篠山市下立町 浄土宗 清涼山 来迎寺
永禄年間(1558~70)、波多野秀治が厚い信仰をよせて、八上城下に移して、阿弥陀寺と称した。
篠山築城に際し、新しく城下町が建設されるにあたり、鬼門除けとして、慶長15年(1610)に現在のところに移された。
その時の住職は信誉行意上人で、特に本山知恩院第29世満誉尊照大僧正から清涼山来迎寺の山号と寺号をもらい、未寺四ヶ寺がつけられる。
その後、寛文11年(1671)と文化4年(1807)に大火で焼失したが、間もなくそれぞれ再建された。歴代住職の中には文龍、文笈など音韻学や漢文学者がでている。また、地蔵菩薩木像、鎌倉末期作の三尊来迎図、江戸時代初期作 の大涅槃図、文禄二年(1593)作、奥丹波唯一の名号板碑(板石塔婆とも呼ばれる。板状の石を用い卒塔婆の一種として発生した供養塔で、ほぼ中世にかぎって造立された)などがある。
現本堂彫刻は、文化4年(1807)以降
向拝柱まわりは、浪花 服部一門(推定)ですね♪ 前回紹介した尊寶寺に似通ってますので服部清三良か?
年代的には、服部清七満朝に近い感もあり。再建年は、尊寶寺再建年1819年あたりか?
一部柏原 中井権次正貞作品があるので1819年以前はまだ父丈五郎の代なので1819以降で間違いないかと。
山門
同時期再建なら彫刻は、中井権次正貞
本堂
向拝柱まわり 服部彫刻(推定)
この懸魚は、わかりません。
中井彫刻
書かれていたので、ずばり1821年と考えてます。
中井権次正貞とも年代が合うと思います。どうでしょう。
情報ありがとうございます。
再建年彫と照らしても1821年
又は、竣工は、その後年(1,2年)ですね。
彫刻もそのあたりですね。