ぶらり紀行

宝塚市近郊の神社仏閣・祭り山車を中心に訪れた様子をレポート

五軒家地車

2011年01月06日 08時27分07秒 | 地車祭礼まいり
今年はどれだけ週一アップ持続できますかね?(笑)

目標は、一年間週一アップで行きます!!


平成23年度トップバッターは、「相野」で年明けです。

昨年度初めて拝見しました!

大阪府富田林市五軒家町・五軒家地車・錦織神社秋祭礼に曳きだされます。

平成22年町曳きの様子

南河内おなじみの曳き唄
つーつーれろれろつーれーろ、つれられそれつれそれ、つっつれられそれ、しゃしゃりこしゃんしゃんしゃ・・♪

昨年川面秋まつりで南さんが曳き唄?唄ってましたね。異文化交流大いにありですが、村祭りの様子が変わるのは私は、好きではないです。

町曳きは、ゆっくりゆっくり進みます。









南河内、泉州地方にみられる提灯セットされてなくてラッキーでした。
提灯セットされてると獅子噛や屋根まわりの彫物みれません。



五軒家が紹介されてます。HP等によりますと、平成2年の修理時に発見された棟札から『神武天皇御即位紀元二千五百四十三年奉納棟上』=明治16年製作

五枚板型の地車です。

彫物師・相野得兵衛、山鳥亭盛貞
相野銘地車であります♪♪



向かって右前板
三国志・関羽雲長



同じく右後板
劉備玄徳



台八前
獅子の親子・子は乳飲んでます。



相野は相野でも川面東の彫物とは手は違うようですね。
しかし脇障子の獅子の谷落としの構図とかなぁーんか感じるもの・匂い(笑)があります。!!!

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6 コメント

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東つながりで・・・ (首地蔵)
2011-01-06 10:50:50
川面東だんじりの製造年に関してひとつのヒントがでてまいりましたのでご報告いたします。

宝塚市史の資料や町並み保存会の本にもたびたび登場する八荷屋仁兵衛(はっかやにへい=苗字は澤野)さんですが、この方のひ孫に当たる方(現在のM田家)の奥さんに先日話をきくことができました。現在70代後半。

おばさんは昔から東だんじりはこの澤野仁兵衛が寄贈したものであるという話をよく近所の人からきいていたらしく、じっさい昔は先代にいろんな人が話をききにきていたそうです。

昨年ここに小浜東若中に関するメモをご報告したかもしれません。そのメモは八荷屋仁兵衛が施主で、世話人3名、大工1名の名前が書かれた明治4年のものです。

そこでM田家の過去帳を見せていただいたところばっちり仁兵衛の名前があり、彼は明治33年61才で亡くなっておりました。

仁兵衛氏は明治元年にはすでに醤油醸造人として名前がでてますし、また伊丹の実業家と組んで小浜に芝居小屋(納沢座)を興したり、また相撲の興行を小浜で主催したことからもかなりの有力商人であり、また町の顔役であったこ
とは容易に想像できます。

だんじりを寄贈したわけですから、仁兵衛氏がそれなりの年齢で、金が自由になるポジションにいなければならないです。 としますと、

明治14年は42歳、
明治4年は32歳、
明治元年は29歳、
仁兵衛25歳は1864年(文久~元治)、

現在と年齢に対する感覚が違うのであれですが、20代前半で寄贈したとはすこし考えにくく、若くとも25歳から上の時期であったのではないでしょうか? 私は明治4年がくさいと思ってますが、以上のようなことから東だんじりの製造年代は1864年~1871年までの間とかんがえますが、いかがでしょうか?
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まいど! (あにき)
2011-01-06 19:54:03
首地蔵さん!!!!

少々突っ込を(笑)・東かかってます?この題は五軒家?

いきなり来ましたね(笑)

この段階ではなんとも判断できませんが、製作年代としては、ストライクゾーンには間違いないとは思いますね。
確証的な文献が出ていないのでどうのこうのは言えませんが、メモの内容がイマイチぴんときませんのでその内容を会った時にでも。
出来れば、明治4年当時の小濱の歴史を調べてもらえればたすかります。
日本的には、たしか廃藩置県の年かと?激動ですよね。

疑問点ストレートに行きますね。

八荷屋仁兵衛さんは世襲してませんか?1代限りですか?
寄贈した言い伝えの地車は川面東に売却した地車?その後に購入した地車とは考えれませんか?
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すみません (首地蔵)
2011-01-06 21:28:21
お題にかかってなかったですかね(笑)

まずメモ書きですが、お題が書いていないので
何について書かれているか確証はありませんが、東若中に関することは間違いないものです。


以下に再現しますと、

東若中  辛明治4年未正月調之

世    菊屋平兵衛
話    米屋定太郎
人    柴屋安太郎
     
     加茂屋辰之助

施主   八荷屋仁兵衛


これはある方がまだ皇大神社に青年会館があったころに見つけ、メモし今日まで保管されていたものです。(保管分類は”だんじり”にされていました。近日中に再度訪問して話きいてみますが)


加茂屋さん、この方が大工だそうです。。。


八荷屋仁兵衛=澤野仁兵衛、まちがいなく1代限りです。それからつながる今日のM田さんの代まで確実に1名です。寄贈しただんじりの話は現在の川面東の地車についてで間違いないです。次のだんじりについてではないです。


そうですね、明治4年ごろをもうすこしどうにか調べたいとはおもいますが、さてどこからアプローチしたもんでしょうね・・・? 
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築造年 (あにき)
2011-01-07 19:49:16
首地蔵さんひ孫さんの寄贈言い伝えを信じるか?疑うか?で方向が変わりますね(笑)

信じれば、メモが怪しい・・・もしかして施主とあるので地車関連のメモなら明治4年築かも。

疑えば、言葉悪いので疑問を持てば、
疑問の理由ですが、ひ孫当人からしたら3代下の女性が近所の人から聞いた。
地車に携わっている人ならばまだしも外側の人がどれだけ関心を持ち聞いたか?
本当に地車本体の寄贈だったのか?彫物、幕、太鼓といった付属品の可能性は?あるいは、地車蔵とか、

メモについても同じようなかんじですかね。
当時青年団は色んな祭り事をしていたと思いますので正月に必要な何か?
修理の可能性もありますね。

それと東地車寄贈が仁兵衛とすると仁兵衛がバリバリ現役明治14年に売却ですよね?仮に賠償金目的であったとして、寄贈した人が目の黒い内に売却できます?
と私の疑問です。

ただ明治初期は当然あやしい時期ですね。私は彫物のかんじからしてもう少し前の時代かな?と思ってますが、小濱東地車おそらくは先代地車があるでしょうから今の彫物は先代の彫物を付けた可能性もありますよね。

やはり上棟文献がでないとすべて推測ですね。でもそれが楽しいのですが(笑)お互いに(爆)
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お参り (首地蔵)
2011-01-12 19:31:16
あにき様、毎度のご参拝ありがとうございました。やっとパソコンを見ることができました。

言い伝えの件ですが、今度の例はかなり信憑性のある証言だと感じております。というのも逆に言えばまったくだんじりには携わっていない人が自分のところの先祖に関して聞いた話にだんじりがからんでいたということは、この方の思い入れなり、へんな先入観がないだけに思い違いや、聞き間違いはないと思いますし、また近所の人もわざわざそんな話を曲げて話す必要もないと思います。

メモに関してはあにき様ご指摘どおりはもうすこし突っ込みが必要です。申しましたようにM先生に聞かなくてはなりません。

仁兵衛さん目の黒い内の件ですが、これはありえるでしょう。仁兵衛さんの思いよりもお金が優先した・・・そういう事情であったとおもいます。


上記の柴屋さんの子孫の方にも調査依頼しました。ひそかに期待してください!
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ありがとうございます (あにき)
2011-01-12 21:18:26
首地蔵さん。
返信ありがとうございます。
先日お会いした時にほぼ直会話してしまいましたね。(笑)
では、調査のほどよろしくお願いします。
なんかパンチ効いた資料でてきたらいいのにね!
私はちまちま彫物関係あたっております。
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