有田芳生の『酔醒漫録』

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石津謙介の「人生四毛作」

2007-01-21 10:09:36 | 読書

 1月20日(土)ホテルモントレ札幌。カーテンを開けると雪が舞っていた。室内がイギリス風の雰囲気でとてもいい。たとえば小さな時計は四角いキャンデーが入るような缶にはめ込まれている。洗面所も二つで、ひとつは木の床なのだ。だらだらと時間を過ごして11時前にチェックアウト。タクシーで南3条西5丁目へ向う。カフェ「RANBAN」の屋根には雪が積もっている。この建物は昭和初期の民家を改築したもので、1997年に札幌市都市景観賞を受賞している。木の入り口を入り窓際のテーブルに座る。マスターの阿部和弘さんがすぐにやってきて「いいときに来ましたよ」と言った。「ベストオブパナマ」で準優勝した珈琲豆が手に入ったという。出荷は全世界で30キロ。そのうちの20キロを買うことができたと嬉しそうだった。日本では「RANBAN」でしか飲めない。メニューにも出していないので「どうして」と聞くと、すぐに無くなってしまうからだという。北海道のポテトを使ったトーストを頼み、まず炒れたての珈琲を飲む。まろやかで微かに花の香りがする。半分ほど飲んでフレッシュを入れると、さらに甘味を感じた。ひとり100グラムから200グラム限定という豆を持ち帰ることにした。毎朝珈琲ミルで豆を挽いているのだが、どうも秘訣があるようだ。ポイントは「細かさ」だと聞き、ミルの調整方法を教えてもらった。阿部さんは同い年。1977年に開店だから、ちょうどわたしが東京に出た年のこと。こんな生き方もいいなと思ってしまった。

070119_10380001001  札幌駅に出て千歳空港へ。エアーマミーに立ち寄りフクロウの人形を物色。今回は人形作家の藤岡孝一がエリマキ材に彫ったものを購入。函館ラーメンを食べてJAL1024便で東京へ。機内では宇田川悟『VANストーリーズ 石津謙介とアイビーの時代』(集英社新書)を読む。参考になったことは、流行ではなく風俗を作りたいと志向した石津の人生だ。「悠貧」という言葉もいいが、何といっても「人生四毛作」には味がある。石津と交流のあった宇田川の説明を引用する。

 人間、一〇〇歳まで生きると仮定して、それを二五年ごとに区切る。すなわち一毛作目は二五歳までの人格形成期、二毛作目は五〇歳までの必死に働いて生活を形成する時期、三毛作目は七五歳までの新しい人生を楽しむ時期、最後の四毛作目はもうけものの人生で思うままに生きる時期。

 人間関係や新しい行動などに面倒くささを感じてくることがある。それを払拭することで意外な世界が広がっていく。石津さんは91歳で亡くなったけれど、「もうけものの人生」まで生きた。「人生四毛作」。知識としてではなく、生活のなかで実際に慈しみたい考え方だ。羽田から浜松町。池袋で降りて「おもろ」。常連にお土産の特大ホッケを渡して雑談。日本で働くフィリピン女性の故郷を訪れたNさんの話を聞く。「新しい人生を楽しむ時期」だ。果してこの恋の行方はどうなるのだろうか。常連の話題なのだ。帰宅すると「再見!テレサ・テン」というメモリアル・ボックス(CD5枚組)が送られてきていた。まず中国語ベストを聴く。


BAR「やまざき」の「自由」

2007-01-20 10:14:55 | 人物

 1月19日(金)「北海道の湘南」と呼ばれている伊達市で仕事を終えたのが午後7時半すぎ。朝から動きっぱなしでいささか疲れた。スタッフの車で札幌に着いたのは午後10時前。ホテルモントレ札幌に荷物を置いて外に出ると吹雪いている。気温は零下4℃。タクシーに乗り、南7条西3丁目へ向かう。数年ぶりに「仲寿司」に行った。とても新鮮な魚介類をすぐれた腕で調理する店だ。ここしばらくはひとりで札幌を歩くことがなかったので、いつも別の店に案内されていた。華やぎある店内には3組の先客がいた。旬の刺し身を切ってもらい、焼酎を頼む。日本全国どこにでもある無難な銘柄ばかりなのは仕方がない。「こんなものがあるんですよ」という隠れた勧め酒があれば文句なしなのだがなどと思いつつカウンターで飲んでいた。午後11時を過ぎたのでそろそろいくつか握ってもらって店を出ようと決めたころだ。左手に座る女性が携帯電話で誰かと話しだした。しばらくすると右手の男性が何度も携帯で話しだした。さらに酔いでいささか声の大きくなった男性が業界話を電話で語りだした。ああ、名店の雰囲気が台なしだなと思ってしまった。周りに何の遠慮もないような客が集まるような店ではダメだ。携帯電話の使用は店側が断固として断らなければ常態化する。もっとも店側が常連客などに注意しにくいというのもよくわかる。イヤなら店を出るだけだ。お勘定をお願いした。外に出ると雪は小降りになっていた。午後11時半を過ぎている。BAR「やまざき」に急いだ。午前0時半に閉店だからというよりも、この時間まで今年87歳になるマスターの山崎達郎さんが出ているだろうかと心配だった。

070120_00340002  ドアを開ける。店内には明るい空気が流れ、若いバーテンダーに交じって山崎さんの姿があった。広いカウンターのなかでてきぱきと指示を出している。足取りも素早い。店を出して54年以上。客の顔を切り絵にし、カードマジックを見せてくれる。切り絵は3万8000人を超えたという。その「すべて」がファイル化されて保存されている。わたしの切り絵も2枚保存されている。30歳代のときに一度切ってもらい、50歳になったときに再びお願いをした。山崎さんにオリジナルカクテルを注文。すでに飲んでいることから判断したのだろう。「フライハイト」(自由)をシェイクしてくれた。薬草味で最後の酒にはぴったりだ。しばらく雑談。ホテルでバーテンダーをしていて独立しても失敗する人が多いという。なぜならホテルでの仕事は分業だからだ。バーテンダーからすれば一流の客が付いてくれると思うのだが、そう簡単ではないそうだ。銀座「ル・ヴェール」の佐藤謙一さんが帝国ホテルから独立して、うまくいっていることを山崎さんは評価していた。伊達市での取材は団塊世代から上の世代の移住というテーマだった。人生のなかば以降をどう過ごすのか。高野孟さんが石津謙介さんの「人生4毛作」を紹介していたことを思い出した。25歳までは道筋を求め、50歳までは必死で生活のために働く。75歳までは自由に生きて、100歳までは「もうけもの」の時間だといったような趣旨だった。そう、これからは「フライハイトだ」などと雪の札幌で思うのだった。


「でっちあげ」はこうして生まれた

2007-01-19 08:18:40 | 読書

 1月18日(木)JAL1035便で札幌に着いたときには気温が零下4℃だった。たまたま夕張に住む人から話を聞いた。みのもんたさん、鈴木宗男さん、松山千春さんが最近も訪れた。なかでも顰蹙を買ったのは某テレビ局朝番組の取材だという。取材された人たちが不快感を語っている。仕組まれた構図に住民を当てはめていく。それだけではない。「ほかのテレビ局には答えないでください」などとも言われたそうだ。ふーん、そんなこともあるだろうなと心中で思いながら、機内で読んでいた本のことが蘇ってきた。福田ますみさんの『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮社)だ。あれはもう4年も前のこと。福岡市の小学校教師がアメリカ人を曽祖父とする教え子に対して「血が穢れている」と言ったことをきっかけにいじめを行ったという事件だ。教師は停職6か月となり、担任も外される。はじめは朝日新聞西部本社版や西日本新聞が報じ、さらには「週刊文春」が記事にしたことで全国問題化した。テレビ各局も「教師によるはじめてのいじめ」認定を大々的に報じていく。その流れで行われた報道では、教師が子供に自殺を求めるというものまであった。「被害者」の起こした民事訴訟には何と500人を超える弁護士が名前を連ねた。わたしもそうした情報を根拠にして「本当なら」と条件を付けながらも教師を糾弾した。ところが事件はまさに「でっちあげ」だった。福田さんは、なぜ事件が作り上げられていったかを具体的に明らかにしていく。マスコミ関係者だけでなく、広く読まれるべき著作だ。

 異常な虚言癖と攻撃性のある両親は、問題行動のあったわが子を「守る」ため、学校に抗議をはじめる。表面化してはならないと判断した校長、教頭、そして教育委員会は、事実を正確に把握することなく、両親の言い分をそのまま鵜呑みにしていく。「それは違う」と思っていた教師も、謝ることで問題が沈静化すればいいと思い、不本意ながら情況を受け入れていく。するとさらに両親が虚偽を作り上げて事態はさらに大きくなっていった。「週刊文春」のタイトルは「『死に方教えたろうか』と教え子を恫喝した史上最悪の『最悪教師』」というセンセーショナルなものだった。テレビで最初に教師の言い分を報じたのは「ザ・ワイド」。さらに「スーパーモーニング」もあとを追う。ところが「週刊文春」はこの報道を糾弾した。「史上最悪の『殺人教師』を擁護した史上最悪のテレビ局」という記事だ。福田さんの本には、こうした記事を書いた記者の実名も明らかにされている。問題はなぜこうした「でっちあげ」が成立したかということである。それは「教育という聖域」では、親の言い分が容易に絶対的な「正義」となりうるからだ。それを助長する学校管理職のことなかれ主義も問題だ。両者の言い分を対等に聞くことがあれば、こうした報道被害も生まれなかっただろう。取材の基本の喪失。意図した構図に「事実」を当てはめていく「見込み取材」がこうした誤報を生んだ。ひどいことだ。


宮台真司を知らない15歳

2007-01-18 09:28:22 | 人物

 1月17日(水)深夜に電話が鳴った。「表示圏外」とディスプレイに出たのでアメリカにいる長女だと思った。久しぶりに酒を飲んでいたので、いい気分で「ハロー」と言ったところ、受話器からは「舟木です」という声が返ってきた。台湾にいる舟木稔さんからの電話だった。テレサ・テン基金での打ち合わせ情況を伝えてくれた。桂林の「テレサ・テン公園」は5月にはオープンできそうだという。テレビ朝日で5月に放送されるドラマの収録もこの15日からはじまっている。関係者に連絡したところ、撮影は順調に進んでいる。近く香港、台湾、タイ、フランスと海外ロケも行われるので、どこかで見学に行く予定だ。テレサ役の女優とはそこで会うことになる。文庫本「あとがき」のゲラにも手を加えたので、あとは2月の発売を待つばかりだ。夕方のジム。プールで泳ぎながら思うことは単行本『X』の序章のこと。いちおう書き終えたところでプリントアウトして推敲を行う。ここでも試みようと思うのは吉村昭さんの方法だ。吉村さんは「戦艦武蔵」を書くとき細字の万年筆で原稿用紙に升目には関係なく文字を連ねた。1枚を書き終えたところで、原稿用紙の升目に文字を埋めながら推敲すると、ほぼ10枚になったという。これを初稿とした。それを清書しながらさらに推敲する。こうして完成稿ができあがっていった。この吉村さんの方法が教えることは、何度も推敲を重ねることの大切さだ。「戦艦武蔵」「破獄」「冷たい夏、暑い夏」は、ノンフィクションのすぐれたお手本とすべき作品だと再確認した。

 畏友である坂上遼さんに電話をする。『ロッキード秘録~吉永祐介とその時代』は5月には発売されるという。日本政府の極秘電文を入手したというから、この事件にも新しい光が当てられることだろう。話をしていて気になったのが、その次に書くという55年前の事件だ。行方がわからなくなっていた人物を探し出したという。事件の核心を握っている男だ。もしも口を開くならば衝撃的な証言を得ることができる。翻って単行本『X』の困難を思う。1971年にNHKで放送された「ある青春」という番組を探していた。まさに木村久夫さんを描いたドキュメンタリーだ。ところがNHKアーカイブスに問い合わせたところ、存在していないことがわかった。1971年にはビデオも普及していない。NHKでも放送後は特別な番組以外はフィルムを廃棄してきたという。この番組については一部分の録音テープ、シナリオを高知で入手しているが、本体を探すことは無理だとわかった。倉庫にも埋もれていなかったからだ。時間の流れは厳しい。そう思ったのは今朝杉並区の和田中学校で藤原和博さんの「よのなか科」の授業を生徒とともに受けたときのこと。テーマは「ホームレス」。たまたま宮台真司さんも見学に来ていた。社会学者として紹介されたとき、藤原校長が言った。「宮台さんを知っている人」。ところが誰一人として知らなかった。15歳にとって宮台さんは未知の人物なのだ。授業はとても興味深いものだった。その様子はいずれ「ザ・ワイド」で放送される。


「パリ、ジュテー厶」の輝き

2007-01-17 06:59:04 | 映画

 1月16日(火)半蔵門から神保町に向う電車に乗る。混雑する車内の光景がいつもと微妙に違うように見えるのは、その直前まで見ていた映画のせいだろう。「パリ、ジュテー厶」。世界の監督18人が5分間の愛のストーリーを創り上げた。もちろん作品は18本。最後に歌声が流れるとともに、すべての物語が見事に合流していく。たとえばこんな男女の世界。場所はパリ「五月革命」で知られるカルチェラタン。初老の男性がレストランに入ってくる。別居中の妻と離婚の話に決着をつけるため、アメリカからやってきた。飲み物には妻の好みであるボルドーの赤ワインを注文する。妻には親しく交際する若い男性がいる。夫も30歳の女性と結婚するつもりだと言う。「子供を作る」と伝える夫に妻が呆れる。そこで夫が口を開く。「いま妊娠4か月なんだ」。弁護士は夫が連れてくる人物だけでいいと言っていたのに、席を立つ前に妻が言う。「わたしも弁護士を連れてくるわ」そう言われた夫は「クソ女」と罵る。先に店を出た妻を送る夫の表情が哀愁に満ちている。コミカルな作品もあればホラーな作品もある。すべてを通して描かれているのは、人間は人間の連なりのなかで生きているという単純だけれど、普遍的な真実だ。別れがあれば出会いがある。どんな境遇にあってもそこで楽しまなくては損ですよと教えてくれる映画なのだ。パリの街角を舞台にしたのは、フランス人の生き方をその模範にしたからなのだろう。神保町で降りて東京堂書店で『酔醒漫録』にサインをした。ショーウインドウにもすでに展示してくれている。ひとつ下の段には都はるみさんの『メッセージ』(樹立社)があった。今夜も迷いなく酒を飲まずに帰宅する。

070116_18530001  与えられた環境のなかで人生を楽しむには絶対的な条件がある。戦争を避けることだ。地下鉄のなかで吉村昭さんの『戦艦武蔵ノート』(文春文庫)を読み終えた。推敲の方法など、ノンフィクションを書くときの優れたテキストだ。しかしこんど読んだときには、戦争をテーマとした単行本『X』をいかに書くかという視点からの再読だから、これまでにない新鮮な発見があった。たとえば「すでに埋もれかけているあの戦争という歴史」という記述がある。いつ書かれたエッセイだろうかと末尾を見れば、「昭和45年」とあるから1970年だ。戦争が終わって25年目の吉村さんの感慨である。それからすでに36年が過ぎ去った。「埋もれかけている」どころか「埋もれた」のかもしれない。それを掘り起こすことはとても厳しいと自覚している。「あとがき」で吉村さんが取材した人たちを数えれば76人だった。それでは単行本『X』の現状はどうかと数えてみれば32人。吉村さんの取材は戦争が終って20年の時点で精力的に行われている。62年は遥かに遠い。吉村さんはこうも書いている。「戦争の歴史に関することを書く著作家は、参考資料を机上につみ上げることよりも、外に出て歩くべきだ」。そうだと思う。歩けば意外な資料が発掘できるのだ。戦前の社会運動を調べるために再び高知を歩くことにした。


田中康夫は都知事選に出るか?

2007-01-16 08:24:33 | 政談

 1月15日(月)『酔醒漫録』(にんげん出版)の見本が送られてきた。第3巻は2002年7月から03年6月、第4巻が2003年7月から04年6月の日記すべてを収録している。来週には一般書店にも並ぶが、もしサイン本を必要とされる方がいれば東京堂書店にメールか電話で注文していただきたい。いま製作中のフクロウの落款を押してお届けするつもりだ。第5巻、第6巻は今秋に発売すべく作業を進めることになっている。「ザ・ワイド」が終わり、荷物を置いて銀座へ。プランタン銀座に近づいたとき、長女から電話があった。アメリカは夜中の3時前。携帯電話と携帯電話のやりとり。距離は遠くとも声の伝達だけで判断すれば、あまりにも近い。「ビゴの店」でパンを買う。教文館で大道寺将司第2句集『鴉の目』(現代企画室)を探したが見当たらず。店員に訊ねるとわざわざ電話をしてくれた。取り次ぎに搬入されるのが今週だという。8丁目の「ランブル」で珈琲を飲みながら読書。単行本『X』冒頭に「その時代の匂い」をどう表現するかを考えていた。すぐ隣の「大島ラーメン」に入る。再び日本テレビに向かうのは午後8時すぎから「太田光の私が総理だったら」の収録があるから。6丁目の「瑞花」に立ち寄る。1月中の限定販売である「うす揚 和風しょうゆ味」が安くて美味しいのだ。テレビ局に入ったところで田中康夫さんにばったり遭遇。しばしの立ち話はやはり政局。伏せ字入りで恐縮だがこんな会話を交わした。

070115_17190001  「やっぱり東京の知事選挙でしょ」「いやいや。何かブログに書いちゃってー」「田中さんが出れば面白くなりますよ」「だってさー、石原当選で東京オリンピックを前にして××になった方が面白いじゃない」「そうかなー」「××建設の問題もあるからわからないよ」田中さんはニコニコしているだけだ。あとはスポーツジムの話など、まさに雑談。石原慎太郎都知事が3選を目指して立候補するのに対して、田中康夫さんが東京オリンピック反対を公約に立候補すれば、充分に争点化する。民主党の独自候補として蓮舫の名前も挙がっているが、やはり構想力や首長としての実績などから判断すれば田中康夫さんに期待するところがある。都知事選立候補を否定をしなかったことは、人々が求めるところで仕事をするという田中哲学からして、可能性がないということではないからだろう。ある政治ジャーナリストも「どうもやる気のようですよ」という。東京選挙区からは川田龍平さんが立候補する。もともとは「平和」を軸にした統一候補を模索していた流れから生れたものだ。立候補は自由だが、これでは「平和」を求める票が分散するだけだろう。リアリズムの問題だ。ジャーナリストの斉藤貴男さんが社民党の比例代表から立候補するとかつて書いた。そこで又一征治幹事長が比例1位だと書いたが、これは誤り。非拘束名簿式だから、斎藤さんが立候補して1位になる可能性も充分にある。収録が終ったのは午後10時すぎ。酒も飲まずに大人しく帰宅する。


殺人の記憶を求めて

2007-01-15 07:59:37 | 単行本『X』

 1月14日(日)関東のある港町で夕方の4時半から新鮮な魚をつまみに飲んだ。この街に来るかどうか。昨夜からずっと考え、そして決断したのだった。昨年の5月のこと。単行本『X』の取材でインド洋のカーニコバル島にいた元兵士に話を聞いた。そこで起きた住民虐殺事件は単行本『X』の主人公である木村久夫さんの運命を決定した。その事件の周辺についてはすでに何人かから証言を得ている。上官から命じられ、無実の住民を殺害した兵士たちがいる。実行者であるが何ら罪に問われることなく日本に戻り、黙したままそれぞれの生活を再開している。そのひとりの消息を聞き、当時の忌まわしい出来事を聞こうと思った。戦友がかつて聞いたときにも「かんべんしてくれ」と言って話題を変えたという。そこで迷った。人生の終盤に見知らぬ男が突然に現れて、おそらく家族にも隠していたことを聞きたいと切り出したとき、どんな対応をするだろうか。電話で取材を申し込めばそこで拒絶される可能性が高い。手紙はどうだろうかとも思った。これも返事がないか断りの葉書が来る可能性がある。やはり異常な経験を無理して話していただくには直接会ってお願いするしかないと判断した。そこに向かうまでの4時間ほどの車内では五十嵐顕さんの『「わだつみのこえ」を聴く』(青木書店)を読んだ。これで3度目だ。違和感はますます深まっていく。ご自身の「戦争責任」を振り返るために木村久夫さんの遺書を素材に使っているからだ。五十嵐さんに必要だったことは、自分史を隠すことなく記録することだったのではないか。こう書いて虚しいのは、戦争経験なき者がこんなことを述べる資格などないだろうと思うからだ。

070114_13150001  ただし、あえてこう書くのは、全責任を負って木村久夫さんの人生を記録する決意があるからだ。見たくないこと、聞きたくないことをも直視すること。それはいつか明らかになるだろう拉致問題の悲劇などにも共通する歴史の残酷さである。駅前からタクシーに乗る。住所を告げ、やがて目的地の近くで降りる。犬の散歩をしていた高齢者にある専門職の名前を訊ねた。いまはもう無くなったけれど息子さんがいるという。道路を左に行った右側だと教えられた。心急いてそこに向う。しばらく歩くのだがわからない。再び道を戻り、道行く人に訊ねる。ようやく「ここだ」という建物にたどりついた。ところが留守。念のために電話をすると室内で呼び出し音が鳴り出した。近所の人に話を聞くとその人物はすでに亡くなっていることを知った。だが探している人物とは名前が違う。さらに同姓の家を探し、話を聞くと、在所の長老に電話をしてくれた。やはり探している人物はここら辺にはいないことがわかった。そもそも戦友が教えてくれたのは名前とその土地だけであった。そこで番号案内で探したところ、その業種でその名字は1か所しかなかった。高齢ゆえに息子が継いでいるだろうと判断したのだった。空振りだ。昨年別の取材で訪れたときに立ち寄った駅前食堂で酒を飲みながら思った。振り出しに戻ったけれど、忌まわしい想い出を聞くことにならずによかった。それでも明日からは再びこの人物を探す努力をはじめる。電車のなかで乗客が座席に足を投げ出すような土地での一日だった。


「全身歌屋」都はるみの神々しさ

2007-01-14 08:47:40 | 人物

 1月13日(土)灯が消えた。演奏がはじまる。宇崎竜童さんの「ムカシ」だ。前から2番目のおそらく60歳代の男性が身を乗り出した。緑のジャージで袖には白いストライプが入っている。まるで散歩のついでにそこに座っているかのようだ。椅子から腰を浮かし、前のめりの姿勢で腕を大きく左右に広げて手拍子をはじめた。手の動きに応じて身体が右に左にとうねっている。60歳代を「中年」と呼ぶかどうかは別にして、とにもかくにも、この世代が熱狂している。4席後ろにいるわたしには男性の一挙手一投足がプラズマテレビの画面のような鮮明さで眼に入ってくる。新宿コマ劇場で行われた都はるみコンサートのほほ笑ましい光景だった。かつてタイミングよく「ミヤーッコ。はるみっちゃん!」という芸術的ともいえる掛け声をかけるファンがいた。15年ほど前のことだ。「あっ、またこの声だ」といつも思っていた。顔を見たことはないけれど、まるで香具師が口上を語るような渋い声質だった。いつしかその声が聞こえなくなった。都はるみファンの世代交代。それでも会場のあちこちから舞台に立つはるみさんに声がかかる。以前ご本人に舞台から知っている顔が見えたら歌いにくくないですか、と聞いたことがある。実際には照明で見えることは少ないようだが、「あっ、××さんだ」ということもあるようだ。わたしは前から6列目に座っていた。顔だけでなく、手の平さえよく見える距離だ。「あんまり前の席にこないでね」と言われたことがあったので、近くに来たときには視線が合わないようにした。一瞬でも意識が動けば申し訳ないからだ。

 コンサートのテーマは昨年亡くなった市川昭介さんの追悼だろう。最初から最後まで市川さんのヒット曲が目立った。舞台のはるみさんを見ていていまさらながらに思った。この歌手は与えられた作品を類いまれな歌唱力だけでなく全身で表現している。「全身歌屋」だ。悲しい曲のときには身体全体から哀しみが伝わってくる。嬉しさや楽しさを表現する作品のときにはそのような表情としぐさになる。喜びや悲しみが指先にまで現れている。15歳からいままで歌ってきて、精神が解放されたところにまで達した姿がそこにはあった。辺見庸さんが「東京新聞」(1月12日付、夕刊)で語っていることをふと思い出した。病気になり、「時間が残っていない」ことを自覚することで、「ひたすら本音に徹することにした。つまり、自分をはじめて〈解放〉したんです」という。そう、都はるみさんの歌唱にも精神の解放という普遍があるのだ。第二部なかばが山場だった。「一番逢いたい人」を歌う都はるみさんからは、まさに神々しさが漂っていた。悲しみが胸にあふれてたまらなく寂しい夜に、いちばん会いたいという人を思い出し、かつて優しく語ってくれた言葉ーー自分らしく生きることが大切なんだよーーを思い出すという作品だ。わたしにとって「都はるみベスト10」の上位にある曲を年初に聴くことができて心に決めた。この「一番逢いたい人」をi-Podに入れて2007年のテーマソングにしよう。「夫婦坂」を歌っているときにも前列の男性は身を乗り出したままだ。はるみさんが歌い終えるときには両手を合わせ、頭を下げて拝んでいた。そして最後の「好きになった人」。いつものように最高潮の熱気があふれていた。中高年に熱狂の対象があるという幸せ。そういうファンがいる都はるみさんの幸せ。とても心温まる2時間だった。


山崎拓訪朝は統一教会ルートだった(2)

2007-01-13 10:19:13 | 政談

 1月12日(金)北朝鮮に入った山崎拓自民党元副総裁は何も成果を得ることなく帰国するだろう。山崎氏は今度の訪朝を「核問題を話し合うため」と語り、マスコミもそう報じてきた。「表向きは核問題と言っているが、狙いは実は拉致問題。小泉前首相の3度目の訪朝の地ならしが目的」という見方もあった。ところが小泉側近の飯島勲氏は「100パーセントありえない」と断言している。政治家の行動などは「世論の求めがあったから」という一言で、前言を翻すことがしばしばだから、飯島発言を額面通り受けとるわけにはいかない。小泉前首相の頭にあることは、「3度目の訪朝を期待する声」が高まることを通じて、首相再登板という世論が起ることである。ところが今度の山崎訪朝についていえば、統一教会系の「ワシントンタイムズ」社長がおぜん立てをしたことがわかると、まったく異なった世界が見えてくる。利権だ。統一教会は北朝鮮で自動車会社やホテルを経営しているが、さらなる投資先を探している。北当局にとっても統一教会は「利益共同体」である。最近再び動き出したプロジェクトは「日韓トンネル」。将来的には北朝鮮とも鉄道で結ぶという壮大なプランがある。山崎氏はこの計画を進める「日韓トンネル研究会」の顧問を務めている。「山崎先生に期待しています」という関係者は少なくない。九州の業者の経済的利益と北朝鮮の利益を結ぶーーこれが山崎訪朝の隠された目的である。

070112_14220001  銀座を歩きながらふと思いつき、ニューヨークにいる長女に電話をした。日本ではNYが暖冬だと報じられていると伝えると、雪こそ降っていないが寒いという。伊東屋で文房具を見ているうちにドイツ「カステル」の水性ボールペンを衝動買い。軸が木製で、筆記の滑らかさが気に入った。教文館で渡辺京二『なぜいま人類史か』(洋泉社)と梶洋哉『銀座の粋を巡る』(朝日新聞社)を入手。渡辺さんは『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)で江戸時代に生きた日本人の自由さを見事に描いたが、その原型となる「外国人が見た幕末維新」が収録されている。隣のアップルストアで「ザ・ワイド」新年会の景品を探す。8丁目まで歩いて「カフェ・ド・ランブル」へ。『銀座の粋を巡る』に紹介されていた「珈琲だけの店」。店主の関口一郎さんは90歳を超えた。昭和23年に開店したこの店には、10年以上も生豆を寝かした「オールドコーヒー」もある。カウンターに座りモカを飲みながら読書。時間があるので映画を見るか、それともジムで泳ぐかを迷う。結局、表参道まで移動して時間をかけて泳ぐ。再び銀座線で赤坂見附。午後7時半から赤坂プリンスホテルで行われた「ザ・ワイド」の新年会に出席。景品の抽選会で何とハワイ旅行(3泊5日、ペア)が当ってしまった。2007年の運がこれですべて使い果たされたような気分になる。


吉村昭の「飲酒の流儀」

2007-01-12 08:56:36 | 人物

 1月11日(木)ジムを出て冷たい空気に身をさらす。爽快だ。築地市場の正門を入ったところにある「市場の厨房」で小さな新年会に出席する。テレビ業界の四方山話が面白かった。銀座方面に歩きバーにでも寄るかと思ったが、ふと無意味さを感じて帰宅。こんな感覚が普通になってくるのだろうか。『文藝春秋』2月号に掲載された梯久美子さんの「栗林中将 衝撃の最期」は読みごたえがあった。ノイローゼ説、投降説を資料に基づいて砕いていく過程はスリリングでもある。とくに栗林中将の最期を描いた1ページ半は、筆者にすれば単行本のラストシーンに置きたかったことだろう。単行本を出す。それに対する反響に応えるなかで新しい発見がある。理想的な展開だろう。それにしてもと思う。どうして風聞をエスカレートさせて新しい物語を作り上げる人物がいるのだろうか。栗林中将の最期を証言したH氏は、果して意図して根拠を変転させたのだろうか。おそらくそうではないだろう。語るうちに聞き手との関係において物語が流れていくのだ。いちど作られた世界が自己増殖していく。悪意はない。否定できる者がいない条件のなかで、自分が作り上げた世界は誰はばかることなく自由に広がっていく。そう思うのは、テレサ・テン「スパイ説」を何度も証言していた人物から二度話を聞いた経験があるからだ。まったく根拠はなくとも、無関係の事実が周囲に積み重なることで虚偽があたかも真実であるかのように見える。だからこそ歴史読み物は難しい。資料批判だけでなく証言の信憑性を確かめなければならないからだ。語られるほどに整合性あるストーリーに形成されていく証言がある。何が事実だろうかと思うことはしばしばある。だからこそひるんではいけない。吉村昭さんの『戦艦武蔵ノート』(文春文庫)にこういう記述があった。

 私の内部には、「戦争は実在した。たしかに実在した。もしもお前が戦争をとらえようとするなら、まずその実態を知らねばならぬのだ」という声がしきりにする。戦争を書く、その象徴ともいうべき「武蔵」を書こうとすることは、戦場経験もなく、造船のイロハも知らぬ私にとって大それたことらしい。くず折れかかる気持ちと、ひるむなという意識とがはげしくからみ合う。

070111_18320001  「ノート」を連載していたときの吉村さんは38歳。「くず折れかかる気持ち」を「ひるむな」と自己を叱咤して「戦艦武蔵」を書きあげたのは1966年だから39歳のときだ。さらに80枚で終っていた「ノート」連載時の原稿に加筆して『戦艦武蔵ノート』を公表する。いずれにしても30代後半から40代はじめのころの吉村さんの試行錯誤がここには伺える。どんな分野でもこの40代前半からなかばごろには仕事ぶりにも勢いがある。吉村さんは50歳を超えたころから「掟」を作った。午後6時になるまでは酒を飲まないというものだ。かくて毎夕6時からから深夜0時まで酒を飲む生活がはじまった。ところが肝臓に支障のあることがわかってからは、編集者などと飲むときを例外にして、普通は午後9時から0時までビール中瓶1本、日本酒2合半、ウィスキーの水割り4、5杯を楽しむと決めた。年齢とともに生活や仕事のスタイルに変化がでてくるのも当然なのだろう。