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日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

『脳みそラクラクセラピー』読み直して発見。

2017-04-25 21:58:15 | 本の紹介
 自分の分だけ珈琲を淹れる手間を惜しんで、缶珈琲を買いました。
新しいパッケージに惹かれて買ったのだけど、珈琲の味が薄くていまひとつ。

 原材料はコーヒー。
もしかして、コーヒーの原液、水で薄めてるのかしら…。

 思うところあって、少し前から愛甲修子さんの『脳みそラクラクセラピー』を読み直していました。

 

 この本は、私が子どもと接するときに、
私が勘違いをしてしまわないように、何かの節目のとき、新しいことをしようとするとき、
こうで良かったかなぁ、と思うときなどに折りに触れ読み直す本です。

 仕事から帰って、お茶を飲みながら、寝る前の数十分と個々何日かちょこちょこ読み返していました。

 本の中にこんな箇所があります。

 パニックを起こしているときには、あることがきっかけとなって、
過去の嫌な記憶が芋づる式に出てきているんですよね。
自分の思いが前にも通じなかったときや苦しかった身体記憶が蘇ってきているんです。
だから「通じてるな」と納得してもらうことが必要なんです。<中略>
思いを受け入れることではなく、通じればいいんです。
結構むずかしいんですけれど、気持ちが「通じたな」という実感を持てるような対応をしていただけることが大切です。


 この、「あ!通じたな。」という実感は、
子どもとの間に信頼関係を築き、安定感をもたらすものだと思います。

 この「通じる」というは、子どもにただ迎合することではないと思います。
子どものもつ、痛みや辛さはわかるけれども、ただ、痛みや辛さを舐めてあげるだけではなく、
そこから、一歩出るためにはどうしたらいいのか、を考え、提案する。

 この一歩出るための方法が、少し前までは、ああしたら、こうしたら、と、
人間脳の部分に訴えていたなぁ、と本を読みながら思いました。

 でも、『脳みそラクラクセラピー』の時点で、私が気がつかなかっただけで、
愛甲さんが本なのかで書かれている子どもさんとされていることは、
言葉以前の部分を大切にされていたことなのだなぁ、と思いながら読み返すことでした。

 ゆったりと、言葉以前の部分を大事にして子どもと接していくことは、
安心感が揺らいでいる子どもさんには大切なことだなぁ、と本を読み直しながら思うことでした。

 理解の歩みの遅い私ですが、おかげで新しい本と前に出た本がリンクして、深くなります。
塞翁が馬!ってことに、しておきましょう。
 

勉強するって、どんなこと?

2017-04-24 22:21:21 | 発達応援
 桃ちゃんが吐く、梅ちゃんが吐く。
吐いた後、どちらもケロリとスッキリして、ご飯催促。

 はやく、夏毛にかわって欲しいと切に願いブラッシングに勤しむ私であります。

 ちぃは、ブラッシング嫌いだけど、吐かない。
あんまり、体舐めないからでしょうねぇ。
漢なちぃであります。

 中学校で支援員をしていたときに、宅習の支援をしていたことがありました。
宅習、というかたちで「ノート1ページ分、毎日やって出しましょう」と言われたときに、
何をしていいかわからず、どんどん宅習がたまっていく子どもたちがいました。

 「とにかく、出しなさい!」と言われると、
教科書をそのまま、ぎっしり書き写して行く子やノートの行を4,5行使い大きな字を書いて埋める子。

 どちらも「そんなの勉強って言わない!宅習になっていない!」と怒られてやり直しを言われても、
何がダメなのか、わからずに途方に暮れて宅習がたまっていっていたので、
昼休みや放課後を使って、一緒に勉強をすることになった子どもたちでした。

 宅習、というものを「今、学校で習っていることの復習や予習に使う」とか、
「テストが近いから、テストの勉強に使う」など、
宅習というものをどのような位置づけでやっていくか、ということもわからずに、
なんとなく、開いた教科書を写経ならぬ写教科書のように写していく、
時間はかかるし、頭には残らないし、という苦行を己に課しているような学習をしている子どもたちでした。

 そのような子どもたちが、普通のクラスに数人ずついて、
怒られても何を怒られているのかわからず、ぽかんとしている姿が、
あまりにも毎日続くので、本人や担任の先生と話しをして一緒に学習をすることになったのでした。

 そこに至るまで、小学校でも6年間、中学の2年生だと7年間の学習期間があるのです。
その間、どんな気持ちで学習に臨んでいたのかなぁ〜、と思うことがありました。

 普段の学習のやり方はわからず、定期テストで突きつけられる成績も良くはない。
ただ、「勉強しなさい!」と言われ続ける。

 子どもたちの中には、そもそも勉強の仕方がわからなくて途方に暮れている、
そんな子もいるかもしれないことを子どものそばにいる人は知っておいたほうがいいかもしれないなぁ、と
思うことです。

やり方色々。

2017-04-23 21:22:10 | 日記
 春先の安定しない気候のせいなのでしょうか。
桃ちゃんの調子が悪く、けろけろっと吐いています。

 吐瀉物を観察すると、毛玉がだいぶ入っているので、
長毛の桃ちゃんは夏毛に変わる季節でもあるから、毛玉が胃にたまっているのかなぁ〜とブラッシング。

 ちぃと梅ちゃんは、しっかり極太で我が家の歴代の猫たちの伝統を脈々と引継いでいますが、
例外で、とっても小さい桃ちゃんなのでちょっと心配ではあります。

 何かを実行する方法は、それぞれ色々なやり方があります。

 たとえば、掃除ひとつとってもそうだと思います。

 私はマメに掃除をするほうではありません。
思い立ったら、掃除の神様が降りてきたかのように、食うものも食わずやることがあります。
やったあとは、一応、それを維持する努力はしますが、まぁ、だんだんと散らかってきます。

 これが積込みの仕事の後の片付けはテキパキ、他の人の動きも見て片付けますし、
学校という場で仕事をしていたときも、帰るときには机の上には何もない状態で帰っていました。

 また、本を読むときは、とりあえず、一気に読む場合もあれば、
メモを取ったり、メモから派生したことを調べながら本を読んでいくこともあります。
読みながら、ぼーーーっと考えることもありますし、そのまま寝てしまうこともあります。

 ただ、積込みの仕事の研修として本を数冊読んで、レポートを書く場合は、
2日間ほどで読み終えて、レポートを書いて提出します。

 これらのことは、仕事の状況が違うから、それに対応するようにしているだけで、
特別なことでもなく、当たり前のことではあります。

 その場がどんな場なのか。
もしかしたら、読み違えている場合もあるかもしれません。
でも、自分なりに今はどんな場かなぁ、何をどうするのがいいのかなぁと見ることができることは、
仕事でも学習でも必要かもしれないなぁ、と思うことです。

 ふと、本を読みながらそんなことを考えた日でした。




 

体を動かす。

2017-04-22 22:34:23 | 発達応援
 お米が切れたのですが、もち麦と押し麦ともち黍があったので、
お米抜きで麦と黍のみを炊飯器にいれ、しばらく置いて炊いてみました。

 元々、麦ごはんが好きなので、むちむちした食感がおいしくて、
いつもと同じでぱくぱく食べてしまいました。

 でも、香りは炊きたてのご飯に遠く及ばないですね。

 自分で体を動かすと、思った以上に動けなくて驚くことがあります。
頭の中で、「こうやって〜〜〜」と思っていても、実際やってみるとできなかったりします。

 今日は、足の親指を使うようにしながら、腹這いになり腕も同じ側を伸ばして、
ずりずりー、ずりずりーと匍匐前進のような動きをしていました。

 これが、思いのほかうまくいきません。
右足を中心にするときにはまだ良いのですが、
左足の親指に力をいれようとすると、思ったように力がはいりません。
力ははいるのですが、自分の体を力強く前進させるほどにうまく力がはいりません。

 匍匐前進の先に寝ている、我が家の猫に不審の顔で見つめられながらも続けていくと、
少しずつやりやすくはなるものの、体が自分の想像の通り動かないことのもどかしいことよ!

 思い通りに動かないと、疲れるのも早いですね。

 と、ここで、こういう、自分の身体を自分が思うようにコントロールできないことが、
凸凹っ子たちには日常茶飯事なのだなぁ、と思うと、
そりゃ、疲れるし、まるで飽きたかのようにやっていたことやめちゃうよね、と納得することでした。

 凸凹っ子たちのためにと、体を動かそうとする保護者さんや支援者さん。
やっぱり、自分も色々、体を動かしたほうがいいですね。
むしろ子どもではなく、保護者さんや支援者自身が体を動かすのが先かもしれません。

 思うように動けないことのもどかしさ、体の疲れ。
どう動かせば良いのかの自問自答、自問自答してもわからない体の動かし方。
色々なことを自分で体験して、実感するといいと思います。

 それでも、工夫したり、どうにかする知恵が大人にはあったりしますけれども。
どうにもならない場合、どうするか…。

 自分で動くと、動いただけ感じたり、わかることがありますね。
自分が体を動かすことを大事にしたいと思います。

祖母力。

2017-04-21 22:16:42 | 発達応援
 近ごろ、梅ちゃんが激しく寝言を言います。

 

 ぐっすり眠っているのに、突然「にゃん!」とか「ぐぅううううう」「にゅにゃっ!」と鳴きます。
あまりにも大きな声で鳴くので、近くで寝ているちぃが驚いて起きるくらいです。

 どんな夢を見ているのでしょうねぇ。

 今日は積込みの同僚とドライブに行きました。

 その道中、同僚のお孫さんの話しを聞きました。

 「もうね、それはしてはダメ!といっても、もうね、言うこときかんのよー」と、
にこにこ朗らかに話していました。

 また、兄妹喧嘩をして妹が
「学校いかない!」と駄々をこね、じいちゃんが手を焼いて、
積込み中の同僚に電話をかけてきて、早引きしたことがありました。

 その時の様子を話してくたのですが、
「学校いかない!」といって、家の玄関で泣くお孫さんに、
「○○ちゃん、学校はいかないといかんのよ!」とランドセルを持って歩くと、
とぼとぼ、後ろをついてきたそうです。

 そして、学校について「教室に行くよ」というと、
「遅れたからいやぁ〜〜〜」というお孫さんに、
「○○ちゃん、遅れても行くのよ、学校は!」とずいずいずいと教室に行くと、
また、うしろをとぼとぼついてきたそうです。

 そして、「帰ってくるのを待ってるからね〜〜」と、家路に着いたそうです。

 家に帰ってきたお孫さんは、朝のことなどけろっと忘れていたようだった、と
わっははははは〜〜〜と、大笑いしていました。

 話しを聞きながら、親とはまた違う感じでお孫さんをかわいがる、
おばあちゃんの何とも言えない、無償の愛情を感じることでした。

 そして、理屈抜きの「学校はね、行くのよ!」の単純明快な感じが、
ともすれば、子どもの心情を細やかに考え過ぎる親御さんの心情とは一線を画しているのが、
これまた、いいなぁ〜と思ったのでした。

 ああ、私もこういう祖母からの無償の愛情をもらっていたなぁ。
そして、明治生まれの祖母もまた、物事を複雑にせず、単純明快に考える人だったなぁ、と
懐かしく思い出すことでした。

 祖母。
なんだか、ありがたい存在だなぁと思うことでした。