有田芳生の『酔醒漫録』

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大岡昇平「野火」の現実

2007-01-09 07:33:45 | 読書

 1月8日(月)一歩も外に出ないうちに暮れてしまった。朝から文庫「あとがき」を書く。ノンフィクションの「あとがき」にフィクションを加えた。必然性があり、その部分がどこであるかをわかるようにしたからこれでいい。こんな手法もありうるなと発見。編集者からは400字7枚以上と言われていたが、最終的には16枚ほどになった。今日もまた休憩時間に志ん生を聴く。今年2冊目に読了したのは大岡昇平さんの『野火』(新潮文庫)。ここでも思うことは戦争経験の有無という問題だった。田村一等兵はフィリピンの戦場で病気となり、軍隊から追い出される。病院が米軍に襲われたため、単独行動を強いられる。ただただ彷徨うけれど、そこで観察する自然は美しい。やがて食料が尽き、身体に吸い付いた蛭(ヒル)を口にする。偶然か必然か。ある局面で現地の女性を銃殺してしまう。やがて敗残兵と合流。食料として「猿」の乾燥肉を与えられる。物語はここらあたりから佳境に入っていく。はたして戦場の地獄に神はいるのか。吉田健一さんが昭和29年に書いた解説では、「日本の現代文学に始めて小説と呼ぶに足るものが現れたという感じがする」と評した。吉田さんは何もないから無理に小説としていると当時の文壇に厳しい。それでは現在は「小説と呼ぶに足るもの」があるのだろうか。最近の芥川賞などを読んでもさっぱり面白くない。野坂昭如さんの『文壇』(文春文庫)を読みはじめる。三島由紀夫や吉行淳之介が健在だった時代。綺羅星のように輝く作家たちは、すぐれた批評家や編集者たちに支えられているのでもあった。

 大岡さんの作品は、世代としての戦場体験の圧倒さを伝えて重い。精神病院に入った田村元一等兵は、こう述懐する。「現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解出来ない」。そしてこう続ける。

 恐らく彼等は私が比島の山中で遭ったような目に遭うほかあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。

 この小説は朝鮮戦争が続く昭和27年に発売されている。再び日本人が戦場に駆り立てられる兆候を見た大岡さんは、主人公にこのような手記を書かせた。「私が比島の山中で遭ったような目」とは『野火』で描かれたように人肉を求めて殺人を犯す狂気である。ここにある世界は、直接の戦場経験はないにしても銃後で苦労をした吉村昭さんや野坂昭如さんの作品とも異なっている。圧倒的な質感を持って迫ってくる小説なのだ。戦争を知らない「半分は子供」の〈わたしたち〉は、知識としてではなく、感性としてこうした作品を読まなければならない。『成城だより』(講談社文芸文庫)の年譜を見ると、大岡さんがフィリピンのミンドロ島を彷徨ったのは36歳のときであった。「昏倒中、米兵に発見され、捕虜となる」とある。それに対応するシーンもある。そうすると『野火』の記述はどこまでが現実でどこまでがフィクションだったのだろうか。もしかして大岡さんは……という思いがいっきょに膨らんできた。