物を入れると我先にとたかって食べてます。でも、この変なタナゴは水草の間でじーーっとしたまま。駄目かな?と思ったらその後はあっという間に(午後には)腹を上にして浮いてしまいました。

 残念でなりませんでした。そして以前同定をお願いしたWebのスレを見たら・・・なんとその後の書き込みがあったことを知りました。そこには『アカヒレタビラの血が混じっているように思いました.縦条の色味,背鰭の縁が割と後方まで赤くなっているところ,タビラ斑らしきものがうっすらあること,尾鰭の中央がバラタナゴみたいに赤くなく黒っぽいところなどが,アカヒレタビラを連想させます.』とのこと。なるほど。。。そう言われるとそうだったかもしれません。タビラ斑らしき物もありました。これがあればアカヒレタビラとかカネヒラが混ざっている可能性もあります。
 そして、その後そのWebの管理者様も詳しい考察を加えてくれて『(結論から言えば)私の見解は「わからない」です。そして『わからない以外の答えを出すとしたら、タイバラかなぁと…。』と括っています。
 淡水魚類にとても詳しい方々も悩みこんでしまったようです。本当にすみませんでした。この場を借りて感謝とお礼と陳謝を申し上げます。
 そして僕なりの幼稚な同定能力をフル稼働して言わせて貰うと、多分この魚は純粋なタイリクバラタナゴではないように思っています。その最大の理由は最終的な大きさが11.5cmですから(同定してもらった時は、生きていたので正確には測れませんでしたが10.8cmでした)。10cmを超えるタイリクバラタナゴの話は聞いたことがありますが(写真や現物は見たことがありません。あくまで話です。)、11cmを超えたタイリクバラタナゴは話さえも聞いたことがありません。これだけ大きくなったことを考えるとタイリクバラタナゴ×カネヒラの可能性が高いと思っています。でも、結局のところWebの管理者様の言うとおり「わからない」が正解なのかもしれません。しかしながら解らないという魚はいない訳ですから、本当なら知りたいです。一応何かの時に遺伝子でも見てもらえるよう、今日は冷凍保存にしました。もしこれが10cmオーバーのタイリクバラタナゴだったり、11cmオーバーのタイリクバラタナゴだったりしたら大変なことだと思えたからです。

 でも、こういうわけの解らない魚と出会う確立はもの凄く低いですから、そういう魚に出会うことが出来たこと自体に感謝し、そういう魚が僕の元に来てくれたことにも感謝の気持ちでいっぱいです。

 もっとも、こういう魚が取れるという事はあまり好ましくない事だと聞いたことがあります。貝が減ってしまったがゆえに異種交配が起きていることが多いからだそうです。要は人の目が届かない水中で、子孫繁栄のために死にもの狂いで貝を取り合った結果なのだそうです。
 こういう魚が出現しないよう、総ての生物がその純潔を守っていけるような自然環境になってくれることを夢見て、そして彼への感謝の気持ちと共に今夜を過ごそうと思っています。