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ボクシング、70年代ロック、ヲタ系、日々の出来事などをウダウダと・・・

鹿児島旅行⑫

2011年07月04日 | 生活
知覧から指宿スカイラインに乗って再び鹿児島市内へ

朝から夕方まで観光観タクシーをチャーターし、知覧と鹿児島市内を満喫しようという
今回の家族旅行



市内に移動してからは西郷像と記念写真を撮ったり
薩摩の名士・島津家ゆかりの神社や庭園を鑑賞したり・・・と盛りだくさん

やはり、白眉は『仙巌園』

 

桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な借景庭園
本物の地形を使って、それを巨大な庭に見做し、裏山の岸壁に大きな文字を記すという
スケールの大きさに圧倒される

だって門の外は道と線路を挟んで海だもの

仕事が少ない職人向けの公共事業でもあったようだが
岩盤に文字が描かれる際には竹を組み立てて足場からは何名かの職人が転落して
亡くなったそうな・・・

江戸初期に19代当主・島津光久によって築庭された大名庭園である『仙厳園』



薩摩が琉球王国を介して積極的に中国の文物を受容し、その文化の影響を受けた事が良く分かる
日本庭園でありながら、各所に中国の作庭趣法を取り入れてあり、中門は中国で縁起の良い色と
言われてる朱に塗りこんである

そのうえ「望嶽楼」なんていう琉球国王から贈られた南国風のピロティ建築まであり
やっぱ独特の文化圏なんだなぁ・・・と感じ入る

さらに、いち早く海外留学に着手した島津家は
溶鉱炉や製鉄所も仙厳園の敷地内に建設し、ガス灯の実験もここで行ったそうで
実際にその一部は敷地内に残っている

英国やオランダ、ロシアも薩摩を重要視して、使節団を送り込み
島津家当主は仙厳園にある迎賓の間でもてなしたそうな

う~ん、九州における海外への玄関は長崎だと思っていたが
いやいや鹿児島も相当なモノですな

~というか、対等な外交をやろうとしたのが凄い
ヘタすりゃ日本の首都になって外国と付き合おうか・・・なんつう意気込みさえ
あったんじゃないかと

野望の王国だ
野望が生きた藩=薩摩

やっぱ九州でも異端の地だな
九州山脈で隔たれた福岡・熊本・大分とは別の国のようだ

文化も気候も違うわ

・・・なんて事を考えながら
少し前にTVで見て「これ不気味だろ!」と大笑いした篤姫人形と記念撮影



「なんだいこれ?」と怪訝そうな顔をしながらフレームに入る我が母

まぁ、花が咲いた状態なら華やかなんだろうが、
今は植え込みからマネキンの顔だけ覗く不気味な光景

ああ
真面目な考えが続かない我が脳ミソ

雨続きだった九州
奇跡的に我々の旅行中は曇天で済んでいたが
さすがに市内観光の終わりが見えたところで雨が・・・

幸運にも傘を使うことなくホテルに着いた

ガイド兼ドライバー兼カメラマンを務めてくれた観光タクシー運転手さんに
お金を支払い、お礼を言ってお別れ

さすがに高齢の母は疲れたようで(まぁ、私もけっこう疲れたのだが)
夕食はホテル内のレストランで済ませた



きびなごの刺身、さつま揚げ、黒豚の角煮、地鶏の炭火焼・・・が並ぶ定食
お値段はそれなりだったが、フロントで1割引チケット貰ったし、せっかくの旅行で
ケチっても仕方ないので薩摩の味を満喫した

部屋は連れ&ちびスケ、私と母親の2部屋
母親が「お前に飲ませようと買った」という発泡酒を持ち込んで飲んだ
本家で伯父と散々ビールを飲んだが、実家でも買い置きの発泡酒が待っていたのだ

飲みきれなかったので新幹線でも1本消費
九州新幹線は、あまり売り子さんが回って来ずツマミは無かったが
まぁ、車内の雰囲気を肴に気分良く飲んだ

いや、ホントは風邪気味で薬飲んでたからアルコールは控えたかったのだが飲んだ
私が飲まないと飲む者が居ないのだ

よって道中は風邪薬を控えた 酒が薬だ

そして鹿児島のホテルでは
1Fのコンビニでツマミを買って飲んだ

母親はTVの横でタバコをふかしている
「もっと動きやすい靴にすりゃ良かった。足が痛いよ」
「もうトシだ。こんな旅行は今回で最後だ」とボヤく

TVでは『しゃべくり7』が流れている

風呂に入ってベッドに入って私はグッタリ

そうして鹿児島旅行の初日は終わった
濃い一日だった・・・

鹿児島旅行⑪

2011年07月04日 | 生活
武家屋敷の庭園

大半は枯山水だが
たまにある池泉式庭園には巨大な鯉が泳いでいる



私に「お前と大きさ変わらないんじゃないか?」と言われ
ちびスケは目が点に・・・

大半はこじんまりとした枯山水だが
巨石を削って桜島を中心とした鹿児島の風景が表現されており
領主はそれを眺めながら思索に耽ったとか・・・



屋敷脇には石をくり抜いたような水貯めがあり
「馬の水飲み場かな?」と思ったら

戦(いくさ)で使った弓や刀を洗った場所だそうな

生々しいなぁ
さすが幕末~明治時代まで戦いやってた薩摩だなぁ

江戸の侍など太平が長くて戦やってた印象ないが
薩摩の武家は常に臨戦態勢な印象あるもんなぁ

そういや、さっき見た特攻平和会館の戦史コーナーにも
西南戦争で使った軍服など飾られてたもんなぁ・・・

鹿児島旅行⑩

2011年07月04日 | 生活
特攻平和会館を出て、観光タクシーは数分で知覧武家屋敷へ

鹿児島の小京都とも言われる知覧だが
やっぱり南国な石垣には沖縄と通じるものを見た

島津家のお膝元であり、西郷隆盛ら多くの幕末の名士を輩出した事でも知られる薩摩
総人口に対する武士の比率がとても高く、人口に比率して25%以上もあったそうな

薩摩藩は、区分した領に武士を分散させることによって、戦(いくさ)の拠点を藩内に
数多く配していたという

知覧もそんな街で
江戸の雰囲気を今に伝える数少ない貴重な町並み・・・って事だが



やっぱり石垣には『南国らしさ』が
これで快晴だっから南国の太陽に照らされ、ますます沖縄みたいに映るだろうな

屋敷の所有者でも勝手に生垣を切っる事は出来ないそうな
行政の許可を取って通りを同じ業者さんで一気に剪定するんだろうな



資料によると広さは18.6ヘクタール
七つの池泉式庭園と枯山水庭園を持った屋敷が点在しており

観光客は独特の生垣に挟まれた通路を歩く事になる

その生垣や屋敷の構造は、有事の際には敵の侵入を妨げる構造になっている

道幅も大勢の軍勢が攻め入るには狭く、屋敷の門は段になっており馬は直進できない
生垣も固くて入り込むのが難しい木が植えてあるとか

屋敷に寄っては今も住人が住んでるところがあるし
入場に別料金が掛かる所もある

既に武家屋敷の通りに入場料を支払っているので、
観光タクシー運転手さんは「ここがイイですよ」と
数少ない茅葺の屋敷を案内してくれた (もちろん入場無料)



傘を転用した提灯など調度品が飾ってある
観光客向けに地元の人が説明してくれる

まったりとした南国の時間

初夏だというのにトンボが飛んでいる

鹿児島旅行⑨

2011年07月04日 | 生活
そもそも
この知覧特攻平和会館に入って直ぐの場所に壁画が飾ってあって

横4m30cm縦3m、『鎮魂(魂を静める)』と題されたこの壁画は、
紅蓮の炎に包まれ、いまにも墜落しようとする隼戦闘機の搭乗員を
6人の菩薩が抱きかかえて昇天に導くという圧巻の構図 



これも人によっちゃ「特攻隊を美化」していると言われそうだが

描いた方は(おそらく)一般人で、
館内の展示品を見て心打たれた人か、特攻兵の残された家族か、
または特攻兵となりながら機会なく生き残った人か・・・

「ただ敵艦の迎撃にあって海の藻屑と消えた」じゃ、あんまりじゃないか
「敗戦濃厚の悪あがき作戦で犬死にした」じゃ、あんまりじゃないか

せめて極楽浄土に旅立って欲しい
菩薩に抱かれて昇天していて欲しい

・・・そんな願いから絵筆を取られたのではないか
私はそう感じた 凄い絵だと思った

この絵に同記念館の総意があるとさえ思った



まぁ、一番奥にある『戦史資料室』には日清戦争から日露戦争、大東亜戦争から
西南戦争まで様々な戦争の
備品や、軍刀、軍服などが展示されていて
そこには当時の戦勝記事(朝日新聞!)などもデカデカと掲示されていたが

この辺に
「やっぱ、こういう記念館の増築費用を引き受けるのは、その手の方々だもんねぇ」
・・・・と
大人の事情を感じたが、特攻兵の遺詠や遺書にウソは無い

日本軍は特攻隊員の家族・遺族に対して特別に年金を割り増したらしいが
その金の使い道を細かく書き連ねた遺書もあり

その遺書を読んだ連れなど「現実的な人も居たんだね」と妙な感心をしていた

特攻兵といえど人それぞれ
遺書もさまざま



多かったのは「必沈」の文字だが
「閻魔様よ待っておれ」という勇ましい文句もあれば
ひたすら母親への感謝を連ねる人もあった(やはり父より母だねぇ・・・)

残しゆく子供へ「父のいる家を羨まないように」「立派な日本人として生きなさい」と
諭す遺書を残した人もあった

自由の国に憧れ、自由主義者としての出撃もあり、
戦時中の日本を「全体主義のようだ」と評し、「自分は大英帝国のような自由主義の国として
世界を席巻する大日本帝国を見たかった」と言い残す特攻兵が居たなんて
驚き以外なにものでも無い・・・

富屋食堂のHPにも何名か特攻兵の紹介があったが
トメさんが何度「憲兵隊に捕まるから止めなさい」と言っても
「日本は負けるよ」と言い続けた特攻兵もいたそうな

それでも死地へ飛んで言ったんだよな



ウチの親父は養成期間で終戦になったが
次々と知覧へ向かって行った先輩たちから「もう、お前らが乗る特攻機はないぞ」と
言われたそうな

物資が底をついて練習機の燃料も機体もなく、最後はグライダーで訓練していた時期だ
飛び立つ彼らも日本が負けるのは分かっていたのかも知れない

「後輩が死地に旅立つ前には終戦を迎えているかも知れない」、
または「単純に特攻機を量産する国力すら無くなっているだろう」・・・
そんな未来が見えていたのかも知れない

それでも日本の未来がより良き事を願い、彼らは飛んだんだよな

「国のため」「愛する人たちを守るため」
その滅私の精神には頭が下がる 
自己犠牲の極み

「哀れ」「可哀想」などと思うのは失礼かもな

「自爆テロと一緒にされるのも嫌です」とも
観光タクシー運転手さんは言ってたな

そりゃそうだ
特攻の標的は敵艦だ 民間人を無差別に標的にするテロとは違う

そんな事を考えながら館内を歩いていたら



ちびスケは飛行機などを見終えて満足顔
※『疾風(はやて)』や『飛燕(ひえん)』も展示されてたもんなぁ
 エンジンの解説とかは奴には理解出来なかったろうが・・・

オフクロも「充分見たよ」と言うし
次を回る時間にもなったし 館外に出る事にした

最後に遺影に頭を下げる
この中に亡き親父と交流あった方も居るかも知れない

生き残ったウチの親父は懸命に働いて、
たらふく酒を飲んで、時に人助けして、世に尽くしました
・・・そう報告し、心の中で手を合わせた

あの世で再開したら褒めてやって下さい・・・とも

鹿児島旅行⑧

2011年07月04日 | 生活
知覧行きの前にネットで色々予習したんですが

出撃前に特攻兵が寝泊りする『三角兵舎』も
記念館外に再現してあるが

敵の空襲から隠れる為に半分地面に埋まったような兵舎は
お世辞にも快適そうには見えず



中に入って見学した限り、環境も良さ気には見えないが

“生き残り”の板津氏は「布団は思いのほか柔らかかった」
「地元の方が、せめても・・・と羽根布団など差し入れてくれたのかも知れない」と
記述されている

地元の女学生が『なでしこ部隊』として特攻兵の身の回りを世話
(掃除・洗濯・裁縫など)したり
布を縫って作ったマスコット人形を手渡したり・・・と



爽やかな交流があったそうだが
※女学生達は特攻兵たちを「お兄さま」と慕ったのだとか
  出撃の見送りで泣くのと手を振るのは禁止されており、
  女学生達が桜の枝を振って見送る写真もよく紹介されている

実は三角兵舎で就寝する時には多くの兵士が泣き続けたり
嗚咽を漏らしていたそうな

それでも出撃当日は『あの笑顔』

泣きじゃくる機体付きの整備兵に別れを言って

様々な葛藤を超越したかのような表情をして
マスコットを操縦席の先端に置いて旅立ったんだそうな



機体不良で戻ってきたら
再教育という名の叱責が行われたらしいが
板津さんのような人は自ら上官に「すぐ再出撃を!」と何度も懇願したそうな

いやいや、その『覚悟』の凄まじき事よ・・・

鹿児島旅行⑦

2011年07月04日 | 生活
もう・・・ね

特攻に関しては、
「250kgの爆弾搭載した戦闘機に自国の若者を乗せて相手艦に体当たりさせる」なんていう
とんでもない作戦だし
※悪名高きナチスだってそこまでやってない
さらに、連中には無線誘導で無人機をぶつける技術があった・・・

作戦自体は異常で馬鹿げた物だと皆理解しているのだが

じゃあ、特攻で散った若者が異常で馬鹿げていたかと言うと
決してそうでは無い

単なる美化では無く、そういう空気が館内を支配している
私のようなヘソ曲がりでも素直にそう思ってしまう



10代~20代の少年が書いたとは思えない遺書の達筆さ・・・・
家族を思う手紙の数々・・・

そして、一人一人の遺影
(「子供じゃねえか!」と絶句する程あどけない遺影もありましたよ) 

同期で集まった集合写真の表情・・・

「洗脳されていた」「むりやり表情を作らされた」
・・・そのようなレベルでは語れない活き活きとした表情

皆で集まり、肩を並べ満面の笑みをたたえる隊員たち



「まるで部活帰りに仲間と笑いあう運動部員のような」
屈託のない笑顔

無垢で、眩いばかりの表情

これから1時間かそこらで命を失いというのに、なんという笑顔
一点の曇りもない笑顔・・・

信じられない

なぜ、こんな笑顔になれるのか

鹿児島旅行⑥

2011年07月04日 | 生活
そして
いよいよ知覧特攻平和会館へ

入り口で入場料500円を支払ってパンフをいただく

  

パンフの裏には観音様の御姿・・・

大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて
謹鋳した一尺八寸(54センチ)の金銅像

当時の軍司令のお二人が、知覧に是非お祀りしたいと持参された物で
この観音像の体内には特攻戦死者の芳名を謹記した巻物が奉蔵されているんだそうな

そして記念館館内

中に入ったら「撮影禁止」
(以降UPする画像はパンフなどから引用した物なのでご了承ください)

「全部くまなく見たら1~2時間じゃ終わらない」といわれる膨大な展示物

ここでも、ちびスケに「飛行機とかあるぞ」と言いながら
「でも騒ぐなよ」「絶対にギャーギャー言うなよ!」と念を押して奥へ移動

右脇のスペースには海底から引き揚げられた本物の零戦が・・・



資料によると
『昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500メートル/水深約35メートルの
ところに海没していた物を知覧町が昭和55年6月引き揚げた』という事だが

機体後部は失われ、さらに機体は35年間も海中に沈んでたこともあって
子供が喜ぶ姿では無い・・・

脇には、なぜかピアノも置いてあって
解説を読むと
『元音大生だった特攻兵が「弾かせて欲しい」と申し出て生涯最後の演奏を行った物』だそうな

重い 展示してある物が全て重い
覚悟はしていたが、接するのにシンドイ展示ばかりだ

 

凄かったのが
隊員の写真・遺書・絶筆の数々

約4,500点が展示されている
立体ケースには「日の丸寄せ書」や遺書・絶筆・遺品等が展示され
その下の引き出しにも絶筆・遺書のコピーが・・・

これらを全て読んでいたら丸一日は掛かる代物だ

当初は、公園の休憩場という形で平和公園の中に遺品館を作り、遺品を数点並べただけの
ものだったそうだが

『特攻隊の生き残り』板津忠正氏が日本全国を周って集めた資料を寄贈し、膨大な資料館と
して威容を誇る程になった

ユダヤの『ナチス狩り』では無いが、連合軍の逆恨みを恐れた軍関係者は特攻隊資料の
大半を廃棄していたそうで
遺族を訪ね歩くことさえ難しい状況で、数少ない戦死者名簿を手に地域の長老を訪ね
「この辺に飛行機乗りは居なかったでしょうか?」と聞きまわる気の遠くなるような
作業を続けた板津忠正氏は

その功績を認められ、改装増築した知覧特攻平和会館の初代館長に招かれたそうな
※ただし「知覧に篭っていたら資料が集められない」と退職し、全国行脚を再開された
  というのだから、その使命感の凄まじさには絶句するしかありません



エンジントラブルで特攻編隊から離脱し不時着、再度の出撃も
梅雨の悪天候で叶わず、とうとう終戦を迎えた板津さんは
「自分だけ生き残ってしまった」という負い目を拭えず

「亡くなった特攻兵を悼み、御遺族に最後の姿を伝える為」、自分の車を運転し
手弁当で全国を周ったとか・・・
※御遺族は、特攻兵が どこから飛んで、どこで最後の夜を
  すごしたかも知らない方が多かったとか・・・

ついに、1995年に知覧特攻攻撃で亡くなった1037人全員の遺影を集め、
知覧特攻平和会館に寄贈

知覧の方々には「尊い命を失った特攻を観光事業に利用するようで・・・」と
申し訳なく思う意見もあったそうだが

なにより遺族と元特攻兵の方々が
「知覧の方々にはとても良くして貰った」
「毎年行われる慰霊行事に多くの方々が集まる事は有り難い」と
言葉を掛けるに至り、
人口わずか一万四千人の町に年間七十万人もの方が訪れ、学校行事(平和教育)の
場として多くの生徒が特攻平和会館詣でするに至ったとか・・・



地域では改装増築の費用を準備できず、“あの”笹川財団に声掛けして、
関連会社のトップから展示法に関して“御指摘”あったというから

微妙に“美化”された部分も感じたが
※撃沈された米国艦の図解と「なぜ、この艦への特攻が成功したか」を
  延々と解説しているコーナーとか・・・ね

ただし、板津元館長の「ありのままを伝える」意思は
隊員の写真・遺書・絶筆の数々を“ひたすら並べる”展示に表れており

その品々と遺書の内容、隊員1名1名の表情だけでも、入館者は圧倒されるのでした・・・

鹿児島旅行⑤

2011年07月04日 | 生活
屋外に展示されているのは復元された一式戦闘機「隼」

平成19年5月に公開された映画『俺は,君のためにこそ死にに行く』の
撮影のために実寸大で製作され、クランクアップ後に寄贈されたもの



ここらへんでは、ちびスケが退屈しないよう「飛行機があるよ~」と
ひたすら道化に徹した私だが

やはり戦争関連の展示なので記念撮影では神妙な顔に・・・
観光タクシー運転手さんは、率先してカメラマンになってくれて有り難かった

運転手さんの案内で
特攻兵の像に手を合わせ、見送る母の像に一礼する

母の像は『鳥浜トメ』さんの像とも言われるが、
実際は全特攻隊員の母をイメージした物だそうだ



隣のスペースは
移設された太刀洗陸軍飛行学校 知覧教育隊の門柱

福岡にあった太刀洗陸軍飛行学校の分校にあたる知覧教育隊
実際は中国や台湾の基地からも飛行兵は集められたというが

親父が居たという「太刀洗陸軍飛行学校」の文字を読んだら
感慨深い思いがした 母親も同様の面持ちだった



参道の突き当たりに観音堂

お賽銭入れて御祈り

観音堂の脇には英霊碑
特攻で散った兵士の名前が全て記入されている
裏までびっしりだ

タクシー運転手さんによると「出撃順」との事

手を合わせて頭を垂れる我々
もう、ひたすらこの行動を続けております・・・

鹿児島旅行④

2011年07月04日 | 生活
食事も終わり、いよいよ特攻平和会館へ

周辺に体育館あり、美術館あり
地域の文化体育施設の中心にあるような施設だ



資料館のみならず
観音堂、平和の鐘、屋外展示された特攻機(レプリカ)、石碑、特攻兵の像、
特攻兵の母親をイメージする女性の像、最後の宿泊場『三角兵舎』(レプリカ)
などが併設された平和祈念公園といった趣だ

道中には灯篭
設置を呼びかけた鳥浜トメさんが奉納した灯篭が、民間人として最初の位置に配されている

朝鮮人の特攻兵に捧げられた『アリランの碑』もある



※トメさんに「自分は朝鮮人です」と告白した特攻兵が
  出兵前の夜に歌った『アリラン』・・・

  トメさんは「自分にとっては皆おなじ子供のようなものだ」と、
  その朝鮮人の兵士を諭し、彼の上官に「イジメなど無いよう」に
  嘆願したという・・・

外人兵の多くは、爆薬を積んだグライダーやポンポン船での特攻など
「より悲劇的な」特攻作戦に送り込まれたというが



※人間魚雷『回天』も惨い作戦だったが

  終いにゃ敵軍上陸に備え、空気ボンベ背負って爆雷仕込んだ槍を持って
  海底に潜んで「敵の上陸艇の船底を突く」なんつうトンでない『特攻作戦』が
  計画されてたと言うから、当時の軍は何を考えていたんだか・・・

観光タクシー運転手さんは北朝鮮の元高官を乗せた事がおありだそうで
その高官は
「在籍時は来たくもなかった」
「ただ、死ぬ前に国外で散った同胞に手を合わせようと思った」
「日本人は同胞を拉致して特攻機に乗せたからな・・・」と当初語っていたそうだが

同胞が日本人と同様に供養されているのを見て涙を流したそうな
『アリランの碑』を前に「今度は家族を連れてきたい」と語られたそうな・・・

鹿児島旅行③

2011年07月04日 | 生活
まず、知覧はお茶の街だった
まず名物の知覧茶を購入した



昼食を摂った食堂脇が土産屋になっていた

ちなみにその食堂は
当時、特攻基地の脇にあった『陸軍指定』の富屋食堂を継承する『知覧茶屋』で

殆ど特攻平和会館に隣接した位置に建てられた観光客向けの食堂で

多くの特攻兵の食事を用意し、面倒を見た店主『鳥浜トメさん』の店



10代~20代の特攻兵の母代わりとなった『特攻おばさん』は既に
もう亡くなり、『富屋食堂』も観光客向けに改装されている

『富屋旅館』『知覧茶屋』と知覧を訪れる人をもてなす意味で増設された施設も
「見送った者の務め」として鳥浜トメさんが切り盛りされたそうな

戦後は滑走路も民間に返還されて畑に戻り、基地跡も雑草で荒れ果てたというが
そこに碑を建てて祈り続け、灯篭の提供を集い、観音堂の建設に尽力したトメさんは
特攻平和会館の完成をとても喜ばれたそうな

観光タクシーの運転手さんによれば
トメさんは、跡地を素通りしようとする子供をドヤしつけ
その子が素直に手を合わせたら菓子を与えたとのこと

『語りべ』となった鳥浜トメさんの写真は
当然のように店内に飾られている

そこには
岸惠子さんがトメさん役を演じた映画のポスターあり
特攻隊の写真あり



特攻機の機体の一部まで飾ってある・・・

アホ面さげてメシを食う雰囲気じゃありません

しかし、お子様定食の「ドラえもん定食」が
お椀の蓋にムリヤリ「ドラえもん」の顔をペイントされた物だったりして
連れと私でプルプル震えながら笑いを堪えるハメになったりと

シリアスだけで済まないところが侮れなかった

私は『天麩羅茶そば』をオーダーし
美味しい昼食をいただきました



しかし、さすが南九州市

子供定食のラーメンがトンコツ味だ
単品ラーメンもトンコツ味だ
しかも、とんこつチャーシュー麺みたいのもある

一筋縄でいかない知覧茶屋さん

観光バス用の駐車場も広いし
週末や祝日は、そうとう混むんだろうな・・・

鹿児島旅行②

2011年07月04日 | 生活
九州新幹線の終着は鹿児島中央駅
以前は西鹿児島といわれた駅だ

天気予報は芳しくなかったが
鹿児島入りしてみたら時折晴れ間の見える曇天
 


「やはり大きな駅だなぁ」などと新幹線駅に感心しながら
階段を降り、ロータリーで観光タクシーを待つ

少し値段が張るが1日回って2万4千円
これでもネット予約で割引価格だ

観光バス3人分と考えると・・・・ねぇ
運転は趣味じゃないからレンタカーとか我が家じゃ有り得ないし

まぁ、結果としては色々と観光地の説明もしてもらっての価格だから
高くは無かった

実質『運転するガイドさん』だった

まず市内を離れ『知覧』へ

タクシーは高速道で指宿・知覧方面へ走る
カーブが多く海抜の高い道に差し掛かると
車に弱いちびスケは早速クッタリ・・・

「ほら、あっちに桜島が見えるぞ!」と霞掛かった活火山を指差して気を紛らわす



まぁ、今回は親孝行ツアーだ

72歳で亡くなったウチの親父は元少年飛行兵(見習い)

尋常小学校6年卒で民間航空機乗員の教育を受けるべく福岡県の
筑後航空機乗員養成所へ入所したが、時は既に太平洋戦争の末期

先輩は陸軍飛行兵に徴用され、福岡県太刀洗の陸軍飛行兵養成所を経由し
次々と特攻隊基地のある知覧へ送り込まれたんだそうな

知覧の基地から飛び立つときは最後の飛行



ウチの親父は知覧へは渡らず、養成期間の最中に終戦を迎えた
(あと半年、戦争が長引いていたら確実に知覧へ送られていたらしいが・・・)

任務を失った本科生は
民間の航空機搭乗員を目指す者もいれば、
郷里の中学校(高等学校)に入学したり
斡旋されて、国鉄や郵便局に入った者もいたそうな

結局ウチの親父は鉄道員になって永年勤続で表彰されるまで勤め上げた

今回、母親が希望するのは
親父が亡くなる前に行きたがっていた『知覧特攻平和会館』行き

私にとっても一種のルーツ探し・・・だな

さぁ、知覧インターチェンジだ
結構時間が掛かったな 九州南端の基地だもんな

え?料金所?
また金払うのね 高速料金は別払いなのね・・・・

鹿児島旅行①

2011年07月04日 | 生活
帰郷のついでに足を伸ばして鹿児島へ出掛けた

母が「知覧に行きたい」と言い
連れが「九州新幹線に乗りたい」と言い
私が「夏休みに入ったら忙しくなるから7月上旬に行きたい」と言ったので

(元旅行会社勤務の)連れが行程を作って旅券と宿泊を手配

飛行機+新幹線+観光タクシーを使って南九州旅行となった



新幹線は連れの希望で800系
700系は東北路線でも走っており、どうせなら珍しい車内デザインの800系l九州新幹線がイイんだそうな

 

確かに車内ドアが金箔だったり
窓の日よけが木製だったりと凝った造りが面白い



『つばめ号』だけに床や壁にもツバメの小紋





乗車スペースも日本的で
趣あり



しかし南九州は山が多く
八代あたりからはトンネルばかり

予想はしていたが予想以上の「トンネルに次ぐトンネル」

水俣あたりから海も見えるかと思ったら
見えたのはホンの少し

外が見えたかと思ったら、またトンネル



う~ん、これじゃ『地底超特急』じゃん

どっかに『人工生命』が積まれてるかも・・・

そんで暴走して「わたしはカモメ」ですか

・・・少し前に見た『ウルトラQ』ネタですか

WOWOWさん、デジタルハイビジョン版の放送ありがとうございます